プロローグ 2

 竜人たつひとが通う中学校の校舎裏には、開校時から使われている体育倉庫があった。

 元々、耐久性の高い建物ではなかったせいか、数ヶ月前から雨漏りが激しくなったため、解体して新しい体育倉庫を建てるための工事が行われている。


 朝、早めに登校した竜人は、まだ作業が始まっていない工事現場から、足場を組むために使われる鉄パイプを一本、失敬した。


 それから、朝のホームルームが始まる時間ギリギリまで、校舎裏の目立たない隅に座って待った。

 これは、別に今日だけの特別な行動ではなかった。

 教室にいると散々な嫌がらせを受けるため、ここ最近は、なるべく教室にいる時間を減らすようにしていたからだ。


 始業時間になって教室に向かうと、ちょうど担任の岡本が教室に入っていくところだった。それを追うように、竜人も教室へ入った。

 生徒たちを席に着くよう促していた岡本は、竜人の姿を認め、何か言葉を発した。


 このとき、岡本が何を言ったのか、竜人はよく覚えていない。

 いつものように、挨拶代わりの罵倒を浴びせてきたのか、それとも竜人が右手に持つ鉄パイプについて何か言ったのか、どちらだったにせよ、竜人にとっては特に意味がなかったため、印象に残らなかったのだろう。


 竜人は、徐に鉄パイプを振り上げ、岡本の頭めがけて振り下ろした。


 ごんっ、という想像していたよりも少し軽い音がした。


 岡本はその場に倒れ込み、低い声で呻きながら、頭を抑えた。


 一度殴っただけでは気絶させることもできないようだ。凶器に選んだ鉄パイプが軽すぎたのか。片手で持っていたのが悪かったのかもしれない。


 竜人は鉄パイプを両手で持ち直し、再度、岡本の頭部を殴打した。

 今度は、少し重い音がした。


 繰り返し殴るうち、岡本の頭部から血が溢れ出し、それが鉄パイプに付着する。それでも構わずに振り回すものだから、付着した血があたりに飛び散った。

 黒板が、教卓が、リノリウムの床が、血の飛沫で汚されていく。

 竜人の顔や体にも、返り血が飛ぶ。


 だが、構わずに竜人は岡本を殴り続けた。

 無表情で、黙々と、作業のように。


 やがて、岡本は全く動かなくなった。頭部は完全に変形してしまっていて、髪の毛が肉や血と絡まり、白い骨が露出している。床には、頭からの出血が大きな血だまりを作っていた。

 凶器の鉄パイプは真っ赤に染まり、大きく拉げている。これでは工事の足場には使えそうにない。弁償させられるかもしれないな、と竜人は思った。


 そのとき、ようやく教室内で悲鳴が上がった。

 女子も、男子も、竜人から逃げるようにして教室から飛び出していく。

 生徒の中には、腰を抜かしたようにその場にへたり込んでいる者もいた。最初に岡本にいじめられていた宮内くんだった。彼は竜人と目が合うと、歯をガチガチ鳴らしながら「許して」と繰り返していた。


 竜人は、彼らを無視し、岡本の体を窓際まで引きずる。そして、大きく窓を開け、岡本の体を担ぎ上げた。

 岡本はピクリとも動かず、もう死んでいるように思われたが、念のため、竜人は彼の体を3階の教室から突き落とした。下はコンクリートで固められた地面だ。これなら確実に死ぬだろう。


 岡本が比較的小柄だったからか、作業にはさほど苦労しなかった。

 やがて、肉が地面に叩きつけられる音がして、階下から悲鳴が上がった。


 一仕事終えた気分で息を吐き、両手を見ると、血で赤く染まっていた。ぬるぬるとして気持ちが悪い。竜人は、手を洗うため、教室を出て男子トイレに向かった。


 トイレの手洗い場で血を洗い流す。思った以上に血の汚れはしつこく、赤い色が完全に落ちるまで時間がかかった。

 顔を上げて鏡を見ると、頬のあたりに返り血がついていたので、それはティッシュで拭った。制服にも血がついてしまっているが、これは今はどうしようもないので諦めた。


 ハンカチで手を拭きながらトイレから出る。廊下には数人の生徒たちがたむろしていた。みな顔面蒼白で、竜人の姿を見ると、短い悲鳴を上げて逃げ去った。


 教室に入ると、中にいた数人の教師が、ぎょっとしたような顔で竜人を見た。教師たちは三年生の担任や副担任で、学年主任の姿もあった。彼は幽霊にでも遭遇したかのような怯えを見せ、ひぃ、と叫びながら教室を飛び出していった。


