『黒犬』

矢口晃

第1話

むかしむかし、ある小さな村での話です。

 村には大きな川が流れ、川の向こうへ行く人たちは、皆渡し舟を使っていました。

 川べりの舟着場にはいつも数層の舟がもやってあり、川の波に合わせてぷかぷかと浮かんでいました。

 その舟だまりには、いつも年老いた一匹の黒い犬が、木の下の影に退屈そうに腹這いになり、時々しっぽを右へ左へ振ったりしながら静かに川面を眺めていたそうです。

 野良犬と見えて、鎖も紐もつけてはいません。どこかの犬と喧嘩するのでしょうか、体には古い傷やらまだ血のにじむ生傷やらがあちらこちらにできています。餌もたらふくは食べていないと見えて、あばら骨が浮いて見えるほどやせ細っています。

 渡し舟を使う人たちもこの犬に一瞥こそ与えるものの、ほとんど誰も声をかけたり、まして食べものをやったりする人はありません。犬は時々思い出したように立ちあがると、何か食べられるものでも探しているのでしょうか、鼻面を地面へ近づけてその辺りをうろうろと歩き回りますが、何もないと見るやまたもとの木の下に座り込んでしまいます。

 柿の実も赤く色づいたある秋のことです。渡し舟を使おうと、一人の、異国の人かと思われるように背の高い男が背中にたくさんの薪を背負ってこの犬の前を通りかかりました。男はそこにうつ伏していた犬に気が付くと、まるで汚いものを見やるような目をして、

「ふん」

 と鼻で笑いました。人の気配に気がついて、犬も地面へ顎をつけたまま目を開いてじろっと男の方を見ましたが、またすぐにもとのように目をつむってしまいました。

「汚ねえ犬だなあ」

 男は層呟くと、退屈まぎれに犬に嫌がらせでもしてやろうと思ったのでしょうか、たまたま懐に持っていた安い銅銭を一つ取り出すと、

「これでも食らえ」

 そう言って犬に投げつけました。銅銭は犬の頭にこつりと当たると、そのまま犬のちょうど鼻先に転がりました。頭に何かがぶつかった感触でまた目を開けた犬は、そこに転がっていた銅銭をくんくんと嗅ぎ始めました。

「あはははは」

 男が口を開けて笑って見ていますと、犬は何を思ったかぺろりと舌を出すとその銅銭をくわえ、そのままごくりと飲み込んでしまいました。

「何だこの犬。銭を食いよるわ」

 大きな声で犬を馬鹿にするように言うと、男は再び二枚の銅銭を犬に向かって投げつけました。銅銭が体に当たると、犬はまた地面に落ちた銅銭を二枚とも飲み込んでしまいました。

「この阿呆犬め」

 男はそう言い残すと、渡し船に乗って向こう岸へ渡って行ってしまいました。

 さて、この日を境に、この村の舟だまりに銭を食う犬がいるという噂がたちどころに広がり、他の村からもこの犬見たさに人が集まるようになりました。皆面白そうに犬の周りに集まると、犬にめがけて銅銭を投げつけました。そのたびに犬は銅銭をくんくんと嗅ぎ、一つ残らず飲み込んでしまいます。犬を見にきた人々は、喜んで手を叩いたり囃したりしました。

