賢者
「――で、お主はその宿営地を壊滅させ、それを土産にアウリタ王国に下ったのじゃったな」
腹まで届く長い白髭を撫でながら、メテトゥラ卿が言った。
「ええ。偶然なのか、他に理由があるのか、ともかく私は、イディス帝国軍が臨時で設営した宿営地の中に現れたわけです。それも、最前線の」
テーブルを挟んでメテトゥラ卿と向き合いながら、リュートが言った。
「当時のイディスは、まだアウリタへの欲望を隠していませんでしたから、あそこからアウリタの南西部に向かって侵攻するつもりだったのでしょう」
「酷い奇襲もあったもんじゃのぅ。お主の出現は、先制攻撃を企んでいたイディス帝国の機先を制する格好となったわけじゃな。結果として、お主がアウリトス陛下に奉じたのは、敵宿営地を壊滅せしめたという戦功ではなく、戦の勝利そのものと言ってもよいじゃろうなぁ」
「勝利と言っても、当時の国境に接していたイディスの辺境領地――レマ高原の一帯を併呑したにすぎませんが」
「いやいや。あの勝利がなければイディスとは今も小競り合いを続けることになっていたじゃろうて。さすれば無駄に民の命が散っていた。それを王も承知しておられるからこそ、お主を迎え入れたのじゃろ。それも好待遇での」
ほっほっほっ、とメテトゥラ卿は目尻に皺を寄せて笑った。
◆ ◆ ◆
リュートが今いるのは、城下町にあるメテトゥラ卿の屋敷である。
王に戦勝の報告をし、三人の妻を下賜され、自宅に戻ってしばらく休んだのち、リュートは徒歩でこのメテトゥラ卿の屋敷まで来た。
メテトゥラ卿の屋敷は、城下町の中でも中流階級の民が多く暮らす地域にあった。ここだとリュートの駆る赤い騎竜は目立ちすぎるし、わざわざ客車を手配するほどの用事でもない。
アウリタ王国では、家を建てるのに使える平坦な土地が少ないことから、複層構造の建築物――むこうの世界で言うところの高層ビル――を建てる技術が発達し、中流階級以下の民の多くは、そういった集合住宅で生活している。
メテトゥラ卿の屋敷がある一帯も集合住宅が多く建ち並び、そのうちの一棟を、メテトゥラ卿は自分の住居兼研究室として使っている。
本来なら四世帯ほどが生活できる建物を、一人の老人が独占することを許されているという事実から、メテトゥラ卿の立場が特別な位置にあることがわかるだろう。
科学、歴史、政治、経済、軍事、それに加えて霊術についての豊富な知識を有し、アウリタ国王に様々な助言を行って導いてきたことから、メテトゥラ卿は『賢者』という尊称で呼ばれている。
リュートが読んだ書物によれば、およそ三百年前に聖山アウリタの裾野に現れ、以来、このアウリタ王国で暮らし続けているとされるが、真偽のほどは定かではない。
また、望めばより標高の高い場所に、より暮らしやすい邸宅を用意してもらえるであろう彼が、何故に中流階級の民に混じって生活しているのか、その理由は誰も知らない。
◆ ◆ ◆
メテトゥラ卿は不思議な香りのする茶を啜り、ほぅ、と息を吐いた。
彼がカップを置くのを待ち、リュートは口を開いた。
「しかし、メテトゥラ卿」
「なにかの?」
「私が〈こちら〉に来た経緯は、以前にもお話ししたと思いましたが」
「ふむ……なに、もう一度聞いてみたい気分だったんじゃよ」
メテトゥラ卿には、ほとんど全てを話している。リュートが〈むこう〉でやったことは勿論、暗黒の中で世界を名乗る女と出会ったこともだ。それが、彼の出した交換条件だったからである。
あの女のことまで話した相手というと、他にはメイドのシオンだけだ。シオンは聞き上手で、人に自分語りをさせるのが上手い。ベッドの上では特に。
「ま、それにじゃ。お主も話したそうに見えたからの」
「否定はしません」
自室でスマートフォンを眺め、不意に当時のことを思い出したのは事実だ。こういうことは、たまにある。そもそも、〈むこう〉のことを忘れないようにするために、リュートはスマートフォンを捨てずにいるのだから。
「お主が生まれた世界の話を聞くのが、ワシの一番の楽しみでの。さながら、幼き頃、母から寝物語に童話の世界の話を聞きかされていたときのような気分になるのじゃよ」
「卿を楽しませられるのであれば、いくらでもお話ししますよ」
そう言うと、メテトゥラ卿は眼鏡の奥の目を光らせた。
「ほう。であれば、前に見せてくれた、あのスマートフォンとやら、今度こそ分解させてはもらえんかの? さすれば、そりゃーもう楽しい気分になるんじゃがの?」
「それは以前にお断りしたはずです」
「……けちんぼじゃのぅ」
「元通りに直せる保証もないのに分解されては堪りませんからね」