 竜人は教師たちを一瞥したあと、自分の席に着いた。


 このあとの展開についてはいくつかパターンを想定している。そのうちの一つ、教師たちが自分を取り押さえようとしたときのため、カッターナイフを制服のポケットに忍ばせた。


 そうしていると、新たに男性の教師が一人、教室に入ってきた。ジャージ姿で体格のいい、体育を担当する教師だった。

 体育教師は他の教師と何事か話し始めた。声を潜めるような会話で、竜人のほうをチラチラと見ている。


 話を終えた体育教師は、竜人の席に近づいてきた。椅子に座ったまま見上げた彼の表情は強張っていて、激しい緊張が窺えた。

 体育教師は声を詰まらせながら、


「木崎、お前が岡本先生を突き落としたのか?」


 と、訊いてきたので、


「はい。そうです」


 と、竜人は答えた。


 ちょうどそのとき、遠くからサイレンの音が聞こえた。救急車とパトカーのサイレンだ。段々とこちらに近づいてくる。


 意外と早かったな、と竜人は思った。教師たちの間で相談があってから通報という流れになると考えていたが、生徒たちの誰かが携帯電話で通報したのだろうか。それならこの早さも納得がいく。


 体育教師もサイレンに気づいたのか、幾分か緊張を和らげた声で、


「ちょっと一緒に来てくれるか?」


 と言った。


 冷静な対応に、竜人は顔が綻びそうになった。竜人のことを恐れるあまり、力ずくで拘束しようなどと考える様子がないことは、とても助かる。もし、そうなったら、彼も殺さなくてはいけなくなるからだ。面倒ごとが増える。


 竜人は人殺しがしたいわけではない。ただ、自分の思うように生きていきたいだけだ。岡本を殺したのは、そのために他に方法がなかったというだけであり、殺さずに済むのならそれに越したことはないのだ。


 竜人は努めて無表情を装いながら、


「はい、わかりました」


 と答えて立ち上がった。


 竜人が数人の男性教師に囲まれて連れて行かれたのは、二階の校長室だった。どういう理由で校長室が選ばれたのかはわからないが、室内に校長の姿はなく、代わりに養護教諭がいた。

 養護教諭は五十代手前の女性で、竜人を応接セットのソファに座らせると、お茶を淹れてくれた。

 しかし、その手が微かに震えているのを、竜人は見逃さなかった。


 校長室には、体育教師と養護教諭だけが残り、他の教師は出て行った。自分の受け持つ生徒たちのところへ向かったのだろう。


 しばらくすると、校庭のほうが騒がしくなってきた。校長室の窓から、赤色灯の光が見える。救急車とパトカーが到着したようだ。


 それから程なくして、校長室の扉がノックされた。

 中に入ってきたのは、二人の制服警官だった。一人は中年で、もう一人は若い。ベテランと新米、といったところか。

 彼らの到着に、体育教師と養護教諭がほっと息を吐いたのがわかった。


 養護教諭は警察官と入れ替わりに校長室を出て行き、ベテラン警官のほうが体育教師と低い声で会話した。その間、新米警官は腰に手を当て、竜人のことを睨むように見ていた。

 ごく短い確認作業のような会話を終え、ベテラン警官が竜人のほうを向き、


木崎竜人きざき たつひとくんだね? 一緒に来てもらえるかな?」


 言葉は優しく、しかし断固たる口調で、そう言った。


 竜人は少し意外に思った。警察に連行されるのは保護者が呼び出されてからだと考えていたからだ。

 両親に連絡がつかなかったか、それとも少年が起こした事件とは言え内容が凶悪であったから、先に被疑者を確保するべきだと判断したのか、そのどちらかだろう。


 内心の意外を表に出さないよう努めながら、竜人は、


「いやです」


 と答えた。


 もとから警察に捕まるつもりはない。警察署に連行されるまでもなく、パトカーに乗せられた時点で逃走することは困難になる。そうなれば、多少の情状酌量があったとしても、向かう先は少年院か刑務所だ。岡本を殺した意味がなくなってしまう。


