褒美

 アウリタ王国、テス・テアロ天賜てんし城、謁見の間。


「よくぞ戻った、師団長リュートよ! 此度の活躍、聞き及んでおるぞ!」


 広いホールの最奥、最も高い位置から、朗々とした男性の声が響いた。


 この国の王、アウリトス・エテン・テアロ陛下。


 艶のある黒髪の上に王冠としては質素なサークレットを戴き、彫りの深い精悍な顔つきは、戦の勝利という土産とともに帰還した配下への労いと、その配下の無事の帰還への喜びに満ちていた。


 アウリタ王国の名は、聖山アウリタと、その山頂に座すると伝えられている女神・アウリタに由来する。王の名であるアウリトスとは、その男性名だ。


「ミ・タウ王国首都の制圧の任、大義であった!」

「勿体なき御言葉、ありがたく存じます」


 玉座より一段低いところで膝を突き、頭を深く垂れたまま、リュートは応えた。


 この国では、より高い位置に立つ者ほど位が高い。

 謁見の間も、玉座の据えられた段を最高位とし、合わせて七段に分けられており、壁際に居並ぶ貴族や官吏たちも、己の位に即した段に立っている。

 これは、高い場所にいる者ほど山の頂に近い――すなわち、女神・アウリタに近いと考えられているからだ。


 リュートが膝を突いているのは、謁見の間で二番目に高い位置。普段、リュートが立つことを許される段よりも一つ高い。

 今、リュートより高い段にいるのは、喜色満面の国王と、微笑みを湛えるその妻――王妃だけである。


「リュートよ。たるそなたの能才は知っておったが、よもやこれほど迅速に戦を終結せしめるとは、見事と言うほかない」


 喜びの興奮を静め、口元のマフラーを直しながら王が言った。


 アウリタ王国はほぼ全土が寒冷な土地だ。急峻な山々が多く、標高の高さも相まっての厳しい寒さに、民は建国当初から耐えてきた。

 国民の多くは、ほぼ一年中を通し、マフラーなどの防寒用の巻物を身に着けるのだが、現在では、これが身分の証として利用されている。

 首元のマフラーの色や刺繍を見るだけで、その人物がどのような身分にあるのか一目でわかるというわけだ。


 王と王妃が身に着けるマフラーは、白い布地に金糸の刺繍が施されている。白のマフラーは王族のみが巻くことを許される。

 対し、リュートが巻いているのは赤い布地に白糸の刺繍、そして金の輪飾りが三つ掛けられている。赤い布地は軍属であることを示し、刺繍は武爵の位を賜っていることを証す。金の輪飾りは統合大元帥に次いで高い地位にあることを意味している。


「当初の想定を遥かに超える早さの終戦に、宰相も驚いておったよ。あれが素直に人を褒めるところなど、滅多に見られるものではない。私など小言を吐かれてばかりと言うに」

「あら、それは陛下が浮気な御方であるからではありませんか?」

「む……」


 隣に座る王妃に朗らかに窘められ、王は口籠もった。


 王が口にした人物――宰相・ギメールは、謁見の間に姿が見えない。師団の長とは言え、一軍人の軍功報告に付き合うほど、彼は暇人ではないということだろうか。事実、宰相という立場は、多忙さだけで言えば王よりも上だ。


 王は、コホン、とわざとらしく咳払いして言葉を続ける。


「しかも、聞いたところによれば、大規模攻性霊術に頼らずに作戦を遂行し、首都も王城も、大きな損壊なく制圧したというではないか」


 リュートは顔を上げて応える


「恐れながら、戦を勝利ののちに決すれば、ミ・タウの全土は我が国――引いては我が尊君、アウリトス陛下の掌中に収まりましょう。なれば、徒に損ずるは罷り成らぬと、匹夫の身ながら愚考した次第にございます」


〈むこう〉では全く使うことのなかった回りくどい言葉の羅列も、今では流れるように吐き出すことができるようになった。

 ただ、これを成長と呼ぶのは、いささか卑屈な気もする。


「うむ。斯くの如き有り様であれば、ミ・タウの併呑、および新たな民からの租税の徴収も、さほど労せずに済むであろう。重ねて、大義であった」

「はっ。ありがたく存じます」


 リュートはより深く叩頭しながら応えた。


 本来ならば、国王の御前とは言え、こうも遜る必要はない。アウリトス陛下は温厚であると同時に実務家でもあり、過剰な謙譲を嫌う。仮にリュートが膝を突かずにいたとしても、それを不敬と捉えることはないだろう。


