接吻

 メテトゥラ卿の屋敷を出ると、白いコートの少女がリュートのことを待っていた。


「だ、旦那様! ご機嫌、麗しゅう……」


 顔を赤くしながら尻すぼみの挨拶をしたのは、ミナ――王から賜った三人の新妻のうちの一人だった。


 寒さのためか、ミナの頬はリンゴのように赤い。伯爵家の娘である彼女は、それを示す群青色のマフラーを巻いている。

 近くに客車はなく、メイドもいない。一人で歩いてここまで来らしい。


「ミナか。どうした?」

「え、あ、その……えっと」


 近づいて話しかけると、口籠もって俯いてしまう。頭の後ろで束ねた茶髪が、ゆらゆらと揺れた。


 ミナの髪型は〈むこう〉で言うところのポニーテールなのだが、〈こちら〉には馬がいないから、一体なんと呼ぶのだろう、とリュートは少し考えた。


 しばらく待つと、ミナは意を決したように顔を上げた。


「あの! メイドさんが荷物を運んでくれたんです!」

「……家の話か?」

「は、はい。それで、その、訊いたら旦那様はお出かけだって言われて、私、やることなくて、だから、お迎えにあがろうかって、えっと……」


 言葉は、やはり尻すぼみだった。

 声が小さくなるのに合わせて、ミナの顔が俯いていく。気のせいか、ポニーテールも萎びていくように見えた。


(……点数稼ぎか?)


 リュートは、一瞬浮かんだその考えを、すぐに吹き消した。

 必要以上に、新妻たちを警戒している。油断は以ての外として、戦場では相手を警戒しすぎるのも危険だ。


「そうか……わざわざ、ありがとう」


 リュートが言うと、ミナは、


「え!? あ、いえ! そんな! 恐れ多いです!」


 ぴょん、と飛び上がるほど驚き、顔を真っ赤にして謙遜した。


 少しだけ、元気になったようだ。その証拠に、ポニーテールもふっくらと艶を取り戻したように見えた。


「それで、その……旦那様の、このあとのご予定は……?」

「ない。帰宅するだけだ」


 旦那様、という呼び方に少し違和感を覚えつつ、返事をする。


「で、でしたら、ご一緒します! よろしいですか!?」

「一緒に帰るつもりで迎えに来たんじゃないのか?」

「ふぇ!? そ、そうです! そうでした!」


 ミナは混乱している。動揺している。その原因は、おそらく緊張だ。

 そんなに緊張するな、と言おうとして、やめる。この少女は、緊張するなと言えば言うほど緊張しそうだ。


「行こう。ミナ」

「あ、はい!」


 声をかけ、石畳の道をふたり並んで歩く。

 リュートは歩幅をミナに合わせながら、彼女が喋り始めるのを待った。こちらから話しかけたら、また緊張が高まってしまうだろう。


「……あの、旦那様?」


 やがて、ミナが上目遣いにリュートを見ながら言った。


「なんだ?」

「先程のお屋敷は、賢者様がお住まいになるお屋敷ですよね?」


 おっかなびっくり、という様子で訊いてくる。


「旦那様は、どのようなご用事で……?」

「メテトゥラ卿に霊術のご教授を受けているんだ」


 特に隠すようなことでもなかったが、それを聞いたミナは、


「け、賢者様から直接霊術を……!? す、すごいです!」


 目をキラキラさせながら言った。


「それほど大層なことじゃない。ただ世間話をして終わることも多い」


 事実をありのままに述べると、ミナは、


「賢者様と、せ、世間話……!? 旦那様、すごすぎます!」


 円らな瞳に、尊敬の二文字を浮かばせながら言った。


 一体どのような世間話を想像しているのかわからないが、メテトゥラ卿は余程偉大な人物に思われているようだ。彼と世間話をするだけで特別と思われるほどの。もしかすると、そちらのほうが一般的なイメージなのかもしれない。