 竜人の態度にもベテラン警官は動じず、説得しようと口を開いた。

 しかし、新米警官ほうは、竜人の態度に立腹したのか、


「いいから来るんだ!」


 などと言って竜人の腕を掴み、無理に立たせようとした。


 竜人は引っ張られる力に逆らわず、立ち上がりながら、掴まれていないほうの腕で新米警官の顔面を殴りつけた。

 短い悲鳴。新米警官の鼻が拉げ、鮮血が舞った。

 それで竜人の腕は開放されたが、今度は逆に竜人が新米警官の腕を掴み、二度三度と拳で顔を殴打した。


「やめろ!」


 ベテラン警官が叫んだ。彼は警棒を引き抜き、それで竜人を打ち据えようと手を振り上げた。

 竜人は即座に振り向き、抱きつくような格好で体当たりした。密着してしまえば、警棒で殴られても大したダメージにならない。


 そのまま壁に押さえつけ、ポケットから取り出したカッターナイフを、ベテラン警官の首に全力で突き立てた。

 それから、一瞬の間も置かず、力ずくでカッターを引き抜く。

 途端、ベテラン警官の首から真っ赤な血が噴き出した。

 掠れた悲鳴を上げながら、ベテラン警官は両手で首を押さえる。それでも血は止まらない。指の隙間から、おびただしい量の血液が流れ出た。

 竜人はベテラン警官が落とした警棒を拾い上げ、思いっきり彼の側頭部を殴打した。それで、彼の悲鳴は止まった。


 続けて、背後で起き上がろうとしていた新米警官の頭も、警棒で殴る。何度も何度も殴る。どのあたりを殴れば良い手応えがあるのか、さっき岡本という練習台で試せたから、新米警官はすぐに動かなくなった。


 念のため、自分の首から流れ出た血の水溜まりに突っ伏しているベテラン警官も、何度か頭を殴っておいた。


 その様子を呆然と眺めていた体育教師は、竜人と目が合うと、みっともなく泣き叫びながら逃げだし、校長室にいる生きた人間は竜人だけになった。



     ◆ ◆ ◆



 今にして思えば――と、現在のは回想する。


 あのときから、自分の体はおかしかった。


 格闘技を習っているわけでもない普通の中学生が、凶悪犯と相対すべく鍛えられた警察官二人を、いくら不意を突いたとは言え、ああも容易く殺してしまえるなんて、どう考えてもありえない。

〈むこうの世界〉の常識から、明らかに外れている。


 最初からだったのか、それとも岡本を殺したことでのようなものが外れたのか、どちらにせよ、あの時点で、木崎竜人という存在は〈むこうの世界〉にものになっていた。



     ◆ ◆ ◆



 竜人は、殺した警察官から、拳銃と警棒を奪った。

 警棒は折りたためるタイプの物だったので、ブレザーのポケットに入れ、拳銃は安全装置セーフティを確認してからズボンのポケットにねじ込んだ。


 安全装置を外すのはまだ早いだろう。警察官ですら暴発させることがあるというのだから、素人の自分が安全装置を外して持ち歩くのは危険だ。使うときに外すことを忘れないようにすればいい。

 拳銃のどの部分が安全装置として機能しているのかは、昨夜、岡本を殺すと決意したあとに調べておいた。


 つまり、今の状況は十分に想定の範囲内であるということだ。


 竜人は、周囲の気配を探りながら、廊下に出た。

 警察や教師たちは、事件の現場となった三階の教室に集まっているのだろう。二階の廊下は静まりかえっていた。


 このまま学校に残っていては状況が悪くなる一方だ。警官たちが集まってきて二進も三進もいかなくなる。まだそれほどの数が集まっていない今のうちに、学校を出たほうがいいだろう。


 静かな校内では、足音がよく響く。竜人は階下と階上の音に注意を払いながら一階へ下りた。校庭のほうの正門から出るのは難しいと思えたので、校舎の裏にある通用門へと向かう。


