自問

 あらゆるものが寝静まっていた。


 夜は全ての存在に等しく訪れ、眠りの海へと優しく誘っていく。


 そうして、今や、部屋全体が海の底に落ちていた。


 精霊石によって現出した暖炉の火は、その勢いを落とし、息を潜めるように小さくなって、音も立てず控えめに揺らめいている。

 防寒のために二重になった窓は、微かな風の音すらを拒む。


 深夜。


 ひとりで使うには大きすぎるベッドの上で、リュートは温もりを抱いていた。

 耳に届くのは、腕の中で眠る少女の立てる寝息だけ。


「……すぅ……すぅ」


 幼い新妻、リズは、リュートの腕を枕にして眠っていた。時折、母猫の温もりを求める子猫のように、一糸纏わぬ肢体をリュートの体に擦り寄せてくる。情欲よりも庇護欲を掻き立てられる仕草に、リュートはむず痒さを覚えた。


 起こさないよう気をつけながら、リズの頬を撫でる。

 指先が、頬に残る涙の跡を感じた。リュートを受け入れる痛みと、そして安堵と幸福が流させた涙だ。


 宝石のようなオッドアイから雫が零れた瞬間を、思い返す。

 痛みと緊張で体を強張らせながらも、リズは懸命にリュートを受け入れようとしていた。彼女の小さく細い体は汗に塗れ、涙と同じように、暖炉の炎に照らされて輝いていた。


 今、その灯りは抑えられ、代わりに部屋を満たしているのは、窓から差し込む青白い月の光。

 夜の静寂を深海に例えたくなるのは、おそらく、この月の青さが原因だ。


 月光の深海で、人肌を揺り籠にして眠るリズ。


 その、向こうに――


「なんとまあ、幸せそうな寝顔じゃないか」


 ――女がいた。


 目が覚めるような水色の髪、頭に突き刺さった太陽系、卑猥としか表現のしようのない格好は、布団に隠れていて見えない。


〈むこう〉を弾き出されたとき、暗黒の中で出会ったが、リュートとリズと同じ一枚の布団を被って、そこにいた。


「こういうのをアレだ、川の字で寝る、というのだろう? 君にとっては新鮮じゃないか? いっつも女に挟まれる側だものな」


 人を小馬鹿にするような笑顔を浮かべて、女は言う。暗黒の中で見た笑顔と、同じ笑顔だ。


「しっかし、木崎竜人きざき たつひとくん。君、やっぱりロリコンの気があるんじゃないかね? あれから二年が経とうというのに、私の姿は変わらないし、リズに随分と優しくしてあげていたろ? シオンや他のメイドを相手にするときとは偉い違いだった。彼女らが知ったら妬くよ」


 言いながら、女はリズの頬を突いた。

 しかし、リズは何も感じていない様子で、眠り続けている。


「……いつまで付きまとうつもりだ」


 リュートは女の腕を掴み、声を低くして言った。


「馬鹿を言っちゃいけないな。君のような異常者に付きまとうだなんて、頼まれたってゴメンだよ」


 女は笑みを浮かべたまま、リュートの手を振り払った。


「言っただろう? 私という存在は、君の脳が生み出した幻覚にすぎないと。私は君の中にこそいるのだ。君の居場所が私の居場所さ。これが現実だよ。吐き気を催すような現実というものだ」


 こんな風に女が姿を現すのは、これが初めてのことではない。

〈むこうの世界〉から弾かれたあとも、酷いときには数日に一度という頻度で、女はリュートの前に現れた。時間も場所も選ばず、無遠慮に現れた。


 かつて暗黒の中で、女は自らを『世界そのもの』と名乗った。

 だが、それは、世界に干渉されたリュートが、自らの脳内で防御反応として作りあげた幻覚にすぎないという。それが本当だとすれば、こちらの世界で女が現れたとしても、不思議ではない。


 しかし、不思議ではないが、不愉快ではある。


「お前は、いつも何をしに出てくる。俺の脳内で作りあげられたというのなら、ずっと脳内に引きこもっていればいい」


 リュートは声を潜ませずに言った。

 女が現れている間、リュートの声が他の誰かに届くことはない。言わば、夢の中で会話している状態に近いのだろう。例えば今、大声で叫んだとしても、リズを起こしてしまう心配はない。


「それは無理な話だね。何故なら、君が望むからさ。こうして私と対話することを、君が望んでいるんだよ」

「俺は望んでいない」

「言葉ではなんとでも言える。特に君は嘘も隠しごとも上手だからな。倫理から外れた人間にありがちな特徴だ。そういう人間を端的に表した横文字があったような気がするが……申し訳ないね。ド忘れしてしまった」