 ともあれ、ミナの緊張が大分解れたようだった。


 ふたりが歩く通りは、両側に四階建ての石造りの建物が立ち並んでいる。建物と建物の間に細い路地があり、あとは建物の前に植木があるくらいで、土地を無駄にしないよう努力しているのが窺われる。

 立ち並ぶ建物の意匠は統一されており、装飾性も低いが、綺麗に整えられた町並みにリュートは好感を抱いている。少なくとも、それぞれが勝手に個性を主張している上流階級の町よりは、歩いていて気持ちが良い。


「旦那様は、このあたりにはよく来られるのですか?」


 ほとんど緊張の解けた様子のミナが言った。


「多くて週に一度か二度といったところだ。メテトゥラ卿のご自宅を訪問するときくらいだな。君は?」

「私は、この近くに学校の友達が住んでいるので、よく来るんです」


 学校というのは、子女学校のことだろう。文字どおり貴族の子女が通う学校で、行儀作法などを教えている。


「すぐそこの路地の先に階段広場があるんですけど、そこの噴水がとても奇麗で……あ! 近くに美味しいクーペを焼いてくれるお店もあるんです! 旦那様も、今度ご一緒にいかがですか?」


 今度こそ言葉は尻すぼみにならなかった。

 おそらく、これが本来の彼女の態度、喋り方、そして距離の詰め方なのだろう。さっきまでは緊張が邪魔をしていた。


「そうだな。時間があるときに、案内してくれ」

「はい! 是非!」


 ミナが彼女本来の笑顔を見せた――まさに、その瞬間。


 リュートの体が、勝手に動いた。


 文字どおりの目にも止まらぬ速さで、腰から提げた剣を抜き放つ。

 それを追うように、


(背後。が。近づいてくる)


 心が理解し、反応する。

 剣を抜く動作から繋ぎ、瞬時に振り返って、眼前を斬った。


 そこには、何もない。暗器を構えて突っ込んでくる刺客の姿も、風を裂く音を伴って迫る矢も、何もない。ただ、石畳の道と、その先にある建物の向こうへ落ちていく夕日だけがあった。


 リュートの剣は空を切っていた。


 だが、


(……手応えが、あった)


 確かにを斬った手応えを感じた。

 その正体を推測する前に、体は動く。


 隣にいるミナを、空いた左腕で抱き、近くの路地へと飛び込んだ。

 そのまま建物の壁に背をつけ、全感覚で表通りの様子を伺う。


「ふぇっ?」


 腕の中からミナの間の抜けた声がした。リュートの動きがあまりに迅速であったために、理解が追いついていなかったようだ。

 数秒ほどの間を置き、


「……だ、だだだだ旦那様!? い、いけませんっ! このような!」


 何を勘違いしたのか、ミナは顔を真っ赤にして上擦った声を上げた。


 彼女を抱いたまま、リュートは建物の前にある植木に隠すようにしながら、路地の角から顔を出す。

 先程まで立っていた向きから見て後方、屋上に鐘楼を載せた高い建物がある。目算で、ここから六〇〇リグ――約六六〇メートル――ほどの位置だ。


(……あそこか。遠いな)


 あの場所から、が撃ち出された。

 何者かが、道を歩くリュートを狙撃しようとしたのだ。


 リュートは過去にも、弓矢で狙撃されたことがある。そのときも頭よりも先に体が反応し、迫り来る矢を剣で両断した。


 だが、今回は違う。弓矢ではない。表通りに両断された矢は落ちておらず、そもそも、あんな距離からでは届かない。他に狙撃に適した位置も見当たらない。


〈こちらの世界〉には、デーゼルという、機械仕掛けで矢を撃ち出す、〈むこう〉で言うクロスボウのような武器があるが、それでも距離が足りない。矢が見当たらないことの説明がつかないのも同じだ。