 通用門の前には二人の警察官がいた。

 警察官というのは、基本二人で行動するものらしい。どちらも校舎に背を向けている。外から来る応援を待っているのか。


 竜人は、右のポケットに手を入れ、拳銃の安全装置を外した。

 そのままポケットの中で銃を握りながら、警官に近づいていく。

 すると、片方が竜人に気づいて振り向いた。


「君、何してる。ここの生徒?」


 間の抜けた質問には答えず、早足で警官に近づきながら銃を抜き、胸のあたりを狙って、立て続けに二発、発砲した。思っていたほどの衝撃はなかった。

 最初の一発は空砲が入っている、という話を聞いたことがあったから二発撃ったのだが、警官は胸の二箇所から血を飛び散らせながら吹っ飛んだ。

 警官は通用門の外側に倒れ、呻き声ひとつあげない。もうひとりの警官は激しく動揺したのか、小さく悲鳴を上げたきり、同僚に駆け寄ろうともしなかった。


 竜人は、彼を無視して通用門を出た。

 早くこの場を去らないと、銃声を聞きつけて人が集まってきてしまう。それに、これ以上銃弾を無駄遣いしたくなかった。

 ところが――


「う、動くな!」


 撃たれなかったほうの警官が、竜人の背中に銃を向けて叫んだ。その銃口は震えていた。


 竜人は彼を一瞥し、二秒ほど考えたのち、無視して歩き出した。

 背後から、もう一度「動くな!」という声がしたが、結局、警官が引き金を引くことはなかった。


 彼もまた、保身に走ったのだ。この場で竜人を射殺するのと、黙って見逃すのと、どちらが自分にとって都合が良いか考え、そして後者を取った。

 いくら銃を持っているとは言え、中学生を、それも背後から射殺したとあっては、監察官による調査は免れない。それで正しい発砲であったと判断されても、世間からは「中学生を撃ち殺した警官」という目で見られ続ける。

 それに比べれば、竜人を見逃したほうが問題は小さくて済む。幸い目撃者はいないから、自分も銃を向けられて脅された、とでも証言すれば尚よい。

 見逃された竜人が、そのあとで誰かを殺すかもしれないなどとは思いつきもしないのだろう。


 刹那の保身。一時の安堵を求める卑小な計算が、銃口にかけられた人差し指から力を奪ったのだ。


 竜人は、そんな彼に呆れつつも感謝した。


 学校から自宅までは、歩いて十分ほどの距離にある。途中、竜人は自動販売機で炭酸飲料を買った。ちょっとした運動をこなしたあとだったからか、えらく美味しく感じたのを覚えている。

 思えば、それが、竜人が最後に飲んだ炭酸飲料だった。


 三十階建ての高層マンション――いわゆるタワーマンションの八階で、竜人は両親と三人で暮らしている。兄弟はいない。

 鍵を開けて家に入ると、共働きの両親は不在だった。今頃は、連絡を受けて学校に急行している最中だろうか。


 竜人は警棒と拳銃をリビングのテーブルに置き、シャワーを浴びた。返り血と汗を洗い流したかった。


 そのあと、ちょっと小腹が空いたので、冷凍のピザをオーブンで温めていると、サイドボードの上に置かれた固定電話の着信音が鳴った。


「はい、もしもし」


 と、普段と全く変わらない調子で電話に出る。

 受話器の向こうから、低い男の声がした。相手は、刑事だと名乗った。


 刑事は竜人が電話に出たことに驚いていないようだった。最初から竜人が自宅に戻ったことを知った上で電話をかけてきたのか、それとも凶悪犯罪に走った少年は高確率で自宅に戻るという統計データでもあるのか。


「竜人くん、ちょっと話をしよう」


 と、刑事は言った。

 それから、竜人が訊いてもいないのに、色々なことを刑事は話した。


「ご両親も君のことを心配している」


 とか、


「君の言い分はちゃんと聞こう」


 とか、


「だから、家から出てきて直接話せないかな?」


 とか、要領の得ないことをツラツラと語る。


 要するに、刑事はをしているつもりなのだ。それも、銀行に立て籠もった強盗犯とか、離婚話で揉めて狂乱した挙げ句に妻を人質に取った夫などに対して行うような交渉だ。


 どうやら警察は、現在の状況を「勢い余って凶行に走った少年が、逃走して自宅に立て籠もっている」と判断しているらしい。前半部分は合っているが、後半部分は間違っている。このまま自宅に籠もるつもりなどない。


 耳を澄ませてみると、マンションの廊下をバタバタと走る足音がする。他の住民を避難させているのだ。


 竜人は感心した。随分と動きが速いじゃないか。

 学校から自宅まで約十分、シャワーを浴びていたのが約十五分。合わせて二十五分ほどで竜人が自宅に戻ったことを突き止め、マンション住民の避難を始める段階にまで持っていくとは。動きが速いだけでなく、決断も早い。

