2話 過去から来た少女 -4

 リート自身の証言もあって、悠人たちはようやく光の誤解を解いた。そして、悠人の母親が帰ってきたことで、四人は二階にある悠人の部屋へと場所を移すことにした。

 四畳半の部屋にベッドとデスク、本棚やコンポの乗ったサイドテーブルなどが押し込まれており、決して広いとは言えない。だが、部屋に篭る習慣がないのか、彼の部屋はそれなりに片付いていた。

 その部屋で悠人はデスクの椅子に座り、智彦と光は少し離れてベッドに。そして、リートは扉のすぐそばで胡坐をかくようにして座っている。

 両手を前に置いて隠してはいるが、悠人の位置からはスカートの中の白いレースが見え隠れしていた。

「とにかく、イチガヤへ行きたい。行けば何か分かるかもしれないのだし……」

 目のやり場に困っていた悠人をよそに、リートが静かに切り出す。

 悠人は彼女がもっと錯乱するのではないかと思っていた。しかし、彼女はしばらく涙を流した後、こうして平然としていた。

 戦争中に生きた人間は、常に祖国の滅亡や、今までの生活が全て崩れ去ってしまうような出来事を覚悟しているものなのか。

 しかし、理解の範囲を超える出来事を目の前に突きつけられれば、存外そんなものかもしれない。

「えーと、リート、ちゃん?」

 光がおずおずと声をかける。

「これから、行っても今日はもう遅いから、明日にしたほうが良いんじゃないかな?」

 彼女の言葉にリートは軽く腕を組んで考え込む。隠れていた部分が露になり、悠人は慌てて視線を反らす。

 だが、はっきりと見えてしまった白いショーツが脳裏にこびり付いて離れなかった。

「私も翌日のほうが良いように思う」

 彼女が答えを出すのは早かった。光もゆっくりと頷く。

「リートちゃん、泊まるあてはあるの?」

「あてはないが、二、三日の野宿なら覚悟している。幸い、気候も穏やかなようだしな」

「ダメよ!」

 平然としているリートに対して光が声を荒げる。

「女の子でしょ? 野宿なんて危ないわよ!」

 リートが形のよい眉を寄せ、申し訳なさそうな表情になる。

「かと言って、これ以上世話になるわけにも行くまい。それに、あなたが考えているような心配は無用だ」

 相変わらず彼女の素性は分からない。だが、彼女の言葉は自信に裏打ちされたしっかりとしたものだった。

 悠人には彼女の反応が虚勢の類には見えなかった。軍服を着ているということは、やはり軍人だったのだろうか。

 そんなことを漠然と考えながら口を開く。

「でもさ、どうするんだよ? 俺や智彦のうちに泊めるって言うんじゃないだろうな?」

「当然でしょ」

 光は悠人の言葉を一蹴し、二の句を継ぐ。

「さっきお姉ちゃん呼んだから、頼んでみようと思うの」

「陽子さんか……」

 智彦が表情を曇らせる。

 光の姉、狩井陽子ようこのことは悠人も良く知っていた。三つ年上ではあるが、何かと世話を焼いてくれる。

 彼女は弟が欲しかったらしく、悠人や智彦を弟のように思っているらしい。特に智彦は陽子のお気に入りで、いろいろと〝可愛がられて〟いる。

 確か彼女は大学二年でこの近所に一人暮らしをしていたはずだ。

「陽子姉さん、今日はバイトない日なの?」

 智彦をよそに、悠人は光へ問いかける。

 陽子に小間使いのように使い倒されるのを智彦はまんざら嫌がっていないことを知っているからだ。

「すぐ来るって、言ってたからもうすぐ来るんじゃないかな」

 光は言って、携帯電話のモニターを見せる。「わかった、すぐ行く」という文字が液晶画面に浮かび上がっている。

 用件だけを答える男のような文面はまさしく陽子のメールだ。

 やがて、バイクのエンジン音が近づいてくる。エンジン音は悠人の家の前で止まる。そして、インターホンが鳴り、母親が応じる。

「おっす」

 少しはスキー気味の声で言って陽子は悠人の部屋の扉を開け、長身の陽子が姿を現す。

 彼女は一七三センチある悠人より確実に高い。手足はすらりと長く、あまりアンバランスな印象はない。

 これでもかと自己主張するバストと引き締まったウェストが女性らしいラインを作り、小作りな顔にぷっくりとした唇と細いレンズのめがねをかけた少したれ気味の眼が、優しげでいて艶っぽい顔立ちに仕上げている。そして、ショートの髪は襟足だけを黒く残して金色に染めていた。