「たたた、確かに! 私は旦那様の妻です! で、ですが、その、まだ日のあるうちに、このような、こんな場所で……い、いけません! いけません!」


 ミナは相変わらず、リュートの腕の中で喚いている。顔を真っ赤にし、何かを拒否しているようだが、その割りに腕の中から出ようとはしていない。


 彼女を無視し、リュートは狙撃位置と思われる建物を凝視する。屋上にある鐘楼、その周囲、状況に最適化された視力は、カメラのズーム機能さながらに、それらを間近に感じさせた。

 しかし、そこに人影はなかった。


(逃げたか。判断が早い。手慣れている)


 狙撃が囮という可能性もある。遠くに注意を向けさせれば、付近に潜んだ刺客が襲いかかるのが容易になる。

 しばらくは路地から出ないほうがいいだろう。


「……あ、あの。旦那様?」


 ようやくリュートの異変に気づいたらしいミナが、腕の中から問いかけてきた。顔はまだ真っ赤で、目が潤んでいる。


 襲われたことを話すか、と一瞬だけ考え、すぐ否定する。

 話せばミナは怯えるだろう。恐怖は体の動きを鈍らせる。いざ逃げようと駆けだした足を縺れさせる。


 だが、ミナは心配そうな顔でリュートを見上げている。何かで誤魔化したほうがよさそうだ。


 そこで、リュートは……


「……んんっ!?」


 自分の口で、彼女の口を塞いだ。

 路地の暗がりの中で、ふたりの唇が、重なる。


「んっ! ……ん」


 驚きに強張ったミナの体。それが次第に弛緩し、ぎこちなく力を抜いて、リュートの腕に体を預けてきた。


 誤魔化しのキス。

 唇と唇を触れ合わせるだけのつもりだったが、ミナの唇がおずおずと開かれ、彼女が受け入れようと努力していることがわかった。


 その隙間に、


「……ん、む……」


 ゆっくりと、優しく、舌を差し入れていく。

 ミナは不慣れな様子で、それでも懸命に舌を動かしている。


「ん、んん……ちゅ……ちゅっ」


 こちらの舌を吸い、不器用に唇を震わせながら、舌を絡めてくる。

 その想いに応えるように、舌先で口内を撫でてやり、彼女の唾液を味わう。ふたりの唾液が絡む音が、脳髄に甘く響いた。


 いつしか、誤魔化しのキスは、お互いを求め合う行為に変わる。


「ちゅる……ちゅっ……ん、あむ……んくっ」


 ミナの喉が動き、混ざり合った唾液を飲み込んだのがわかった。


 リュートが舌を引くと、それを追うように、ミナの舌がリュートの口内に侵入してくる。戸惑っている舌を優しく絡め取り、わざと音を立てるように吸ってやると、リュートの服を掴んだ手が震えた。


 唇を、舌を、互いに吸い合い、唾液を混ぜ合わせながら、お互いの口内を味わっていく。


 ミナは無意識にか、自分の体をリュートに擦るようにして動かしていた。


「んん、ちゅっ……はぅ……ん、んあ……ちゅぅ……!」


 耳に届くのは、唾液が絡む音と、互いに唇と舌を吸い合う音、そして、僅かに喘ぎの混じったミナの吐息だけ。


 時間を忘れさせるほどの、濃く、甘く、深いキス。


「ちゅぷ……ちゅ、ちゅ……ぷ、はぁ……」


 やがて、思い出したかのように唇を離すと、一瞬、ふたりの唇の間に細い唾液の橋がかかった。


「はぁ……はぁ……はぅ……」


 ミナは、呼吸を忘れるくらい夢中になっていたのか、しばらく息を整えていた。至近距離で見つめた彼女の瞳からは、涙が零れていた。


「……嫌だったか?」

「い、いえ……嫌じゃ、ないれす……嬉しい……れふ……」


 呂律が回っていない。目はどこか虚ろで、体は弛緩し、リュートが抱いていなければ立っていられるかも怪しい。もし、この言葉が嘘で、態度が演技だとしたら、彼女は世界一の女優になれるだろう。


