引きずり出された疑惑
そこから僕は、ほぼ反射的に身体を動かした。大きな音がするのも気にせず掃除用具入れを飛び出して、がむしゃらに拳を振り回しながら、辺りを見回そうとして……。
それと目が合った。
「……っ!」
息がつまるのを感じた。そこにいる存在感もさることながら、そいつの異様な格好に。
そこには、男の子がいた。歳は僕より上……、高学年だろうか。ジーンズと、半袖Tシャツというラフな服装。だが、纏う衣服は。露出した肌は。目を背けたくなる程にべっとりとした血に塗れていた。
悲しげな瞳は、焦点が合わず、こちらを見ているようにも、何もない所を見ているようにも思えた。
十秒か。一分か。下手したら一時間にすら思える、その少年との対峙。
僕はただ、少しづつ。慎重に足を動かし、出口の扉に近づく事しか出来なくて。
『タスケテ……上……。出ラレナイ。……出シテ……儀式……』
それを阻止せんとばかりに、少年が近づいてくる。掠れた、たどたどしい日本語。それは僕の脳をダイレクトに揺らしていくようで……。否応なしに、目の前の存在を看破した。
コイツは……人間じゃない。
寄ってくる奴。悪いものか善いものかは、判断が付かない。けど……。込められた念が尋常ではなかった。
コイツは間違いなく、強い存在の……霊だ。
「う……おぉお!」
伸びてくる、血だらけの手。僕はそれを反射的に〝手で振り払い〟、一目散に出口へと走る。扉に赤い絵具かペンキで、妙な紋様が描かれている事に今更気付きながらも、僕は扉を外さんばかりに勢いよく開け、廊下に躍り出た。
『マッテ……マァァアテェ……!』という声を無視して、階段へ走る。
僕の状況を見て、調べに来ておいて逃げるのか? 何て言いたくなるかもしれない。
ああ、逃げるとも。だって血まみれだ。その状態でさ迷うなんて、絶対に真っ当な方法で死んでない。血まみれになりながら死んだ上に強い念を残してるなんて、地雷としか思えないではないか。
因みに、当時の僕は徐霊何て言葉は知らなかった。しりとりが途切れてしまったが故に、戦術的撤退を実行したのである。そして――。
「滝沢ぁ! 何しとんじゃコラァ!!」
騒いだ結果は、お察しである。案の定、僕は遠のいた足音の正体――、三階から降りてきた先生に捕まった。鉢合わせという奴だ。
しかも運が悪いことに、その人が僕のクラスの担任――中道先生だったものだからさぁ大変。
……結局。手痛い拳骨と共に、僕を包んでいたねっとりとした気配は消えさった。
これが僕が母校で遭遇した、奇妙で不思議な体験の話である。結果的に見えない人である先生に助けられたという、締まらない幕切れではあるが、現実なんてそんなもの。
映画やゲームみたいに、掃除機でお化けを撃退できたら苦労しないのである。
ただ、そんなあっけない非日常からの帰還だったら、僕はこうして、体験を鮮明に語ることなど出来なかっただろう。
そう。この話には、まだ続きがある。無駄に逞しくて、妙に汗臭い中道先生の肩に担がれた時。僕が最後に見たあの光景。それが目に焼き付いて離れない。
恨めしげに。いっそ憎悪に似た眼差しをこちらに向ける、血みどろな少年霊の姿。彼は、小さな口を動かして、こう言ったのだ。
『ヨウヤク、ミツケタ……。マタキテネ。…………ユルサナイカラ』
冷たくて、重々しい。毒の声だった。
※
本日の気温は、36度。夏らしい猛暑とはいえ、エアコンでキンキンに冷えた教室では、それもあまり関係ない。
語り終えた僕は、買ってきたジンジャエールを一口飲みながらも、チラリとメリーの方を窺う。彼女は何処と無く拍子抜けしたような顔で、僕を見ていた。
「……え、終わり?」
これから面白くなりそうじゃない! と、言わんばかりの彼女に、僕は肩を竦めて肯定する。そう、後は簡単な語りだけしか残されていない。事件らしい事件は、この初回の一度のみ。後はことごとく、空振りだったりする。
「終わりなんだよね~。中道先生に拳骨された上で、生徒指導室で説教。いや~。怒られた怒られた。『どうして入った!』『何を見た!』なんて言ってさ。後で知ったけど、中道先生って、あの旧校舎の管理やら請け負ってたみたいでね。前にあそこで怪我した人がいたとかで、定期的に見回りに行ってたらしいね」
「ああ、だから都合よく先生が来たのね。……丁度放課後だし」
「そういう事。以来侵入する僕と、取っ捕まえる中道先生との攻防が四年生になるまで続くんだけど……まぁ、それは語る必要はないかな」
「あ、やっぱりその後も入ったのね」
呆れ気味に笑うメリーに、僕は当然。と、胸を張る。しりとりさえ切らさなければ安心らしいし、何よりも、彼が語っていたのが気になったのだ。
