夜陰

 アウリタ王国の首都、サウラアンキ。

 この都市は二つの町からなる。

 堅牢な防壁に守られた〈城下町〉と、防壁の外側にへばりつくようにして広がる〈外町〉である。


 比較的裕福な市民が暮らす城下町に対し、外町で生活しているのは多くが商売人と低賃金の労働者である。中には城下町で職にあぶれるなどして暮らせなくなり、外町に者も含まれている。


 元々は、城下町に出入りする人間を相手に商売を始めた者が、防壁の外で勝手に家を建てて暮らすようになったのが外町の原型であり、現在は首都の一部として認められている。

 しかし、区画が整理されてはいるものの、城下町と比べるとみすぼらしい家々が建ち並び、住民の入れ替わりが激しいこともあって、治安は良くない。

 とは言え、商売人の町特有の活気に満ち溢れており、国全体が経済的に豊かであることから、治安の悪化も深刻な段階には至っていない。


 職を求めて地方から上京してくる者、品物を求めて離れていく旅商、住民の入れ替わりは、言ってみれば人体の新陳代謝にも似た活動であり、外町は、アウリタ王国が今まさに生きていることを実感できる場所でもある。


 外町の外れ、首都で最も標高が低い区画に、主に日雇い労働者が利用する簡易宿泊施設が建ち並ぶ〈ドヤ街〉がある。

 標高のみならず、住民の平均収入も最も低い一画であるが、人の入れ替わりがあまりに激しいために、犯罪者が住み着くこともなく、逆に治安は良いとされている。


 そのドヤ街を縫う細く薄暗い道を、一人の少女が急ぎ足で歩いていた。


 時刻は深夜。

 ドヤ街に精霊石を利用した街灯などあるはずもなく、光源は飾り気の無い建物から漏れる僅かな灯りだけ。十代と見える少女が出歩くには、場所も、時間も、到底相応しいとは言えない。


 少女は腰まで届く黒髪を靡かせて、夜闇に溶け込むような黒いコートを羽織っている。手には黒い十字の模様が描かれた灰色のマフラー。これは、少女が商売などを目的に一時的に入国した者であることを示している。


 夜に怯える様子も無く歩いていく少女は、やがて石の棺のように無骨な建物へと入っていった。

 それは二階建ての簡易宿泊所であり、少女はこの建物の二階の端にある部屋を仮の宿としている。


「ただいま戻りました」


 足早に二階へと上がり、挨拶をしながら少女は部屋に入った。

 古びた木製の扉は建て付けが悪く、ギィと嫌な音を立てた。


「おっかえりなさぁ~い」


 間延びした声で少女を迎えたのは、ぶかぶかのシャツに下はショーツ一枚という、だらしのない格好をした女性である。

 茶髪のショートヘアに縁取られた小顔は相当な美貌であるのに、これでは同性であれば目を逸らし、異性であれば露出された素足に目を奪われ、誰も顔を見てくれないのではないだろうか。


 後ろ手に扉を閉めた少女は、女性が手に持って揺らしている物と、鼻につく甘ったるい匂いに眉を顰めた。


「またお酒ですか」


 呆れを隠さない声に、女性はキョトンと目を丸める。


「あら、違うわよ」

「では、その手に持っているビンはなんです。お酒でしょう」

「これは果実酒。んふふ、果実酒なんてジュースと同じじゃないの。リンちゃんも飲む?」


 赤らんだ顔をにやけさせながら言うが、ビンの中身はほとんど空だった。同じ形のビンが三本ほど床に転がっているが、こちらも例外なく空である。


「飲みません。私は未成年です」

「それはの話でしょ? ならもう立派な成人……ってか、子供はお酒を飲んじゃいけません、なんて面倒な法律は無いんだし、じゃんじゃか飲んじゃっていいのよ~?」

「どちらにせよ、飲みません」


 酔客の誘いをピシャリと断りながら、少女はマフラーとコートを備え付けのコート掛けに預け、扉と同じく嫌な音を立てる木製のベッドに腰掛けた。


 室内には、数枚の板を組み立てただけの粗末なベッドが二つしか無い。しかも、それだけでいっぱいになってしまうほど狭い。照明器具と言えば今にも折れそうな燭台がいくつかあるだけで、防寒のためか高い位置にある窓は小さく、まるで独房のように感じられる。