キッパリ断ると、メテトゥラ卿は眉尻を下げて、あからさまに落ち込みの表情を見せた。みなに賢者と敬われている老人は、まるで子供のように表情をコロコロと変える。心が若々しいままであるという証だろうか。
アウリタ王国の人々は、リュートのような異世界からの来訪者のことを〈異邦の民〉と呼ぶ。
それはつまり、過去にも異世界から来た人間がいたということを意味する。
他国においても同様で、各国で微妙に呼び方や認識が異なるものの、異世界というものが存在し、希にそこから渡ってくる者がいるということは、世界的に認知されている事実だ。
ただし、今現在、生存が確かな〈異邦の民〉は、ここアウリタ王国にいるリュートだけである。
「メテトゥラ卿。そろそろ授業に戻っていただけませんか?」
「んむ? そうじゃったの。忘れとったわい」
童心を持つ賢者は、禿げ上がった頭頂部をポンと叩きなが言った。
リュートはここへ、老人と茶飲み話をしに来たわけではない。〈こちら〉にあって〈むこう〉になかった超常――
メテトゥラ卿は、よっこいせ、と席を立ち、雑多な物が詰められた壁際の棚から、手の平サイズの薄い箱を取り出して、テーブルの上に置いた。
箱を開くと、中には赤く輝く石が敷き詰められていた。ほとんどが豆粒ほどの大きさしかないが、どれも宝石のようにカッティングされている。
「お主の世界にはなかったようじゃがの、ワシらのいるこの世界は、
椅子に深く座り直して、メテトゥラ卿が言った。
霊術とは平たく言えば魔法であると、リュートは理解している。リュートのように〈むこう〉から来た者なら、霊術を行使している現場を見れば、みなそのように理解するだろう。
その霊術の源になっているのが、〈こちらの世界〉の至るところに満ち溢れるエネルギー……〈霊力〉だ。
霊力はありとあらゆる物に宿っている。空気中に漂い、川の流れにたゆたい、地面の深くに満ち、そして人の中にも霊力は宿る。
霊力を失った物は、元の形を失い、やがて分解されて別の物となり、また霊力を宿す。それが、この世界で言う輪廻だ。
霊力は物体の形状を維持する楔であり、炎や雷といった現象は、霊力の移動や変質によって引き起こされる。世界に在る全ての物体や事象が、その根源に霊力を要するのだ。
すなわち、この霊力を操って、そこにない物体を出現させ、そこにない現象を起こすこと、それが霊術なのである。
とは言え、全ての人が勝手気ままに霊術を行使できるわけではない。
「そのために必要なのが、この
メテトゥラ卿は、霊術の基本についておさらいしながら、薄い箱から赤く輝く石を取り出し、テーブルに並べた。
「霊術を行使するために必要な触媒であり、世界に漂う霊力に術者の声を届けるための変換器。それが精霊石……でしたね?」
「そうじゃ。術者の声とは、すなわち念――心じゃよ。精霊石は術者の心を微かな霊力へと変換し、それを他の霊力に浸透させる。故に、変換器じゃな。ま、言うてさほど難しいことでもないがの。特にここアウリタ王国ではみな気軽に術を
メテトゥラ卿は部屋の北側にある暖炉を指差した。
暖炉の中で炎が揺らめいているが、火力を維持するための薪が一本もない。あるのは、炎の中心に、豆粒ほどの精霊石が一個だけ。精霊石を触媒にして霊術を行使し、炎を出現させているのだ。
これは、寒さの厳しいアウリタ王国では、どこの家庭でも行っている暖の取り方である。
「しかし、こりゃあ贅沢な使い方じゃ。精霊石の産出量が多いアウリタ王国だからこそできることじゃな」
精霊石とは、霊力そのものが凝結した物体だ。霊力の豊富な場所であるほど精霊石が生成されやすく、その多くは地中から発掘される。大地は世界の基礎、最も霊力が集まりやすい場所だ。
アウリタ王国を支える鉱山資源というのが、この精霊石なのである。
そのため、他国への輸出による利益は勿論のこと、国民の生活や生産業、軍事目的など、様々な形、様々な場所で、霊術が大いに活用されている。
「お主も、霊術を習うなどと言うてはおるが、暖炉に火を灯すくらいはできよう。どれほど強大な力を発する術も、基本は全て同じよ」
「それは理解しておりますが、こと戦場で実用的な術の行使となると、なかなか上手くいかないのが現状でしてね」
「そりゃあ、お主、悪いのはその
メテトゥラ卿はリュートの右腕を指差す。袖で隠れていて見えないが、そこには大きな精霊石の嵌められた腕輪がある。
アウリタ王国で一般的に出回っている精霊石は、ほとんどが小指の爪よりも小さいくらいのサイズだ。精霊石は霊術を使うほどに小さくなっていくが、小指の爪サイズでも、暖炉の熱源として五年間は使用できる。