 それからひと月ばかりたった頃のことです。あたりはすっかり木々が紅葉して、乾いた山おろしの風が、ぴゅうぴゅうと冷たく村に吹きこんできました。

 犬の周りは、またもとのように静かになっていました。この寒い中を、わざわざ銭を食べる犬を見に来る人など、一人もいないのでした。

 犬は年のせいか寒さのせいか、前よりも一段と痩せて元気がないようでした。なるべく日当たりのよい場所にうつ伏せながら、体をぶるぶると震わせていました。

 そこへ、厚い着物を着てほっかむりをつけた一人のおじいさんが、杖を突きながら通りかかりました。おじいさんはぐったりとした犬を見つけると、

「おやおや、こんなところで震えて。かわいそうにのう」

 と優しく声をかけました。犬はその声が聞こえたのかどうなのか、ぴくりとも動きませんでした。

 老人は親切そうな目を犬に向けながら、

「家に来たって何も食うものはないが、ここよりは暖かい。それでもよかったら、わしの家へ来るか」

 そう犬に話しかけました。犬はまるでその言葉が通じたかのようにおもむろに体を起こすと、しっぽをぱたぱたと左右に振って、おじいさんの顔を見上げました。

 おじいさんは嬉しそうににっこりとほほえむと、

「そうか。来るか。なら着いておいで」

 と言って、また杖をついてゆっくりとした足取りで歩きだしました。犬もその後ろを離れないように、ゆっくりと着いていきました。

 家に着くと、おじいさんはさっそく櫃に少し残っていた稗を犬にやりました。

「クロや、お食べ」

犬はおじいさんにもらった稗をおいしそうにむしゃむしゃと食べました。

「こんなものしかなくて、すまないのう」

 おじいさんはそう言いながら、犬の頭をかさかさの乾いた手で撫でてやりました。犬は優しいおじいさんの手のひらを、ぺろぺろと舌でなめました。

 夜になると、おじいさんは土間に蓆を敷いてやり、そこに犬を寝かせました。それまでは夜でも外で、凍えるような寒い思いをしていた犬も、風の吹きつけない家の中でぐっすりとよく眠ることができました。

 犬は親切なおじいさんの世話のおかげで、少しずつ元気を取り戻していきました。

 さて、それからまたひと月。いよいよ年の瀬も押し迫ってきたある晩のことです。おじいさんがすやすやと眠っていると、その夢枕に犬のクロが立ちました。犬はいつものようにしっぽを振りながらおじいさんを見上げると、

「おじいさん」

 と言葉を話しました。

「おじいさん。いつも私を世話してくれてありがとうございます」

「いやいや、何の。あたりまえのことじゃよ」

 おじいさんは犬の頭をなでながら言いました。

「おかげで、私もとても楽しく暮らすことができました。ただ――」

「ただ、どうしたのじゃ」

 おじいさんは急にしょんぼりとしてしまった犬の顔を心配そうにのぞき込みました。犬はしばらく黙っていた後に、おじいさんに言いました。

「ただ、私は今日の晩に死んでしまいます。明日の朝には冷たくなっていることでしょう。ですから、今日までのお礼をおじいさんに一言言っておきたかったのです」

「なに。死んでしまうじゃと」

 おじいさんは驚いて聞き返しました。犬は淋しそうな声で答えました。

「はい。そこでおじいさん、一つお願いがあるのです。私の屍を、どうか家の前にある桜の樹の根方に埋めてもらえないでしょうか。そして桜の咲く頃になったら、もう一度その場所を掘り返してほしいのです」

「あの桜の樹の下に?」

「はい。そうです」

「わかった」

 そう言うとおじいさんは犬の頭をぎゅっと抱きしめました。

「お前をきっと、その場所に埋めてやろう」

「ありがとうございます。おじいさん、どうか、いつまでもお元気で」

 犬が言い終わると、とたんにおじいさんは夢から覚めました。あたりはすっかり朝になっていました。布団から飛び出しておじいさんが犬の様子を見に行くと、確かに夢に出て言っていた通り、犬はすでに死んで冷たくなっていました。

「クロよ。クロよ……」

 おじいさんは、犬の最期の姿を見ると思わずそう言って泣きだしてしまいました。しかしおじいさんがいくら名前を呼び掛けても、犬は昨日までのようにしっぽを振って答えてはくれませんでした。

 おじいさんは犬の最後の望みをかなえるため、鋤と鍬とを持つと、山おろしの冷たい風が吹く中を、家の前にある桜の樹のところまで歩いて行きました。そして固い土に、犬を埋めるための穴を掘り始めました。

 ほどなくして、犬の体が収まるくらいの大きさの穴ができると、おじいさんは被っていたほっかむりを外し、もう一度家の中へと戻って行きました。そして死んでしまった犬に蓆を巻きつけると、その体を抱きかかえるように犬を運び出しました。

おじいさんは桜の樹の根方まで来ると抱えてきた犬をそっと穴の中に下ろしました。

「クロや。どうか、達者でな」

 おじいさんは最後の言葉を犬にかけると、なごりおしそうな手つきで犬の体に土をかけ始めました。全ての土をかけ終わると、犬のお墓の前でじっと目をつむり、両手を合わせました。