 あくまでも寝泊まりするだけの部屋だ。うら若く、見目も麗しい少女と女性の二人には、誰が見ても不似合いである。


「外、寒くなかった?」


 新しい酒瓶を開けながら、女性が言った。彼女もまた、自分の少女と同じくベッドに腰掛けている。この部屋に椅子は無い。


「寒いですよ。だから急いで帰ってきたんです」

「マフラー巻けばよかったのに」

「大して変わらないでしょう。それに、あんな質の悪いマフラーを巻いたら髪が傷みます」


 言いながら、少女はベッドの上に置かれていたタオルで、艶のある黒髪を丁寧に拭く。言うまでもないが、タオルはこの部屋の備品ではなく、少女が自分で持ち込んだ物だ。


「リンちゃん、髪、奇麗だもんねぇ~。手入れ大変じゃない?」

「ええ、とても。ドライヤーが恋しいです」

「霊術で乾かしてあげよっか?」

「いいですよ。焦がしたら斬りますけど」

「じゃあ、やめとく」


 女性は即答し、果実酒のビンに口をつけた。年頃の女性とは思えない、大胆なラッパ飲みである。

 口の端から零れた酒の一滴が、顎を伝い、首を流れ、シャツを押し上げる豊かな胸の谷間へと落ちた。


「……ぷはぁ! んん~、この国のおさ……ジュースは美味しいねぇ~!」

「お酒だと自分で認めているじゃないですか。飲み方が下品ですよ」


 大胆すぎる飲みっぷりにも慣れているのか、少女はそれ以上、飲み方を窘めることはなかった。


「それでさ、どうだった? この国のお風呂のほうは」

「公衆浴場なんてどこの国でも同じでしょう。最低ですよ」

「やっぱりねぇ~」


 少女のキッパリとした言いように、女性はカラカラと笑った。


 深夜の今頃に少女が外を出歩いていたのは、ドヤ街の中心近くにある公衆浴場で身を清めるためだった。

 浴場と言っても湯船は無く、溜め置かれた温水で体を流すことくらいしかできないが、それでも女性の労働者にとっては大切な施設であり、利用者は多い。少女は混雑を避けるために深夜になってから利用したのだった。


「あそこ、覗き穴あったでしょ。気づいた?」


 少女よりも早い時間に浴場を利用していた女性が、ニマニマしながら言った。


「ええ。私が入っている間も、誰かが覗いていましたね」

「……へ? ちょ、ちょっとちょっと。ダメじゃないの、そんな」

「何がですか?」


 こともなげに「入浴を覗かれていた」と言う少女に、女性は笑顔を消し、慌てた仕草で酒瓶を床に置いた。


「覗かれてたの? 本当に?」

「確かですよ。視線と気配を感じましたし、耳を澄ませば吐息も聞こえました。随分と鼻息を荒げていましたね」

「そりゃそうでしょうよ……」


 普通に服を着て、ただ道を歩くだけでも男の目を引きつけるような美貌を、少女は有している。その裸身を誰に邪魔されることなく眺めることができるのだ。鼻息どころが鼻血を吹く男がいてもおかしくない。


「リンちゃんは気にならないわけ? 裸見られてさ」

「別に。その視線に殺意でも込められていれば話は別ですが」


 無防備を通り越して無関心という様子の少女に、ここまでの旅路を共にしてきた女性は、今さらながら気づかされる少女の異常性に、呆れ混じりの溜め息を吐いた。


「気づいていたなら、剣でブスッとやっちゃえばよかったのに。覗き野郎の目玉をグリグリ! ……って」

「そんな使い方しませんよ。髪よりもずっと神経を使うんですから、コレの手入れには」


 少女は「コレ」と言いながら、傍らに置いた棒状の物体を撫でた。


「大体、トーコさんのほうはどうなんです?」

「ん? 私?」

「先に浴場に行っていたでしょう? そのときは覗かれなかったんですか?」

「さっきはすんごい混んでたもの。芋洗いって言うの? 覗きなんかする臆病な男に大勢の女性を敵に回すような度胸ないでしょ。それに――」


 女性はベッドの脇に置かれた革製のケースを軽く叩いた。


「私だったら、頭ぶち抜いてるわ。この子で♪」


 満面の笑みを浮かべる女性に、今度は少女のほうが呆れ顔をした。


「無駄遣いですよ、それ」

「贅沢、って言ってくれる?」


 女性は足を組み、床に置いた酒瓶を手に取った。

 すでに中身は半分ほどに減っていた。


「それにね、リンちゃん。あんまり覗き魔を調子に乗らせると、本当に危ないことになったりするんだからね? カモだと思われて、また次に入るときも覗かれちゃうかもしれないわよ?」