リュートの腕輪に嵌められた精霊石は、アウリタ国内で使用されているコインくらい――〈むこう〉で言う五百円玉くらい――の大きさだった。
「精霊石が大きいほど、扱える霊力も大きくなる。じゃがの、その分、精密な術式が要求されるんじゃ。そーんな馬鹿でっかい
「そう仰いますがね、これは王から賜った物なんですよ。これを外して他の精霊石を使うというわけにはいかないのです」
「王はそのようなことお気になさらんじゃろうに」
「他の者が気にします」
そういうもんかのぅ、と言いながら、メテトゥラ卿はテーブルに並べた精霊石の粒を箱に戻した。
「王から賜ったと言えば――」
メテトゥラ卿がそう言った瞬間、リュートは嫌な予感がした。
「お主、三人の妻を褒美に賜ったそうじゃの?」
「……ええ、まあ」
ようやく霊術についての話に戻せたのに、また話が脱線しようとしている。この調子では、今日も授業は進まないまま終わりそうだ。
「随分とお耳が早いことで。耳が遠いという設定はどうされましたか?」
「んー? すまんのー。耳が遠くて聞こえんのー」
ニヤニヤと笑いながら、耳の遠い老人の振りをする。初めて出会った時から変わらないメテトゥラ卿に、リュートは呆れつつも笑った。
経緯はどうあれ〈こちら〉で生きていく以上、霊術について学ぶのは必須。
そう考えたリュートが、賢者と呼ばれる老人の屋敷の扉を叩いたのは、今から一年半ほど前のことだ。
メテトゥラ卿は霊術の学校などを開いているわけではなかったが、王国の上下関係とも切り離された位置にいる彼に教えを請うのが最も安全だろうと、当時のリュートは判断していた。
しかし、メテトゥラ卿はリュートの要請に一切取り合わず、何度訪問しても、耳の遠い老人の振りをして誤魔化すばかりであった。
辛抱強く交渉し、〈むこうの世界〉について教えることを交換条件に、霊術の教師になってもらうまで、およそ三ヶ月かかった。
「それにしても、王は余程お主に期待しておるんじゃのぅ」
惚けた老人の振りをやめ、メテトゥラ卿は目を細めて微笑んだ。
「
リュートは多くの物を王から賜ったが、その中でも特に価値が高いのが、煌血竜と宝槍だ。他の全ての賜品を金に換えたとしても、その二つを買うには桁が足りないだろう。
だが、本当に一番価値が高いのは、最初に賜ったメイドのシオンだと、リュートは確信している。
騎竜も槍も他で代用が利くが、シオンだけは代わりがいない。
「私は異邦の民ですからね」
リュートは壁掛け時計を見ながら言った。
「言わば根無し草だ。この国に家族がいるわけでもない。だから、褒美を与えて繋ぎ止めようとしているんでしょう。どちらかと言えば警戒です。期待とは違う」
「それもあるじゃろうがの」
メテトゥラ卿は即座に言った。
「じゃが、やはり王はお主に期待しておるじゃろうよ」
「そうでしょうか?」
「異邦の民だからこそ、アウリタに一切の関係がない者だからこそ、信任が置ける。そういうこともあろう。王族は生まれたときからしがらみに囚われる。それを知る王は、お主に期待と、憧れのようなものを抱いておるのかもしれん」
多分じゃがの、と言ってメテトゥラ卿は笑った。
時刻は赤紫午の刻――〈むこう〉で言う午後四時半前後――をすぎようとしている。窓の外を見ると、日が赤くなり始めている。
「メテトゥラ卿、そろそろお暇いたします」
「む? おお、もうこんな時間か」
結局、今日も授業は進まなかった。まあ、いつものことである。
リュートは出された茶を飲み干してから立ち上がり、黒いコートを羽織って、上から赤いマフラーを巻いた。
「いやはや、すまんのぅ。授業がちぃっとも進まんばかりか、いつも無駄話に付き合わせてしまって」
自覚はあったのか、とリュートは思った。
「いえ、〈むこう〉の話をするのはご教授を受ける条件ですし、メテトゥラ卿のお話は私自身のためになります」
「ほっほ。そう言ってもらえると、嬉しいのぅ」
それとな、とメテトゥラ卿は髭を撫でながら言う。
「霊術については、もうあまり教えることはないんじゃよ。基本は全て伝えたしの。これ以上のことを教えるには、まずお主がその
「できるでしょうか?」
リュートは袖の上から腕輪に触りながら言った。
「できるとも。全ては基本じゃ。基本は全てじゃ。あとは日々の精進こそが、お主に
「わかりました。努力します」
「うむうむ。その意気じゃ」
メテトゥラ卿は満面の笑みで頷いた。
「それでは、失礼いたします」
「帰り道、気をつけての」
リュートは深くお辞儀をし、メテトゥラ卿の屋敷をあとにした。
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