4話 調査は踊る、されど進まず -1
リートは自分が今どこにいるのかさっぱりわからなかった。
夢を見ていたような気もするし、今、場所が既に夢の中のような気もした。
その証拠に、赤っぽいナイトランプの灯るこの部屋に全く見覚えがない。
彼女は体を起こし、あたりを見渡す。
ナイトランプの明かりは頼りなく、物につまずく心配がないという程度の明るさだが、それほど広い部屋ではないというのはわかった。
床の上ではクッションを枕代わりにして寝息を立てている陽子の姿があった。
意識がはっきりとしてきたのか、リートは先ほどまでが夢で、今こうしている場所が現実の世界だということを思い出した。
時針がなく、数字だけが青白く光る妙な時計によれば時刻は午前三時を少し過ぎたころだ。
「……夢、か」
彼女は母国語で呟いた。
できるならあのまま夢の世界にたゆたっていたかった。決して楽しい夢ではないが、少なくとも安心感はあった。
あちらでは見る物、会う人、全てが自分の知るものだった。だが、この現実世界に自分を知り、自分の知るものは何一つない。
現実の方が夢の世界としか思えないという皮肉に、リートは小さく鼻を鳴らして笑った。
自分の臭いがしないベッドとシャツが、一層この現実を空虚なものに感じさせた。だが、これこそが現実なのだ。
そのことを改めて認識すると自然と涙が溢れてきた。
リートは手の甲で涙を拭うが、一度や二度では追いつかなかった。涙を拭えば拭うほど、不安感と孤独感は増し、こぼれる涙の量は増えた。
それがまた悔しくて、彼女は背を丸めて歯を食いしばる。
「帰りたい、帰りたいよ……どうして、お父様は私を……どうして……」
そこに、昼間のように冷静で、不遜なリートの姿はなかった。ただ、今にも不安と孤独に押し潰されてしまいそうな少女が一人、すすり泣いているだけだった。
その様子を、床に横たわる陽子は薄目を開けて聞いていた。
ドイツ語といえば、シュバルツカッツェとレーベンブロイしか知らなかったが、何故リートが泣いているのか気づけないほど陽子は鈍感ではなかった。
リートの嗚咽を聞きながら、陽子は小さく息を吐き、改めて寝入ることにした。
慰めの言葉をかけることばかりが優しさではない。
陽子はそのことをよく知っていた。
防衛省の見学者用の申し込み窓口を兼ねた正面ゲートを前にして、悠人は光が何故明日にしようと言ったのかようやく悟った。
今日は土曜日だ。ほぼ丸一日時間が自由になる。
防衛省の建物は悠人が思っていたよりも近代的で、敷地もかなり広いようだった。
ゲートなども基地然とした実用一辺倒のものではなく、茶のブロックに緑の屋根が乗った、どこか高級ホテルを思わせるような佇まいを持っていた。
その前で、ワイシャツに昨日と同じスカートとブーツを身に着けたリートが守衛らしい男と先ほどからずっと話しこんでいる。
「やっぱり陽子さんにもついて来てもらった方が良かったんじゃないか?」
悠人の隣で白っぽいチノパンにピンストライプのカジュアルシャツを身に付けた智彦が呟くように言う。対して悠人はベージュのヘンリーネックのシャツに黒いジーンズといういでたちだ。
日本語が堪能とはいえ、日本そのものには不慣れなリートを一人でいかせるのは悠人も不安だった。だが、彼女は頑として譲らなかったのだ。
防衛省まではついてきても良いが、専門部署――そんなものがあるのか誰も知らなかったが――への取次ぎは自分でやる、と。
不安が急に現実味を帯びてくる。リートの激昂する声が二人の元に届いたからだ。
見れば、リートは欧米人らしいオーバーアクションで守衛に食って掛かっている。
「そろそろ行ったほうが良いんじゃないかな……」
悠人の言葉に智彦は無言で頷き、二人で駆け出す。
「私はドイツ帝国に所属する人間だと何度言わせれば気が済むのだ!? 貴様では話にならん、上官を呼べ。下士官なぞ呼ぶなよ? 将校を呼び出せ! 今すぐだ!!」
華奢な彼女の体からは想像できないほど鋭く、大きい声。妙に迫力のある鬼気迫る声だった。
彼女が沸騰するまでにどんなやり取りがあったかなんとなく想像はついた。
彼女にしてみればその憤りは正当なものかもしれない。だが、守衛にとっては不条理極まりないものだろう。
守衛の顔はオリーブグリーンのヘルメットに隠れ表情を伺うことは出来なかったがリートをなだめすかそうとする仕草から、相当困っているのが見て取れた。
悠人は少しだけ守衛に同情した。彼らはただ、「怪しいヤツを通すな」と命令を受けその通りに仕事をしているだけのはずだ。
客観的に見て、今のリートはその「怪しいヤツ」に他ならない。
悠人は遺憾に思ったが、それはどうしようもない事実だ。
「もういい! 通らせてもらう!」
守衛を一喝し、リートは強引にゲートを通り過ぎようとする。このままでは不味いことになりかねない。
ようやく追いついた悠人は、強行しようとしている彼女の体を抱えるようにして引き止める。
「スンマセン。彼女、ちょっと勘違いしてるみたいで」
間髪入れず智彦がリートと守衛の間に割って入り、頭を下げる。
「ああ……そうだろうな」
くたびれた笑みを浮かべた守衛はそう言って、速く連れて行けとジェスチャーした。
彼の口元は一応笑みの形を作っていたが、目は全く笑っていなかった。
「もう行こう、リート」
「ああ……」
力なく応じたリートは折れてしまいそうなほど華奢に思えた。
今にも光の粉となって消えてしまいそうなリートに悠人は手を差し伸べたかった。
ばらばらに砕け散ってしまうのを自分の手で食い止めたかったが、気軽に手を差し伸べるには、彼は少し冷静すぎた。
彼女の背負う物の大きさの前に、自分が如何に無力であるか、彼は悟ってしまった。
それが、悠人には悔しくて堪らなかった。
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