 こうなると、このマンションは、すでに警察によって包囲されていると考えたほうがいいだろう。


 竜人がしばらく考えている間も、刑事は話し続けていた。

 それを遮り、


「このまま放っておいてくれ」


 と、竜人は言った。


「警察に捕まるのは嫌だ。少年院とか刑務所みたいな所にも行きたくない。このまま放っておいてくれれば、もう人は殺さないよ。銃は返さないけど」


 刑事は少し黙ったあと、


「それはできない」


 と答えた。まあ当然だろう。

 竜人は内心の冷静を隠しつつ、聞き分けのない子供の振りを続ける。


「どうしてできない? みんな放っておいたじゃないか。先生やクラスのみんなが俺にしたこと、全部放っておいただろ。なのに、どうして俺だけダメなんだ? 同じだろ? みんな自分のやりたいようにやっただけ。自分の身を守っただけ。俺だって同じだ。だから放っておいてくれ」


 刑事は、また少し黙り、


「君は、岡本先生にいじめられていたのか?」


 なんて頓珍漢なセリフを吐いた。

 馬鹿げている。学校の関係者に何も聞かずに交渉していたのか。


 いや。違う。そうか。


 


 クラスメイトも学年主任も教頭も、みんな黙るに決まってる。

〈いじめ〉なんてなかったと、素知らぬ振りを突き通すに決まってるんだ。


 この期に及んで……いや、この期に及んだからこそ、彼らは必死の思いで保身に走る。ただの頭のおかしい生徒のひとりが、教育熱心で尊敬すべき教師を殴り殺しただけの事件だと、そういうことにしようとする。


 ――僕ら、木崎くんをいじめてなんかいません。岡本先生はとってもいい先生でした。木崎くんがなんであんなことしたか、わかりません。


 ――岡本先生が〈いじめ〉なんてねぇ、ありえませんよ。彼の思い込みなんじゃあないですか? もしあったらねぇ、学年主任の私あたりに相談してもいいもんでしょう。ええ、相談なんてされませんでしたよ。


 ――いじめ調査アンケート? 確かに実施しましたが、あれは教育委員会からの指導に基づくもので、〈いじめ〉の訴えなど出ていません。それに、アンケートの結果も〈いじめ〉の実在を示すものではありませんでした。


 クラスメイトが、学年主任が、教頭が、それぞれに勝手なことを言って事実を隠蔽する声を、はっきりと想像することができた。


 まあいいさ、と竜人は思う。

 連中は連中で自分の身を守っていればいい。俺もそうするから。


「放っておいてくれないのなら、自殺する」


 竜人は受話器に向かって断言した。


「俺を捕まえたいなら、突入でもなんでもすればいい。でも、そうしたら、すぐに自殺してやる。アンタたち警察の銃で、自殺してやる」


 刑事が何か言おうとしたが、無視して続ける。


「自殺されたくなかったら、今すぐマンションから警察を撤退させろ。一人でも警官を見かけたら、すぐに自殺だ。捕まるくらいなら、俺はそうする。自殺する。もう四人も殺したんだ。生きてたってろくな人生になりはしない。そうだろ? なぁ?」


 自分の言葉で興奮していくかのように、段々と語気を強めていく。

 言葉は全て嘘だ。どうせ警察は撤退しないし、何があろうと自殺する気などない。そも、にするために四人を殺したんだ。今さら自殺などしたら、それこそ大損だろう。


 だが、こういう状況なら、狂った子供を演じたほうが有利だ。ちょっとしたことで自殺してもおかしくないように思わせたほうがいい。


 警察が恐れているのは犯人の――中学生の子供の死だ。

 突入の際に死なせてしまうのは論外として、精神的に追い詰めてしまっての自殺もまずいシナリオだ。自殺に使われるのが、奪われたとは言え警察の銃なのだから、尚更まずいことになる。


 


 責任のある立場にいる人間が、揃ってそれを考える。そして、自分は責任を取りたくないから、犯人を刺激するのは避けろと下命し、突入の判断も遅くなる。

 責任の小さい末端の連中も同じだ。上からの命令に従ってさえいれば、自分が責められることはないから、喜んで上司の保身に付き合おうとするだろう。


 それを利用する。


 今こそ自分の保身のために、彼らの保身を利用するんだ。


「そういうわけだから、とっとといなくなってくれよ。じゃあ」


 竜人は一方的に電話を切り、電話線を引き抜いた。


 タイミングよくオーブンが音を立て、冷凍ピザが温められたことを伝えた。

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