プロローグ 1
別に自分からねだったわけではないが、親なりに、今どきの中学生が欲しがる物をと考えてプレゼントしてくれたのだろう。もしくは、高校受験に向けて、アプリで勉強しろという無言のメッセージだったのかもしれない。
中学校での竜人は、特に目立つ生徒ではなかった。
成績も、授業態度も、対人関係も、至って平凡な中学生だった。
あまりに平凡すぎて、担任教師ですら、卒業から一年と待たずに存在を忘れてしまうのではないかと思うくらい、
二年生から三年生に上がる際、クラス替えが行われ、竜人の担任は岡本という男性教諭に替わった。
この岡本という男は社会を担当する教師だったが、授業中に頻繁に高校受験の話題を出し、無駄にプレッシャーをかけてくることから、生徒たちからは嫌われていた。
しかし、竜人は岡本を特に嫌ってはいなかった。そうかと言って好きでもなく、有り体に言ってしまえば、興味がなかった。岡本に対しては「成人男性の平均からすると小柄だ」という程度の印象を持っているだけだった。
それが変わったのは、三年生になってから一ヶ月ほどが経った頃だ。
その頃、竜人はクラス内で〈いじめ〉が行われていることに気づいた。
いじめられていたのは、宮内くんという気弱そうな少年だった。
気弱そうだからいじめられるのか、いじめられるから萎縮して気弱そうに見えるのか、それはわからない。宮内くんとは初めてクラスメイトになったので、竜人は彼のことをよく知らなかった。
宮内くんは竜人の二つ後ろの席で、分厚いレンズの眼鏡をかけている。いつも怯えるように体を小さくし、俯きながら暮らしていた。
そんな宮内くんを率先していじめていたのが、担任の岡本だった。
教師による生徒への〈いじめ〉だ。
岡本は、一体宮内くんの何が気に食わないのか、積極的に彼を虐げた。
岡本の受け持つ社会の授業中、宮内くんは、ほとんど席に座ることを許されない。岡本は「これくらいわからないと受験失敗するぞ!」などと言い、まだ授業に出ていないことを問題にして宮内くんを指名し、答えに窮すれば、そのまま授業が終わるまで立たせるのだ。
だが、岡本は宮内くんに暴力を振るうことはなかった。一度でも手を上げれば、体罰で訴えられるとわかっていたからだ。
その代わり、岡本は言葉で宮内くんを殴った。
彼の外見を、成績を、教師の立場で知った彼の家庭環境まで持ち出し、逆に感心してしまうほどの豊富な語彙で貶し、侮辱し、罵倒した。
さらに岡本は、他の生徒たちを〈いじめ〉に荷担させた。
受験を目前にした中学三年生にとって、担任教師に嫌われるというのは悪夢だ。岡本は「内申点」や「推薦」といった言葉をチラつかせて生徒たちを脅し、みなが宮内くんをいじめるように仕向けていった。
生徒たちは自分の将来のため、岡本に追従して宮内くんを嘲笑った。
笑い声はやがて罵声に変わる。宮内くんを上手くいじめると岡本が喜ぶから、みんな彼の機嫌を取って良い点をつけてもらおうとするみたいに、率先して宮内くんの心をより深く傷つけられるやり方を考えるようになった。
そうやって、いつしかクラスには、宮内くんをいじめないことが悪であるかのような空気が作られていった。
そんな状況を傍観しながら、竜人は、
(……面倒だな)
と、そう思った。
竜人は宮内くんをいじめる輪に参加していなかったが、このままだと宮内くんをいじめていないという理由で、自分のほうが〈いじめ〉に遭う可能性がある。実際、すでに竜人はクラスメイトの半分くらいから無視されている。まるで笑い話だ。
だからと言って、〈いじめ〉に荷担するのも馬鹿げている。
この調子で〈いじめ〉がエスカレートし、万が一、宮内くんが自殺を図るようなことにでもなったら、そのほうがよっぽど受験に悪影響だろう。
〈いじめ〉に荷担した場合と、〈いじめ〉を止めた場合、どちらのほうが自分にとって不利益になるか、竜人はそれを考え、結果、前者のほうが不利益になる可能性が高いと判断した。
つまり、宮内くんを〈いじめ〉から救うことにした。
無論、正義感などではなく、自分のために。