 リュートはミナを抱き締めたまま、周囲の気配を探る。全ての感覚で、自分を害する敵の存在を察知する。


「だ、旦那しゃま……?」

「しばらく動くな」

「ひゃ、ひゃい……」


 そうして、密着したまま、およそ五分ほどが経った。

 その間、抱き合うふたりの耳に届いたのは、お互いの鼓動と息遣いだけだった。


 周囲に妙な動きをする者がないことを十分に確かめたのち、リュートはミナから体を離した。


「あうぅ……」


 何故だか、ミナが物欲しそうな顔をしていた。


 住人たちの帰宅時間なのか、表通りは人通りが増えており、リュートは彼らの流れを邪魔しないよう、先程まで自分たちが歩いていた場所の周囲を調べた。


 夕焼けの朱に染められた石畳の上に、円錐状の金属片が落ちていた。


 リュートは金属片を拾い上げる。

 そして、瞬時にその正体を理解した。リュート以外、〈こちらの世界〉の誰であっても、この金属片の正体はわからなかっただろう。


(……か)


 それも、拳銃ではなく、ライフルの弾丸だ。リュートが〈むこう〉で警官から奪った拳銃の弾丸と比べ、口径こそ小さいが、細長く、先端が尖っている。


〈こちらの世界〉に銃は存在しない。それはリュートが自分で確かめたことだ。もし、銃が存在するのなら、自分が率いる師団に真っ先に銃兵を配備していただろう。戦争の形態が、今とは大幅に異なっていたはずだ。


 何者かが、存在しないはずのライフルでリュートを狙撃した。

 手の平に載せられた小さな金属片は、その事実を証明している。


(異邦の民。俺以外にもいるのか?)


 可能性として考えていたことではあった。

 アウリタ以外の国にも異邦の民が今も存在し、それをなんらかの理由で秘匿しているという可能性。異邦の民自身が、自分の存在を隠し、この世界の誰にも知られぬままどこかで隠棲しているという可能性。


 しかし、その異邦の民に命を狙われる可能性は考えていなかった。


(いや、可能性だけなら当然あると思っておくべきだった。書物に見た過去の異邦の民は、戦で名を上げた者が多い。英雄と呼ばれた者もいる。だからこそ、アウリトス陛下は俺を兵士よりも戦士として受け入れた。だが……)


「あ、あの……旦那様? どうかされましたか?」


 考え込んでいたリュートを、ミナの声が現実に引き戻した。


「いや、なんでもない」


 考えるべきことは多いが、それ以上にやるべきことが多い。

 今はとにかく、師団長を暗殺しようなどと企む人間が国内に存在しているという事実に対し、適切な対応をしなくてはならない。


「ミナ」

「は、はい?」

「急用ができた。私はこれから軍庁舎に向かう」

「……へ?」

「帰宅は早くても青紫午の刻になる。食事は先に済ませていいとメイドに伝えておいてくれ」

「え、あ、はい」


 ミナは事態についていけていないようだが、事情を説明している暇はない。


 リュートは足元に落ちていた、もうひとつの金属片――リュートが剣で切断したためにライフルの弾丸は真っ二つになっていた――を拾い上げ、ミナに背を向けて歩き出そうとした。


「旦那様!」


 それを、ミナが止める。

 言葉だけでなく、彼女はリュートのコートの裾を掴んでいた。


「なんだ?」

「あ、あの……!」


 ミナの頬は赤い。キスの余韻が残っているのか。夕日のためか。


「私は、旦那様の……その……ご、ごを受け入れる準備は、いつでもできていますから!」


 叫ぶように言い切り、ミナは真っ赤になって俯いた。


「だから……えと……その……」


 リュートは返事をする代わりに、


「……あ」


 ミナをもう一度抱き寄せ、その額にキスをした。


「メイドへの伝言、頼んだぞ」

「ふぁ……はいっ」


 笑顔で返事をしたミナの頬を撫でてから、リュートは軍庁舎へ急いだ。

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