「馬鹿にしているのか」

「まさか。虚仮こけにしているだけだよ。君の存在がまさに虚仮だと言っているんだ」


 女は言いながらベッドの上で体を起こした。裸身に二枚の帯を巻いただけという、一糸纏わぬ姿のリズよりも遥かに淫靡な佇まいは、あの暗黒の中で見たそれと変わらない。


「君という存在は、なんと矛盾に溢れていることか」


 ベッドの端に腰掛け、女は三日月のように背を反らせる。

 淡い月光がスポットライトとなって、女を照らした。


「どうしてミナとセレナには言ってあげないんだい? リズには、こんなにも優しくしてあげたというのに」

「……なんのことだ」

「私にだけは、嘘も隠しごとも通用しないよ。ミナとセレナに会ったのは、今日が初めてのことじゃないだろう? リズと同じように、君たちのことも覚えていると、どうして言ってあげないんだ?」


 女は質問しているわけではない。

 口振りでそれがわかり、リュートは何も答えなかった。


「可哀相に、あの子ら、君に忘れられたと思っているぞ。セレナなんて特にだ。自分には『師団長の妻』としての役割しか求められていないと思い込んで、必死にそれを演じようとしていたじゃないか。君と一番深い関わりがあるのは彼女なのにさ」


 可哀相と言いながら、首を捻ってリュートを見た女は、どこか楽しそうな笑みを浮かべている。


「そもそも、なんの関わりもなければ、陛下の要請とは言え、貴族が娘を差し出したりするものかよ。ミナとリズの家なら考えられるが、セレナの父親は侯爵だ。成り上がりの武爵ごときに娘を与えるなど、ありえない」


 女は断言して立ち上がる。頭の太陽系の金輪が、月の光を反射して輝いた。


「だが、君だけは例外だ。君はセレナの命を救った。結果としてね」


 暗に、結果そうなったというだけでセレナを救うつもりはなかった、と女は言っている。それは事実だった。


「ま、経緯はどうあれ、セレナの父……ジダル・エル・ハミドラルは君に恩義を感じている。自分の娘が君に懸想していることも知っている。だから、君に娘を差し出した。だから、アウリトス陛下はセレナを君の妻に選んだんだ」


 女がリュートを見下ろす。

 犬歯を見せつけるような、攻撃的な笑みを浮かべながら。


「陛下の女好きには感心するよ。よく理解しておられる。打算で抱かれる女ほどつまらないものはないからな。君と関わりがあり、少なからず想いを抱いている娘を、貴族の中から選び出したのさ。どうしてそんな面倒なことを一国の王がしたのか」


 女は器用に右目だけを見開いた。


「君に、期待しているからさ。君に、このアウリタ王国を支える柱の一本になってもらいたいからさ。それが陛下のだよ」


 女はベッドに手を突いて、今度は逆に目を細めた。そして、リュートに顔を近づけ、囁く。


「そんなこと、君だって最初からわかっていただろう? 、気づかない振りをしたんだ。陛下の期待にも、新妻たちの恋慕にも、気づいて、理解して、、知らん振りを決め込んだ」


 唇の間から、赤い舌が覗く。

 青白い月の光、水色の髪、舌の赤さだけが目につく。


「期待も、信頼も、恋慕も、愛情も、尊敬も、優しさも、自分に向けられる温かな感情の全てを、君は気づかない振りでやり過ごそうとする。それは何故か?」


 焦らすように、十数秒の間を置いて、


「――


 女は言った。


「君は恐れている。何を? このことをだ」


 リュートは何も言わない。

 ただ、女の舌の動きだけを見ていた。


「自分を生んでくれた世界から、君は弾かれた。ならば、今いる世界も、自分を弾き出そうとするかもしれない。この世界で人の温もりに触れるたび、君は思うんだ」


 また弾かれるかもしれない――と。


「だから君は、この世界の誰とも深い絆を作れない。この世界に根を下ろす覚悟ができない。また弾かれることになれば、その根が引き千切られて堪えがたい苦痛に襲われるから。君はそれを恐れている」


 女は体を起こし、物乞いをする子供を哀れむような表情で、リュートのことを見下ろした。


「なんと脆弱な魂だろう。君はすっかり弱くなった。世界に弾かれる瞬間に『特に何も』と、こともなげに答えた君は、もういないんだな」


 女は悲しげに首を振る。月の光を反射する太陽系が、キラキラと瞬いた。


「竜人くん。……いや、。君はもう、岡本先生を殺せない。あの小さな女の子を殴り殺すこともできない。世界に弾かれるという経験が君に恐怖を教えてしまった。君はこの二年で大人になって、色々なものを手に入れて、それを失うことへの恐怖が、君の心を逆に子供に戻した。今の君の心は最早、部屋の隅の暗がりに怯えて震える子供になった」