 このちょっとしたモデル並みのスタイルをカーキのカーゴパンツと黒いTシャツで覆い、即引き締まったと、へそを僅かに外へ晒している。

「あ、どうも陽子姉さん」

 悠人の言葉を入室の許可と取った陽子はそのまま部屋の中へと足を踏み入れる。

「また、今日はずいぶん入ってるわね」

 既に四人いる部屋に陽子はそう漏らし、ベッドの際までやってくる。

「智彦どいて」

「はい」

 彼女の求めに智彦は神妙に応じ、光の隣を空ける。

「それで、アタシは事情が良く見えないんだけど、誰か説明してくんない?」

 ベッドに腰を下ろしながら誰にともなく問う。リートが、自分が言ったほうが良いのだろうか、という顔をする。

「とりあえず、俺たちも良くわかってないんだ……」

 リートの表情に気づいた悠人が口を開く。いきなりナチスドイツの話をされても陽子だって困ってしまうだろう。

 そう考えてのことだった。そして、悠人は陽子に今までの経緯を説明する。

 一通り聞いた陽子は案の定渋い表情をしていた。

「アンタの言いたいことはわかったわ。でも信じる気にはならないわね……七十年前からやってきたなんて」

 陽子は言い、リートへと視線を向ける。悠人の話だけでは判断がつかないようだった。

「何か、自分を証明できるものを持ってない? 免許証とか、学生証とか」

「……ゾルトブーフがある」

 リートは少し考えてから言って、胸のポケットから布の表紙がついた手帳を取り出す。そこにも鷲と鍵十字の意匠がプリントされていた。

「見せてくれる?」

 リートは頷き、手帳を手渡す。

 陽子はそれを受け取ると、表紙を一瞥してベッドの真ん中で胡坐をかいていた智彦へと渡す。

「確認。こういうのはアンタの専門でしょ?」

「別に専門てわけじゃ――」

「詳しいのは確かでしょ」

 陽子は抗議を遮る。智彦もそれ以上言わずリートの手帳に視線を下ろす。

「リートちゃん、ゾルトブーフって何?」

 そのやり取りを見ていた光が問う。

「兵士の身分証だ。生年月日、階級、賞罰、保有する資格や健康状態などが書かれている」

 リートは少し言葉を選びながら応じる。

「じゃあ、リートちゃんは兵隊ってこと?」

「そうだ」

 リートは自信を持って頷き、光の方は目を丸くした。

「どう? 本物?」

 二人の会話をよそに陽子は智彦へ振り返る。彼女の言葉を聞いたリートが「当然だ」と口をへの字にした。

「正直、本物かはわからない……一応書いてあることはそれらしく揃ってるけど」

 ぺらぺらとページを捲りながら智彦が答える。

「けど、ごく最近作られたものだと思う」

「そんなのアタシだって見ればわかる」

 あてにならない、と言わんばかりの陽子に智彦は眉を下げる。

「そんなこと言われたって……」

「まぁ、良いわ」

 彼の表情に、陽子はどこか楽しげに小さく笑みを浮かべ、妹へと向き直る。

「それで、アタシにどうして欲しいわけ? なんとなく想像はつくけど……」

「えーと……あのね、お姉ちゃん」

 言い出しにくそうな光を陽子は急かさなかった。だが、彼女の視線はしっかりと妹の目を見ていた。

「リートちゃんをしばらく預かって――」

「嫌よ」

 光の言葉を最後まで聞くことなく陽子が言った。どうやら、光の提案は陽子の予想通りだったらしい。

「犬や猫を軒先で飼うのとはわけが違うのよ? 七十年前から来たって言うのが、嘘か本当か知らないけれど素性のわからない人間を部屋に入れるほどアタシはお人好しじゃないわ」

 光の表情が見る見る曇ってゆく。

 陽子の反応は全く当然の反応だ。彼女はさらに続ける。

「これだけ可愛い娘が困っていれば助けたくなるのが人情でしょうけど、アンタ達まだ高校生よ? 自分たちはもう大人のつもりかもしれないけど、アンタ達が自分で出来ることなんて本当に限られてるの、そこん所わかってる?」

 こちらは悠人たちに向けたものだが、辛らつな言葉だった。

 彼らにして見てもいつも良くしてる姉のような人だから、きっと受け入れてくれるはずだ。そんな甘えがなかったと言えば嘘になる。

 陽子は悠人たちに当然考えるべき現実を指摘したに過ぎない。

 悠人に返すべき言葉はなかった。

 いつも味方になってくれるはずの陽子がこの時はどうしようもなく大人に見え、それがやるせなかった。

 だが、リートをこのままにしておけないとも考えていた。

 何故彼女にここまで深入りしようとするのか、彼自身良くわかっていなかった。だが、 帰る家や知り合いもいない。七十年前の世界からやってきた少女に悠人は手を差し伸べたかった。