とりあえず、まずは大人に〈いじめ〉の事実を伝えるべきだろうと考え、竜人は宮内くんが普段どのようなことをされているかをノートに記録し、それを持って学年主任に相談してみた。
三年の学年主任は定年間近の頭に白髪の混じった男性教師だった。学年主任という役職は教育活動について指導を行う立場だと聞いたし、まだ教師になったばかりの副担任よりは当てになるだろう。
ところが、竜人が〈いじめ〉の記録を渡し、実際に目撃したことを証言しても、学年主任の返答は要領を得ないものだった。
こういうのは複雑な問題だから、などと口を濁し、どんな対応を取るか明言しないまま、まるで逃げるように去ってしまった。その反応の薄さに、竜人は嫌な予感を抱いた。
かくして、その予感は当たる。
宮内くんへの虐待は終わらず、それどころか、ついに竜人までもが〈いじめ〉の標的にされるようになった。
しかも、〈いじめ〉の主導者の岡本は、竜人が学年主任に告発したことを知っていたばかりか、学年主任に渡したはずの〈いじめ〉の記録を持っていて、それを竜人の前で破り捨てて見せた。
竜人には、何が起きているのかわからなかった。
想像できるのは、告発する相手を間違えたということだけだ。
だが、学年主任の行動は、いくら考えても理解できない。〈いじめ〉を放置することは、彼にとっても不利益になるはずだ。
そのとき、自分を取り囲んで「チクリ魔」などと幼稚な言葉で罵倒してくる生徒たちの目に、竜人は怯えを見た。これは、告発を受けた学年主任の目にも浮かんでいたものだ。
彼らは怯えている。
竜人の告発によって、自分たちが断罪されることを。
〈いじめ〉の問題が露見すれば、生徒たちや岡本だけでなく、学年主任もその立場から責任を追及される。彼はそれを恐れた。あと僅かで定年という今になって不名誉な処分を受け、自分の教師人生に疵がつくことをだ。
だから、学年主任は岡本に竜人の告発を伝えた。
何故そんなことを、と問われれば、〈いじめ〉をやめるよう指導した、などと言うのだろう。実際には、自分に責任が及ばないようバレないようにやってくれ、と懇願したも同じなのに。
いじめられている子供の気持ちなど慮らず、その子が自ら命を絶つ可能性になど目もくれず、ただただ自分の保身のために、子供らを指導する立場にある大人が軽挙に走った。
大人だけではない。子供である生徒たちもまた、保身のために他者を虐げる。自分の安心や安穏のために、容易く他人のそれを奪い取る。そして、仕方なかったと言い訳する。自分のせいじゃないと転嫁する。
彼らは決して悪人ではない。
自分の身を守りたいと思うのは本能で、弱い生き物ほど、その本能は強く働く。
彼らはただ、哀れなほどにか弱く、そして善良なだけなのだ。
その善良さがときに人を殺すのだと、彼らは想像もしないのだろう。
やがて、〈いじめ〉の標的は完全に竜人に移った。
宮内くんは、竜人に礼を言うこともなく、庇うこともなく、しれっとした顔でいじめる側に回った。彼もまた、保身に走ったのだ。
持ち物を隠されたり、教師からの連絡事項を伝えられなかったり、給食を食べられないようにされたり、様々な嫌がらせを受けた。一つ一つは呆れてしまうほど些細なものでも、雨霰のように叩きつけられれば大きな苦痛となる。
暴力を受けることだけはなかったが、いっそ殴る蹴るの暴行を受けたほうが、それを理由に警察へ訴えることができた分、楽だったかもしれない。
だが、黙って虐待を受け入れるつもりなど、竜人にはなかった。
自分の受けた仕打ちを逐一記録し、それを持って、今度は学年主任よりさらに上、教頭に告発した。
その翌週、全校で「いじめ調査アンケート」なるものが実施された。
そして、それっきりだった。
教頭に詰め寄ると、アンケート調査では〈いじめ〉があることを確認できなかったと言われた。岡本やクラスメイトたちへの口頭質問でも、それは同じだったと言われた。本当にいじめられているのか、とも言われた。
それから、〈いじめ〉はさらに酷くなった。
もう、学校で何をするのも難しくなってしまった。
竜人は両親にも〈いじめ〉のことを打ち明け、一緒に、国や自治体などが運営する相談窓口などにも訴えてみた。
しかし、それでも状況は変わらなかった。