 女は目を伏せ、海の底のような沈黙が、帰ってきた。


 リュートは何も言わない。女も何も言わない。


 そうして、数分の静寂ののち、


「……何か言ってくれないかな、


 耐えかねたかのように、女が言った。


「何も言うことはない。お前の言っていることは全て事実だ。俺は確かに、この世界に居場所を作ることを恐れている。また世界から弾かれて、それを失うことを恐れている」


 目を開けた女は、小さく溜め息を吐き、拗ねたように口を尖らせた。


「気持ちの悪い素直さだなぁ。反論できない状況にフラストレーションを溜め込んで、もっと感情的に『黙れ!』とか言ってくれればいいのに、会話が続かないじゃないか」

「お前は俺の脳内で作り出されたと自分で言っただろう。それなら会話することに意味はない。ただの独り言だ」

「そういうのを開き直りと言うんだよ。大体だね、君はさっきから何をしているんだ? その手は何をしている?」

「リズの髪を撫でている」


 リュートは自分の行動を率直に表現した。


「見ればわかるよ。何故そんなことをしているんだい?」

「触り心地がいいからだ。それに、いい匂いもする」

「私を馬鹿にしているのかな?」

「馬鹿にはしていない。虚仮にしているだけだ」


 先程の自分のセリフを返され、女は不快そうに眉間に皺を寄せた。


「なんだ、随分と口が達者になったじゃないか」

「お前ほどじゃない」


 眉間の皺が一層深くなった。


 渋面の女を無視して、リュートはリズの頭に鼻をつけ、匂いを嗅いだ。甘やかな香りがする。石鹸の匂いではなさそうだが、なんの匂いだろう。


「犬みたいにクンクンと……変態じゃないか?」

「これが変態のすることなら、リズがしたことはどうなる。あれを俺がやったら、変態どころか犯罪者だ」

「君は悦んでいただろう? それなら犯罪じゃない」

「結果論だな」

「結果を指して犯罪と呼ぶのだ。行う前から犯罪になる行為などないよ。人間は行為しか裁けない。行為に至る思想や思考を裁けるのは、神様だけだ」

「そんなものはいない」


 リュートは即座に断言した。


「どうでもいいけれどね、そんなに髪をいじくり回していると、リズが起きるよ?」

「別にいい。起きたらさっきの続きをする」


 初体験の緊張と疲労のためか、リズはが済むと糸が切れるように眠ってしまい、リュートは満足したとは言いがたい状態で取り残されていた。


 相手が処女だからと気を遣いすぎた。一旦燃え上がった情欲の火は、精霊石で生み出される火とは違って、簡単に消すことはできない。今からリズを起こして、今度こそ満足するまで彼女を使のも悪くはない。


 その思考が伝わったのか、ベッドの端に座り直した女が、体を捻って軽蔑の表情を浮かべた顔を見せつけてきた。


「わかった。君が新妻たちに『覚えている』の一言すら言わなかったのは、恐怖なんぞではなく、単なるサディズムだ。この鬼畜め」

「使われることを望んだのはリズだ」


 言いながら、リュートは布団の中でリズの脇腹を撫でた。

 滑らかな肌の質感、確かな温もり、体内を血液が巡っているのを手の平で感じることができる。さらに奥から響く微かな鼓動に、リュートは安心感を覚えた。


「それに……彼女たちを受け入れることを恐れているのも、事実だ」


 正確に言えば、恐れているのは、その先にある喪失だ。

 手の中にあるものが愛おしければ愛おしいほど、それを失う恐怖に気が狂いそうになる。唇を重ね、体を重ねた相手に対し、なんの感情も抱かずいられると断言する自信は、今のリュートにはない。


「竜人くん。君は臆病になったね」

「臆病者のほうが、長生きできる」

「だが、臆病者は幸せになれない。その幸せを失ってしまうことに怯え、幸せそのものを拒んでしまうからだ」

「もう手遅れだ」

「そのようだね」


 リュートは、腕の中で眠る少女を見つめる。自分の手の中にある愛おしいものたちを見つめる。

 そうすると、心が甘い温もりで満たされて、けれど同時に、愛おしいものたちを奪おうとする暗黒の存在に気づいて、泣き出したくなるほどの恐怖に襲われる。


「暗黒の正体はだよ。君を弾き出すかもしれない、このだ」


 女は愉快そうな声で言う。


「さて、それを知って、君はどうする?」

「何も変わらない。俺は自分のために、自由のために、必要なことをする。それが戦争でも、殺戮でも、なんでも同じだ」

「君はこの世界にいたいのか?」

「いたい。幸せでいたい」

「では、世界が君を弾こうとしたら?」

「そのときは世界を殺す」


 リュートは、こともなげに言った。

 かつて世界から弾かれる瞬間に「特に何も」と言ったときと、同じように。


「いいね。いい答えだ。それでこそだ」


 満足のいく答えが聞けた――そう言い残し、女は消えた。


 室内に深海の静寂が戻る。


 腕の中で、リズが身動ぎした。

 しかし、起きる様子はない。よほど疲れているのだろう。


 リュートは下腹の辺りで燻る情欲の火を理性で抑え、リズの亜麻色の髪に顔を埋めるようにしながら、目を閉じた。


 微かな寝息、甘い香り、人肌の温もり。


(この場所は、心地よすぎる……)


 自分を臆病にしたのは、この心地よさだ。

 そんな言い訳をしながら、リュートは深海の夜に沈んでいった。

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