 そこに理由があるとすれば、妖精のように繊細な彼女の身体と美しい金髪を見てしまったからだろう。

 だが、なんと説得するべきかわからなかった。

「…………」

 話すべき言葉が見つからない。そんなもどかしさが悠人の眉間に皺を寄せる。

「貴女の言うことはもっともだ」

 不意にリートが口を開く。彼女は陽子の言い分に納得しているらしい。

「私も、野宿でもして凌いでしまおうと考えていた。だが、状況の見通しが立たなくなってしまった以上、貴公らに頼らざるを得ない……」

「それで?」

 陽子はリートの話をどこか楽しそうに聞いていた。

「身の振り方を決めるまで、泊めてもらいたい」

「具体的には?」

「まずは七日間」

「アタシだって鬼じゃないわ。事と次第による……」

 リートは件のベルトから金貨を取り出す。その数は一枚。

「これでどうにかなるか?」

「現金はないの?」

「ない。それだけだ」

 陽子は少し体を持ち上げてリートから金貨を受け取る。そして、その意匠を見る。

「本物かどうかは知らない。でも、ナチスの隠し資金って話は昔からある」

 智彦が口を挟む。陽子は口の端を持ち上げ、他の二人を見やる。

「アンタたちも貰ったの?」

「俺たちは二枚貰った……」

 悠人は答えてしまってから後悔した。黙ったままでいれば、陽子の金貨の数が少ないことはばれなかった筈だ。

陽子はリートへと視線を向けなおす。

「何でアタシは一枚なのかしら?」

 陽子の声は咎めるようなものではなかった。ただ、純粋に交渉の駆け引きを楽しんでいるような雰囲気だった。そして、リートも少なからずこの会話を楽しんでいるように見えた。

 アメを並べ、ムチを振るいあう二人を悠人はなんだか遠くに感じた。

 陽子へは改めて彼女が年上であることを痛感し、その陽子と対等に駆け引きをするリートには自分よりも遥かに『大人』な一面を見た気がした。

「とりあえずの分だからだ。万一伸びることがあった場合、追加で払うことが出来ないと困る。見たところ、貴公らは親しいようだから融通しあって欲しい」

「……しっかりしてるわ」

 陽子は薄く笑みを浮かべながら頷いた。そして、また体を持ち上げてリートへ右手を伸ばす。

「交渉成立。しばらくうちにおいてあげる」

 リートもようやく表情を僅かに緩め、その手を握り軽く上下に振る。

「よろしく頼む」

「ただし、何かのトラブルがあった場合は――」

「わかっている。その時はおとなしく出て行く」

「それじゃあ、よろしくね。リート」

 二人の表情は気持ちの良い頭脳ゲームだったと言わんばかりに晴れやかなものだった。

 とりあえず、彼女の生活の問題が解決しそうなのは喜ばしいことだった。そして、やはり陽子は頼りになると思った。

「あ、そうそう」

 リートから手を離した陽子は悠人たちのほうへと向き直る。

「アンタたち、後で金貨一枚ずつアタシに頂戴」

「は?」

 悠人は思わず間抜けな声を出す。他の二人も声こそ出さなかったが、突然の言葉にぽかんとしている。

「この中で一番私が割を食ってるんだから、そのくらい当然でしょ?」

「でもよ、陽子さん――」

 智彦が珍しく反論する。

 マニアのご多分に漏れず、彼の理論武装は中々のものだ。それが正しいかどうかはともかく、相手を論破する技術はかなり高い。

「智彦、文句ある?」

「謹んで進呈させていただきます」

 議論にすらならなかった。智彦はとにかく陽子には弱い。陽子に何か弱みでも握られているのだろうか。悠人は一瞬で撃沈させられた智彦を見てそんなことを思った。

 驚いたとはいえ、金貨を差し出すことに反対はなかった。実際、一番面倒な部分を引き受けてくれたのだから、それぐらいしても良いはずだ。

 それに悠人は、金貨を換金する方法など知らない。だが、陽子には何かあてがあるのかもしれない。

 扱い方を知っている人間の手にあるほうが、金貨も威力を発揮できるはずだ。

 悠人は金貨を取り出そうとポケットへ手を突っ込む。智彦も光も同じように金貨を取り出して陽子へと渡していた。

 きっと皆似たようなことを考えていたのだろう。

 皆がリートのことを考えてくれている。そのことに悠人は安堵していた。

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