そもそも、〈いじめ〉は教室内だけで行われているから、岡本とクラスメイトたちが口裏を合わせたら、どこの誰が調査に入ったところで実態を掴めるわけがない。まして、学年主任まで隠蔽に協力しているのだ。誰に何を訴えたところで、どうしようもなかった。
相談する際の、竜人の態度にも問題があったかもしれない。
竜人にとっての「いじめ相談」とは、言ってしまえば「虫歯を治すために歯医者に行く」という感覚に近い。
虫歯になると歯が痛む、歯が痛むと日常生活に支障が出る、だから虫歯を治せる歯医者の所へ行く。
それと同じように、〈いじめ〉を受けていると日常生活に支障が出る、だから〈いじめ〉を解決できる人の所へ行く、という感覚でしかなかった。
そのため、〈いじめ〉の実態を訴えるときも、歯医者で、いつから歯が痛むか、どんなときに歯が痛むか、を説明するときのように淡々としていて、被害者らしい「悲痛さ」や「必死さ」が微塵もなかった。
そんな態度が、相談相手に、この子は本当にいじめられているのか、と疑念を抱かせる結果となり、最終的には両親すら、息子がいじめられている事実に対して懐疑的になってしまった。
失敗したかな、と竜人は思う。
もっと可哀相な被害者という風を装ったほうがよかったか。〈いじめ〉を理由に登校拒否して、自室に引きこもり、挙げ句の果てに自殺未遂でもしてみせれば、みんな親身になってくれただろうか。
だが、それでも意味はなかっただろう、とも思う。
結局のところ、みんな、いじめなど無いほうが都合が良いのだ。
学年主任も、教頭も、教育委員会などの組織にとってもそうだ。
「いじめがある」なら、それを時間や手間をかけて調べなければいけないし、誰かが必ず責任を取る羽目になる。
「いじめがない」なら、調査の手間はなく、誰も責任を問われない。
最初から「いじめがない」ことにできるなら、みんな一生懸命にそういうことにしようとするのは、考えてみれば当然なのだった。
あとで「いじめがある」と正義の弾劾を受ければ、そのときはそのとき、またみんな必死の思いで、知らない振りの学芸会、自分じゃないの大合唱、そんな醜い責任転嫁に精を出す。
誰も彼もが保身ばかりを追い求める。
それも、ほんの僅かな、ほんの刹那にすぎない、一時の保身を。
しかし、誰がそれを責められようか。我が身可愛さ、自分を一番に守りたいという思いは、みんな同じだ。
木崎竜人という少年も、また同じ。
彼は考える。自分の身を守るには、どうすればいいか。
彼は考える。自分の思うように生きるには、どうすればいいか。
今までと同じように学校へ行き、今までと同じように勉強して、今までと同じように暮らしていくには、どうすればいいか。
おそらく、一番わかりやすいのは、担任教師の岡本を排除することだろう。
あの男がいなくなれば、クラスメイトたちが保身のために〈いじめ〉を続ける理由が消滅する。
全てを最初に始めたのも岡本だ。
何故、岡本が宮内くんに執着していたのかは不明だが、そもそも岡本が宮内くんをいじめていたのが全ての始まりで、教育委員会あたりが「いじめがある」と認めてくれていれば、まず行われたのは岡本の排除だったはず。
そう考えてみると、とりあえず岡本を消してみるというのは、それなりに筋の通ったアイディアに思える。
だが、岡本が何かの拍子に突然いなくなる可能性は限りなく低い。教師にも転勤はあるが、今はクラス担任を務める身であるし、竜人たちが卒業するまでは学校に居続けることになるだろう。
いなくならないのであれば、死を待つのはどうか。
死ねば何もできなくなる。誰もいじめられなくなる。
確か、岡本はまだ四十代だったはず。ぱっと見は健康体に見えるし、病死や自然死の可能性に賭けるのも非現実的だ。
自然に死なないのなら、死なせればいい。そのほうが早い。
明日の午前中に殺してみて、それから周囲の変化を見てみよう。
上手くいけば、〈いじめ〉の問題はそれで解決するはずだ。
こうして、木崎竜人は、担任教師を殺すことに決めた。
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