 だが、王はそうでも、この場にいる貴族たちは違う。中には、若くして高い位に就いたリュートを者もいる。


 これ以上の立身出世は望まないが、貴族たちからの嫌がらせを捌くのは、想像するだに面倒だ。額を地面に擦りつけるだけでそれを避けられるのならば、リュートはいくらでもそうするつもりでいる。


「さて。此度のめざましい働きに対し、私から褒美を与えよう」


 王の言葉に、居並ぶ貴族たちの視線が鋭くなるのを、リュートは感じた。


「……とは言ったものの、そなたにはもう、館に領地に召使いにと、褒美と呼べるものはおおよそ与えてしまっていたな。……そこで、だ」


 王は、にぃ、と悪戯っぽく笑うと、威厳のある仕草で手を叩いた。

 すると、リュートより一段低い位置にいる貴族たちの中から、三人の女性が前に進み出た。三人とも、ドレスや宝飾品で着飾り、化粧を施してはいるが、女性と言うより少女と言ったほうが適切なほど若く見える。


「ハミドラル侯爵家が三女、セレナ嬢」


 王の紹介を受け、一番背の高い少女が、恭しく頭を下げた。


「ゼスィー伯爵家が長姉、ミナ嬢」


 次いで、茶色の長髪を後頭部で束ねた少女が、おどおどと頭を下げた。


「クルス伯爵家の一人娘、リズディーン嬢」


 最後に、青と緑のオッドアイの少女が、無表情で頭を下げた。


「いずれ劣らぬ良家の子女。いずれ劣らぬ器量よしの娘たちだ。リュートよ。この三人を、そなたの妻として与えよう!」


 王が右手を振り上げながら宣言した。

 背後に並んだ少女たちを、膝を突いたまま肩越しに眺め、リュートは、


(なるほど……な)


 と、先程の王の笑顔の意味を理解した。


 アウリトス陛下は、能力的にも人格的にも一国の王として不足ない。ただ一つの欠点が、色を好むこと……平たく言えば、女好きなのである。

 王妃と五人の側室以外に複数の女性を囲っていることは公然の秘密であるし、国家の要職に若い女性を登用しようとするのを宰相が止めているという話も聞く。リュートが初めて賜った褒美も、見目麗しい女性の召使いであった。


 自分が女好きであるから、配下も女を与えられれば喜ぶであろうと、王は考えている。そういった部分も、欠点の一つと言えるだろうか。


 リュートは三人の少女を眺めたあと、王に向かって深く叩頭し、


「ありがたく頂戴いたします」


 と言った。


 リュートにとっては、妻など与えられたところで面倒ごとが増えるだけだ。

 しかし、王からの褒美を断るなどとは、決して許されることではない。温厚な王が許しても、周りの貴族や官吏たちが許さないだろう。


「私のような匹夫には勿体なき褒美を賜り、望外の喜びにございます。この喜びを糧とし、益々以てアウリタ王国の繁栄に寄与できるよう、奮励努力いたす所存です」

「うむ! そなたのますますの活躍、期待しておるぞ!」


 そう言って、王は豪放磊落に笑った。



     ◆ ◆ ◆



 王との謁見を終え、リュートはテス・テアロ城をあとにした。


 テス・テアロ――この地方の古語で「天の剣」を意味する王城は、急峻な山裾に、名前のとおり突き立てられた剣の如く屹立している。

 風貌こそ威容なものの、城としての規模は他国のそれに比べると小さい。アウリタ王国はほぼ全土が山岳地帯であり、広大な面積を要する城塞を建築することが難しいためだ。


 しかしながら、大規模建築を困難にするその山々こそが、今日までのアウリタ王国の発展を支えてきたのも事実である。


 険しい山々と寒冷な気候は敵国の侵略を寄せつけず、豊富な鉱山資源が国家全体を潤して尚あまりある莫大な富を生んだ。

 その結果、現在のアウリタ王国は、大陸全体でも三指に数えられる大国となったのである。


 山の頂に向かって聳え立つ、テス・テアロ城の尖塔を背後に、リュートは自宅に向かって騎竜きりゅうを走らせた。


〈こちらの世界〉には馬がいない。

 代わりに、二本足で疾駆する竜――ドラゴンを、〈むこう〉の馬と同じような感覚で利用している。

 人が乗る騎竜として用いられる竜にはいくつかの種類がいるが、アウリタ王国では主にシャン・ドラゴンという、ぱっと見は〈むこう〉で言うダチョウに似た竜が用いられる。


 シャン・ドラゴンの全身はツヤツヤとした緑色の鱗で覆われており、ダチョウに比べると首が短く太めで、小さな前脚と、強靱な後脚、そして一対の大きな翼を持つ。ただし、翼で飛翔することはできず、走行時のバランスを取るためだけに使っているようだ。