『タスケテ……上……。出ラレナイ。……出シテ……儀式……』これは何かあるに違いないと思い、侵入して調べた訳だが……。
「まぁ、見事に何もなかったよね。というか、三階への階段は封鎖されてたから、二階までしか調べようがなかったんだ」
「あら、上から出られないを体現してるじゃない。……封鎖って、階段が?」
何故か訝しげに目を細めるメリーに、僕はうん。と、小さく頷く。
「雛壇やら、机にピアノ。ありとあらゆるものでね。子どもの身じゃ動かせないものばかりだったよ。それに……あの幽霊ともあれ以来会えなかったし。で、何回も侵入する僕に業を煮やして、中道先生が母さんに報告しちゃったんだ」
流石に先生と親に睨まれては、僕も断念せざるを得なかった。
そういえば、二回目の侵入で捕まった時、中道先生に旧校舎の幽霊の話をしたこともあったと思う。その手の話が苦手なのか、分かりやすく青ざめてはいたけれど、それはまぁ、いいだろう。
兎も角。そうして月日が経ち、中学に上がり、その事件は僕の中で忘却されたのである。
中学生となり、色々な行事に追われていたのもあるし、卒業した以上、ホイホイ小学校に遊びに行くのも、何だか気が引けたというのもあるけれど。
そこまで考えて、学校の怪談は小学校にある事が圧倒的に多いことに気がついた。
「考えてみればさ。学校の怪談って……」
「……ねぇ。少しいいかしら?」
話を締めようとした所で、メリーが神妙な顔で口を挟む。僕がどうしたの? といった顔をすると、彼女は何処と無く迷うような素振りを見せつつも、「さっきの話……ちょっとおかしくない?」と、切り出した。
「ねぇ、貴方の先生……。間違いなくそう言ったの? 『どうして入った!』『何を見た!』って」
「え? うん。そうだ……けど?」
……あれ? 確かに考えてみれば、おかしくないか?
ふと、そんなとっかかりが、心の奥底で生まれた。
自分の管轄だから見回りをしていて。かつ、そこに生徒が入っていたら、まぁ怒るだろう。だが……。「どうして入った?」「何をしていた?」と、聞くのが自然ではないだろうか?
何故中道先生は、「何を見た?」等と聞いてきたのだろう?
「……おかしいことは、あと一つ。中道先生は、階段から降りてきたのよね? 封鎖されていた筈の階段から」
「……封鎖は、階段の終わりに施されていたよ。だから、降りてくる事自体は不思議な事じゃ……」
「……辰(しん)? ねぇ……辰。気づいてるでしょ? それとも、私の口から言った方がいいの?」
ひんやりとしたメリーの指が僕の頬に触れる。赤子をあやすかのような手つき。思わずメリーの顔を見ると、青紫の瞳が、僕を真っ直ぐ見つめていた。
ゾワゾワとした、何とも言えないむず痒さが身体を支配していた。排水口を掃除した時みたいだ。何て事を思う。普段使っているものが、目につかない場所では恐ろしく汚れていたという事実のように。
何気なく過去を想起(そうき)したら、不気味なものが引きずり出されてきて……。
「……貴方は、〝足音が遠退く〟のを確認している。行き止まりだった筈の階段を登った中道先生は、その後何処へ行っていたのかしら?」
つまりは、あの日、まだ三階は封鎖されていなかった事になる。
僕が二度目の探索を結構したのは、それから一週間後。もっとも、その日は先生にすぐ捕まったから、実際に三階に到達したのは二週間後になる訳だが……。
「まさか、三階を塞いだ? 先生が? 何の為に?」
「……見られたくないものが、あったとか?」
「いや……でも……」
「そうね。十年も前の話だもの。記憶だって、貴方の記憶だけ。私のこれだって、想像の域は出ないわ。単に本当に言い間違っただけだったのかも」
そう言って頭を振るメリー。僕はただ、机を。すっきりメリーの胃袋に収まった、ハニーカフェオレと、シフォンケーキの空き箱を見つめていた。
引きずり出したそれは、何かを壊すものだった。僕を怒っていたのも、見回りに熱心だったのも。幽霊の話に青ざめていたのも。母さんを呼んでまで僕を止めたかったのも。もしかしたら……。
「取り壊しって、いつ行われるの?」
「一週間後って、母さんは言ってたな」
「ふ~ん。……ねぇ、辰」
視線が再び交差する。言わんとしていることは、すぐにわかった。僕だって今、同じ気持ちだった。
彼女は僕の相棒で。そして、『渡リ烏倶楽部』は、怪奇の気配を見逃さないのだ。
「私、メリーさん。今、貴方の故郷に行ってみたいの」
聞き慣れた、メリーの口上。それは非公認のオカルトサークルが、活動を開始した瞬間を意味していた。
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