「そういうものでしょうか?」

「そうよ。確かに、覗きだけなら実害はないけど、エスカレートして帰り道に襲われたりしたら大事おおごとじゃないの」

「私としては、そのほうが楽ですね。斬れば解決しますから」

「ダメダメ! 騒ぎになったら困るでしょ!」

「別に構わないのでは? どうせ明日になればこの町を去ることになるのですから」


 少女は話ながら立ち上がり、髪を拭いて濡れたタオルを、ベッドの間に紐を掛けて作った簡易な物干しに吊した。


「何言ってるの。まだを用意してないじゃないの」


 女性の言葉に、少女の動きが止まる。


 黙ったまま女性と向かい合う位置に腰掛けると、少女は女性の丸っこい瞳を真剣な表情で見据えた。


「諦めていないんですか、トーコさん」

「モチのロンよ♪」


 赤ら顔でニンマリと笑みを作り、指を立てて女性が言った。

 ふざけた仕草にも本気を感じ取ったのか、少女は溜め息を吐いた。


「無理ですよ、もう。防壁の門は閉じられましたし、警戒もされます。コチラの手札を見せてしまったんですからね」

「だから、この町でしばらく暮らして、チャンスを待てばいいじゃない」

「その前に近衛師団に見つかります」

「大丈夫、大丈夫。城下町だけならともかく、外町まで完璧に調べ上げるのは無理っぽいでしょ? こんだけ人の出入りがあるんだから。このままビアンさんの商隊にいさせてもらえば見つからないわ」

「チャンスを待つ、というのはいつまでですか?」

「さあ?」


 両手の平を上にして肩を竦めてみせる女性に、少女は全力で不快の表情を浮かべて応えた。

 覗き魔のことなど少女は気にも止めていないが、あの清潔とは言いがたい公衆浴場を何度も利用するのは避けたい。


「……本気ですか」

「そ。マジよん♪」


 しかし、目の前の女性は少女の顔に浮かんだ「不快」の二文字を、どうあっても無視するつもりのようだ。


「だから言ったんです。を狙うのはやめようって」


 諦めを吐息に混じらせながら、少女は言う。


「他に狙えそうな要人はいくらでもいたじゃないですか。側室に、宰相に、あの近衛師団長なんて特に狙いやすかったでしょう? いつもイの一番に自宅に帰るから行動が読みやすいし……」

「ダメ。彼はダメよ。リンちゃん」


 女性は真剣な表情で言った。


「何故ですか?」

「好みのタイプだから♪ ……って、ちょっと待って! 冗談! 冗談よ、リンちゃん! だから斬らないで!」


 おもむろに傍らの棒へと手を伸ばした少女を、女性は必死の表情で止めた。


「こちらも冗談ですよ。貴女は

「そこは、、って言ってほしいわぁ……」


 少女が自分を斬らないのは、斬れない理由があるからにすぎないと、女性は知っている。目の前の少女が、誰に対しても、ではなく、でしか判断しないことも。


「でもね、リンちゃん。心配しないで。アテならあるのよ」

「アテ、ですか?」

「リンちゃんも聞いたでしょ? 商人さんたちが話してた、公開処刑の噂」

「いいえ。混乱していたようですからね。騒ぎに巻き込まれるのは嫌ですから、近づいていません。まあ、混乱していたのは私たちのせいですが」


 少女と女性が城下町で行ったことの影響で、堅牢な防壁に二箇所だけある門は閉ざされてしまった。常ならばありえないことに、外町で仕事をしている商人たちが激しく動揺していたのを、少女は知っている。


「ミ・タウっていう国の王様の処刑を、城下町でやるんじゃないか……って噂。そのときまでには門が開かれるだろうって話してたわ」

「門が? それはまたどうして?」

「お祭だからよ。公開処刑がね。自国の力を誇示するために処刑するんですからね。国の内外から人が集まるし、大きな商機だって、商人さんたちも言っていたわ」

「お祭? 処刑が? ……の倫理観は理解できませんね」

「あら、そうでもないわよ。だって公開処刑がお祭騒ぎだった時代があるもの。現代いまだって、大罪人を公開処刑するってなって、それを見ても罪に問われないって言うなら、結構な数が集まるんじゃないかしら?」