 リュートが騎乗するシャン・ドラゴンは『煌血竜こうけつりゅう』と呼ばれる特別な個体で、全身が赤黒い色をしている。リュートがまだ尉官だった頃、隣国から流れてきた野盗の集団を討伐した褒美として、王から下賜された。


 同じく、先程、王から下賜されたばかりの三人の新妻は、リュートの後方、騎竜二頭が引く客車の中にいる。

 その後には四頭引きの荷車が続いていて、おそらく中には新妻たちの嫁入り道具が積まれているのだろう。


(……準備がよすぎる)


 後が遅れていないか確認しながら、リュートは脳裏で呟いた。


 あの三人がリュートの妻となることは、昨日の今日で決定されたことではなさそうだ。当の三人は勿論、その親、そして謁見の間での反応を見る限り、他の貴族たちにも話が通してあったようだし、ミ・タウ王国の制圧などとは関係なく、王は最初からリュートの妻としてあの三人を宛がうつもりでいたのかもしれない。


(謀られたかもしれないな)


 褒美として与られれば、リュートには断ることができない。それを計算して、あの三人を押しつけてきたのか。


(だとすると、その目的はなんだ?)


 騎竜の手綱を引きながら、リュートは、


(やっぱり、面倒ごとが増えただけだったな)


 ――結婚とは人生の墓場である。

 そんな言葉を思い出しながら、小さく溜め息を吐いた。



     ◆ ◆ ◆



 リュートの自宅は、城から見て山をグルリと半周ほどした位置にある。


 アウリタ王国では、公の行事などの際、立っている場所の高さが、そのまま国内での身分の高さとして示される。それは住居の場所も例外ではなく、標高の高い位置の邸宅に住む者ほど、同じように身分と地位も高い。

 半年ほど前に下賜されたリュートの邸宅は、国で最も標高の高い位置に建つテス・テアロ城から数えて、三番目に高い位置に建てられていた。


 門をくぐると、庭を挟んだ真正面に、三階建ての建物が見える。屋根や窓枠、扉の周囲こそ豪奢な彫刻が施されているが、同じ標高に建つ貴族の邸宅に比べると、かなり地味な外観をしている。

 建物を囲む庭には、庭木や花壇の類が一切ない。ただただ緑色の芝生が広がっているだけだ。平坦な土地の少ないこの国では、庭を持っているということそれ自体が誉れであり、庭を狭く見せかねない物は徹底的に省かれてしまう。


 リュートは騎竜から降り、扉の前で待っていたメイドに手綱を手渡した。


「おかえりなさいませ、ご主人様」

「今日は連れがいる。報せは来ているか?」

「はい。お迎えする準備は整っております」

「そうか」


 短く言うと、メイドは深く一礼し、手綱を引いて裏手にある厩舎へと向かった。


 門のほうを振り向くと、客車と荷車が庭の中ほどで停車するところだった。

 リュートは客車の御者にチップを渡してから、客車の扉を開き、3人の新妻が降りるのに手を貸した。


「ありがとうございます」

「あ、あり、ありがとう、ございます」

「……ありがとうございます」


 セレナ嬢は優雅な仕草で、ミナ嬢はおっかなびっくり、リズディーン嬢は淡々と、それぞれに礼を言った。


 女性をエスコートするのが貴族の男の礼儀であれば、男性にエスコートしてもらうのを待つのが礼儀であると貴族の女は心得ている。リュートが放っておけば、いつまで経っても客車から降りてこなかっただろう。