 それからおじいさんは、犬のいなくなってさびしい日々を一人で送りました。二月の立春も迎え三月になると、ぽかぽかと暖かい日が続くようになりました。桜のつぼみも大きくなり、もうそろそろ咲きそうな気配です。

 ある晩、おじいさんがいつものように布団の中で眠っていますと、あの死んでしまった黒犬が、再びおじいさんの夢の中に現れました。おじいさんが喜んで、

「クロや」

 と名を呼ぶと、犬も、

「おじいさん」

 と言って駆け寄って来ました。

 犬の頭を抱きしめると、おじいさんは、

「クロや。また会いに来てくれたのか」

 と言ってその背中を何べんもさすりました。犬もぺろぺろとおじいさんお顔をなめて答えました。

「はい。おじいさんに会いたくなってまた来ました」

「おお、そうか。そうか」

 おじいさんは涙を流して喜びました。

「おじいさん。私が死の前の晩に言ったことを、覚えていますか」

「ああ。覚えているとも。ちゃんとお前を桜の木の下に埋めてやったではないか」

「それと、もう一つお願いしていたことがあるのです」

「もう一つ?」

 おじいさんは犬に言われたことを思い出そうとしてみますが、すっかり忘れてしまっていて思いだすことができません。

「もう一つ、何かあったかのう?」

 犬はにっこりと笑うように口を開くと、おじいさんに言いました。

「はい。桜が咲く頃になったら、もう一度お墓を掘り起こして下さいとお願いしました」

「いかん、いかん」

 おじいさんは犬の言葉を聞くととっさに首を左右に振りこう言いました。

「いくらお前が犬と言っても、かわいそうで墓を掘り起こすことなどできん」

「いいえ。違うのです」

 犬は懇願するような声でおじいさんい言いました。

「おじいさん。私はおじいさんにどうしても恩返しがしたいのです」

「恩返しなぞ――」

「いいえ」

おじいさんの言葉を遮るように、犬が強く訴えました。

「どうしても、おじいさんい恩返しをさせてほしいのです。そのためには、もう一度あのお墓を掘ってもらうしかないのです。おじいさん。明日の昼過ぎに、桜の花が咲きます。そうしたら、きっと私の墓を掘り起こして下さい。大丈夫です。私はもうすっかり成仏しています。どうか安心して掘って下さい。どうか私の気持ちを受け取って下さい。お願いします」

 何度もそう言って頭を下げる犬を見ているうちにだんだん不憫になってきたおじいさんは、とうとう、

「わかった。それではお前の言う通りにしよう。明日の昼過ぎ、桜の花が咲いたら、お前の墓を掘り起こしてみよう」

 と、犬の願いを聞き入れました。それを聞くと犬は大喜びで、

「ありがとうございます。それでは、きっと掘って下さいね」

 そう言い残しました。その拍子に、おじいさんははっと目を覚ましました。

 夢の中で犬が言っていた通り、その日の昼過ぎ、のどかな日和の下で、とうとう桜の花が開きました。おじいさんはそれを見ると、犬と約束した通り、再び鋤と鍬を持って桜の樹のしたまでやってきました。そして犬の墓の前で一度しっかりと手のひらを合わせ黙とうをすると、犬の墓を掘り返し始めました。

 堀りはじめて間もなくのことです。おじいさんのふるう鍬の刃に、何か固いものがかちりと当たりました。それは、石とは違う感触でした。

 いったい何だろうと思っておじいさんがさらに掘ってみると、何と土の中からは何枚もの大判小判がざくざくと現れました。

 おじいさんは夢中になって土を掘り返しました。掘ればほるほど、黄金色の大判小判はわき出すように土の中から出てきます。おじいさんは出てきた財宝を一つ残らず拾い集めると、再び両手を合わせました。そして天国にいる犬に向かって、

「クロや、ありがとう」

 と感謝の言葉を言いました。

 それから桜の花が散り終わるまで、おじいさんがその場所を掘れば、小判は尽きることなく何枚でも出てきたそうです。おじいさんはそれらのお金で食べ物を買うと、飼い主のいない犬や猫に餌をやって歩いたということです。

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『黒犬』 矢口晃 @yaguti

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