「どちらにせよ、理解はできません。まあ、世間の人々からしたら、私の倫理観のほうが理解できないのかもしれませんが」

「それは私も同じよん♪」


 女性は革の鞄を愛おしそうに撫でながら苦笑した。


「ともかくね、門さえ開かれればまだチャンスはあると思うの」

「罠ですよ」


 少女は会話を切るように言った。


「もし、噂の通りに公開処刑が行われて、門が開かれたとしたら、それは私たちを誘い込む罠と考えていいでしょう」

「どうしてそう思うの?」

「私が彼ならそうするからです」

「はっきり言うのねぇ……」

「罠と考えていたほうが安全、という意味でもあります」


 女性は少し考える間を置いて、言う。


「リンちゃんは、どう思った? 彼、斬れそう?」

「斬れます」

「あら、自信満々?」

「ですが、私も斬られるでしょう。腕の一本、足の一本は覚悟しないと無理ですね。それはつまり」

「つまり?」

「トーコさんにいただいた報酬では割に合わないということです」


 数秒ほど、沈黙が狭い室内を支配した。

 少女と女性は、燭台の揺れる灯りの中、見つめ合った。


「増額してほしいってこと?」

「いいえ。いくら積まれても手足を捨てることはできません。それでも彼を斬れと言うのなら、私は報酬をお返ししてここを去ります」

「え~……それは困っちゃうわぁ……」


 女性は空にした酒瓶を床に転がし、ベッドの上で膝を抱えた。


「暗殺は失敗しちゃうしぃ~……リンちゃんが無理なら私だって無理よぉ~、彼の相手はぁ~……」

「ですから、彼を狙ったのが間違いだと言っているんです」

「だって、仕方ないじゃない」


 女性は拗ねた子供のように口を尖らせる。


「普通思わないでしょ? ライフルの弾を切り落とせる人間がいるなんてさ」

「いるじゃないですか。に」

「だから~、もいるなんて思わなかったってこと!」


 女性は困り果てたように頭を膝の間に挟み込んだ。

 うーん、うーん、としばらく唸ったあと、女性は顔を上げて言う。


「じゃあさぁ、リンちゃん、足止めくらいならしてくれる?」

「どれだけの時間かにもよりますが、できますよ。でしょうし、膠着状態に持ち込むのは簡単です」

「それならまあ、なんとかなるかしらねぇ? 今回は、あの人も動いてくれるらしいし、最悪、公開処刑をメチャクチャにしたってだけでもイディス帝国の人は喜ぶでしょうしね」

「あの人とは?」

「前に紹介したでしょ? 勲章自慢のおじさん」

「ああ、あの男ですか。人間的に信用できるかは置いておくとしても……使えるんですか、アレ」

「わかんないけど、離脱だけ手伝ってもらえればいいでしょ。上手く動かなかったとしても、特に困らないし」

「そうですね」

「じゃあ、そういう感じで、ちょっと計画詰めてみようか?」


 女性は抱えていた膝を放し、ベッドの端に座り直した。


「私はもう寝るつもりだったんですが……」


 少女は薄桃色の寝間着姿だった。公衆浴場を上がったとき、すでに着替えていたのである。


「明日は休みをくれるって、ビアンさん言ってたし……ね! ちょっとだけでいいから! お願い!」

「そう言われても……」

「じゃあ、あれ! あれ買ってあげる! リンちゃんの好きなお菓子! えーっと、なんて言ったっけ……」

「クーペですか?」

「そうそれ! それ買ってあげるから! お願い!」

「そこまで言うなら、わかりました。お付き合いします」


 あくまでも強請ねだられて仕方なく、という風に言う少女。

 しかし、その黒目がちな瞳が期待に輝くのを、女性は見逃さなかった。こういう僅かに垣間見える子供っぽさに男は揺らぐのだろうな、とも思った。


「そう言えば、あのお菓子を売ってた屋台のお兄さん、結構いい男だったわよね」

「よく覚えていませんが、そうでしたか?」

「体つきもよかったし、好みのタイプだわぁ~。明日、口説いちゃおうかしら。上手くいったらここに連れ込んでもいい?」

「構いませんよ。斬ってもいいなら」

「じゃあ、やめとく」


 女性は即答し、新しく開けた果実酒のビンに口をつけた。



 そうして、少女と女性――篠突凜しのつき りん四阿遠子あずまや とおこの夜は更けていく。

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弾かれ者の異世界戦記 乙姫式 @otohimeshiki

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