 続いて、リュートは荷車の御者にもチップを渡した。


「お荷物は如何なさいますか? お運びしましょうか?」

「いや、それはウチの者にやらせる」


 少し訛りのある御者は「はい」と言って頷いた。


 それから、三人の新妻を連れて家に入ると、


「おかえりなさいませ、ご主人様、奥方様」


 メイドの声が九人分、揃って出迎えた。

 この九人に騎竜を厩舎に引いていったメイドを合わせて計十人のメイドが、この屋敷で働いている。屋敷の広さ、部屋数から考えて、最低限度の人数だった。

 メイドたちは若く、綺麗どころが揃っているが、これはリュートが選んで雇用したわけではなく、一人を除いて、この屋敷と同時に王から下賜されたものだ。


 除かれた一人、王から最初に下賜されたメイドが、前に進み出た。


「ご主人様、このたびは、ご婚姻、おめでとうございます」

「……ああ」


 リュートは短く応え、笑顔のメイドに外套とマフラーを手渡す。

 新妻たちも、コートハンガーに引っかけるような気軽さで、上着などをメイドに預けていた。流石に貴族の娘とあって、メイドがいて当たり前の環境に慣れている。


 手の空いているメイドたちに、外の荷車から新妻たちの荷物を運び込むよう指示したのち、リュートは新妻たちに向き直った。


「少し聞いてくれ」


 休憩中の兵士たちに声をかけるような感覚で、新妻たちに呼びかける。

 六つの円らな瞳が、リュートの顔を見つめた。


「この家は君らの好きなように使って構わない。どれでも好きな部屋を自分の部屋にしてくれていい。外出も、家の中で何をするのも自由だ。雑用があればメイドたちに言いつけてくれ」


 そこまで一息に言い切って、


「以上だ。何か質問は?」


 兵士たちに作戦内容を説明するような感覚で締めた。


 すると、呆けたような空気が新妻たちの間に流れ、それを振り払うように、三人の中で最も背が高くスタイルもよいセレナ嬢が進み出た。


「リュート様、ご厚意、感謝いたしますわ」


 スカートを摘まみ上げ、優雅に礼をする。

 セレナ嬢は、顔立ちが大人びていて、若干の吊り目であることから、少し性格がキツめな印象を受ける。全く癖のない黒い長髪も、何があっても自分を曲げない気の強さを表しているように見えた。


「貴方様のように、武運に優れ、他者を思いやる心をお持ちの方の妻となれること、まことに光栄の至りです。我が父、ジダル・エル・ハミドラルも、此度の婚姻を大変嬉しく思っております」


 このセリフは、城で自己紹介されたときにも聞いた。

 彼女の父、ジダルは、内務を司る高官の一人であり、謁見の間で、リュートと同じ三段目に立つことが許されている貴族でもある。


「つきましては、此度の婚姻の喜びを多くの方と分かち合うべく、結婚披露宴を執り行いたいと、父が申しております。ご多忙のこととは存じますが、私たち夫婦の門出を祝う場にもなりましょう、ご予定は如何でしょうか?」


 私たち夫婦、という部分に他二人の新妻に対する牽制が込められているように感じたのは、気のせいではないだろう。

 当の二人はと言うと、ハミドラル家よりも爵位が低いことに気後れしているのか、それとも個人の性格ゆえか、一歩後ろに下がっている印象を受ける。


「ミナ。リズディーン。君らの家でも披露宴を行う予定はあるのか?」


 リュートが問いかけると、


「は、はい。一応、その……ご、ございます」


 ミナは怯えた様子で肯定し、リズディーンは無言で頷いた。


「そうか。それなら、まず三家で話し合って、それぞれの日取りを決めてくれ。こちらの予定はそれに合わせる」


 軍属の高官にも貴族は多いし、その繋がりから、披露宴に招待される者も少なくはないだろう。つまりは、軍全体の予定のほうが披露宴に合わせて動く可能性がある。そうならば、リュート個人で予定を整える必要もない。


「日取りが決まったら側付きの――」


 最初に下賜された召使いを示す。


「彼女、シオンに伝えてくれ」

「なんなりと、お申しつけくださいませ」


 シオンは新妻たちに深く頭を下げながら言った。


 リュートの側付きのメイドであるシオンは、少し特別な立場にある。身の回りの世話は基本的にシオンが専属で行い、掃除などのためにリュートの私室へ無断で立ち入ることが許されているのもシオンだけだ。さらに、予定の管理など、メイドと言うより秘書のような仕事もしている。


「わかりましたわ。そのようにいたします」


 セレナはシオンに一瞥もくれず、リュートのほうだけを見て言った。

 夫から特別扱いを受けるメイドに嫉妬した、などという可愛い態度ではあるまい。ハミドラル侯爵家の娘として、将来有望な師団長の妻という立場を堅持することこそが自分の役目と信じているのだろう。


「それでは、あとは自由にしてくれ」


 リュートは素っ気なく言い、シオンを伴って自室に向かった。



     ◆ ◆ ◆



「可愛らしい奥方様ですね」


 部屋に入って扉を閉めると、すぐにシオンが言った。


「誰のことだ?」

「どなたも。ご主人様のお気に入りはどなたですか?」


 質問には答えず、リュートは腰に提げていた剣を外し、シオンに手渡した。

 普段、リュートは細身の両刃剣を提げている。戦場ならばともかく、日常の執務をこなすのに宝槍は邪魔にしかならない。


 リュートの部屋は屋敷の三階、直方体に近い形をした建物の角にあった。防寒のため二重になった窓からは、背の低い高山植物で覆われた緑の山裾を眺めることができる。今は比較的暖かく、雪の少ない季節だが、これがもうしばらくすると一面の白に染め上げられる。


「赤午の刻より、メテトゥラ様のお屋敷を訪問するご予定になっております」


 シオンは剣を片付けながら言った。主の気分に添わない話題をいつまでも続けるようなことはしない。

 赤午の刻とは、〈むこう〉での午後三時くらいの時間を意味する。部屋の隅の大きな柱時計を見ると、まだ時間には余裕があった。


「一刻ほど休む。用向きは聞く」

「軽食など、ご用意いたしましょうか?」

「頼む」

「かしこまりました」


 シオンは扉の前で軽く一礼して応えた。


「それと――」


 リュートは机の上に置かれた書簡を確認しながら言う。


「――新しく屋敷に人を雇い入れる。同居人が三人も増えたんだ。今の人員では回らないだろう」


 まして、増えたのは貴族の娘だ。貴族がみなワガママだとは思っていないが、メイドに課せられる仕事の量は確実に増える。


「必要な能力を持つ人間を、必要な数、揃えろ。方法と人選はお前に任せる」

「かしこまりました」


 シオンは表情を一切変えず、やはり軽く一礼して応えた。

 彼女にこのような雑用を頼むのは珍しいことではない。シオンは、メイドとして有能なのは勿論、リュートの部下としても非常に有能だった。

 自分がこうも早く出世できたのは、雑事の一切をシオンが引き受けてくれたからだと、リュートは考えている。


「以上だ。下がっていい」

「はい。失礼いたします」


 再度、シオンは一礼し、静かに部屋を出た。


 机の前の椅子に座り、リュートは腰を据えて書簡の内容を確認する。

 ミ・タウ王国の首都を攻略するのにかかった期間が、およそ半月。想定外の早さでの作戦完遂とは言え、その間、留守にしていたために、かなりの数の書簡が溜まってしまっていた。


 だが、軽く目を通した限り、ほとんどがリュートより下位の貴族から寄せられた挨拶状の類であったため、すぐに読むのをやめた。親戚の誰それが軍属に入ったからよろしく頼む、といった、実にくだらない内容ばかりだった。

 こういった無駄なやり取りが、貴族の間には信じられないくらいに多い。返事は書かねばならないが、リュートはその全てをシオンに任せている。


 読むに値しない書簡をひとまとめにして束ねていると、机の隅に置かれた一枚のが目に入った。

 リュートは、それを手に取る。


 その板きれは、自分が何者であるかを忘れないために、いつも目に入る場所に置いている物だった。

 大きさは、片手で覆い隠せる程度。板と言っても木製ではなく、表面はガラスのように滑らかだ。表側は黒一色、裏側は光沢のある銀色をしていて、側面には形の違う穴が複数ある。

 表側は、端のほうに一部、力を入れると押し込める部分がある。

 リュートは、その部分を親指で押してみた。

 だが、なんの変化も起きない。

 当然だ。のだから。


 その板きれは、〈むこう〉ではと呼ばれている。


 リュート――木崎竜人きざき たつひとが〈むこうの世界〉に弾かれてから、約二年。

 今となっては、リュートが木崎竜人であることを証明する物は、この板きれだけになってしまった。

〈こちら〉に飛ばされたとき、持っていたのはスマートフォンだけで、着ていた衣服などは、もう残っていない。


 竜人は、スマートフォンの黒い画面を見つめる。

 そうしていると、それを最後に使ったときのことが思い出された。

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