九年前の旧校舎
見も蓋もない言い方になるが、僕の通っていた小学校は、オンボロだった。それはそれはオンボロだった。
木造ではなく鉄筋だけど、壁やら床のタイルにはヒビが入ってたし、黒板は凄く消えにくい上に、一部変色していた。
水道水は何か臭いし、トイレなんかもう最悪と言っていい汚さ。
極めつけは教室だ。寂れた空気というか、床も机も全てが年季入ったもので、小さな落書きなんて探せばいっぱい出てくる始末。
廊下は薄暗くて、夜に通ったら幽霊くらい出てきそう。そんな風格を持っている我が小学校だが、敷地だけは無駄に広かった。
一番大きく、低学年と中学年の教室と、職員室がある、少しオンボロなA校舎。
高学年の教室や教材倉庫がある、こじんまりとしていて、そこそこ綺麗なB校舎。
図書室、視聴覚室、理科室といった、多目的な教室が集中した、薄暗くて結構オンボロなC校舎。
この三つの校舎が、広くて多種多様の花に溢れた中庭をぐるりと囲むようにして立地している。それが我が母校、鯨島小学校だ。
こうして説明してみると、多少オンボロな、ごくごく普通の小学校に見える事だろう。だが……。ここには、少しばかり風変わりなものが存在していた。
D校舎。
所謂旧校舎というやつなのだが、そこはそう呼ばれていた。
A校舎とC校舎から延びて合流した、そこそこ長い渡り廊下を進んだ先。一応そこは体育館へ続く道ではあるのだが、それを通り越して更に奥へ進むと、件の校舎にたどり着く。
校舎とは言えど、そこは普段授業で使用しない。最高級にオンボロで、とてもではないが生徒が生活に耐える場所ではないし、そもそも電気すら通っていないのだ。一応倉庫のように使っているとの事ではあるが、それすら何のためにあるのか甚だ疑問である。当然ながら、生徒は先生と一緒でない限りは立ち入り禁止。いかにも何かがありそうな場所。なので、探検に出掛けようとした生徒が何人もいたらしい。
だが……。行った大半の生徒は、畏怖を含んだ表情で帰って来るのが通例だった。
当然だ。そこは小学生が集団で行くにしても、あまりにも不気味な場所過ぎた。オンボロ校舎を通り越して廃墟と言っていいD校舎は、体育館に隣接しているにもかかわらず、不自然なくらいに無音な空間なのである。まさに別世界。喧騒に溢れた学校に慣れている子どもには、さぞかし恐ろしく見えるに違いない。
実際に、誰かの視線を感じた。
見慣れない生徒を見た。
教室に赤い何かで、変な模様が書かれていた。
そんな噂が一人歩きして、結果的にこんな噂が流れ始めた。
D校舎には、幽霊がいる。その幽霊は、昔そこがまだ教室として使われていた頃に死んだ生徒の霊で、誰も来なくなった教室で、今もさまよっているのだ……。という、わりと普通にありそうな話。
で、当時の僕がそんな噂を聞いて何をしたかと言うと……。
「……予想以上にカビ臭い」
当然、探検に出掛けていた。
この流れなのでカミングアウトさせてもらうならば、僕は幽霊が見える。もっと正確に言えば、この世ならざるものが見えるのだ。
荒唐無稽な話に思えるだろうか? けど、実際に小さい頃からそうだった。
お葬式では、御本人が見えて。
墓場ではよく幽霊に挨拶されて。
事故現場では、恨みや未練を残した霊を目撃する。
世間でいう妖怪と思われるものにも会った事もあるし、極めつけは人面犬と冬の寒空の下で肉まんを分けあった事すらある。
僕にとっての救いは、こういった事象が日常茶飯事ではなかった事に尽きるだろうか。日常茶飯事だったら……。多分人としてまともな社会活動は送れなかったに違いない。
だが、救いは同時に、呪いにもなった。適度な非日常。それは、何も知り得なかった僕にとっては、ただ興味が惹かれる、冒険の扉のようなものになってしまった。以来僕は今日に至るまで、フラッと色々な所を訪れては、奇妙な体験をして帰って来ている。
見えないのが普通。では、それが見えてしまう僕は何者なのか。それを知るは、僕が何度か危険な目にあって尚、長いこと探索を続けている理由の一つである。……単に僕がオカルト大好きという、わりと俗っぽい理由もあるのだけれど。いや、寧ろ大部分がそれだけども。
だからこそ、そんな噂が流れていたら、僕は食いつかざるを得なかったのである。
初めて乗り込んだのは、僕が小学三年生の時。クラブにも所属せず、習い事もなかったので、放課後を探索の時間として定め、特に妨害もなくD校舎に侵入した。のだが……。
「…………っ」
そこに足を踏み入れた瞬間、僕は理解した。
成る程。噂話はあながち間違いでもなかったらしい。
無音の薄暗い廊下。塗装が剥がれ、灰色のコンクリートが露出した壁。錆び付き、赤黒く変色した水道の蛇口に、古く、無骨なデザインの流し台。まるで時間が止まり。あるいは歪んで取り残されたかのような空間がそこにはあった。だが、そんなものは二の次だ。
僕が身をこわばらせていたのは、D校舎に踏み込んでからひしひしと感じる、誰かの視線だった。
ねっとりとした。それでいて此方の出方を窺うような。
幼いながらも度々不思議体験をしていた僕だからこそ分かる。
その気配は、人間のものではなかった。
「…………だ……っ……いや」
誰かいる? と、声を出そうとして止めた。気配を振り撒いてくるような輩には、語りかければ寄って来るものと、そうでないものがある。
寄ってきてくれたら、話は簡単だし、正体も分かるかもしれない。けど、今はまだやるべきではないと、その時僕は思った。
相手が善いものか、悪いものか。強いものか、弱いものか。
僕はまだ分からないのだ。
「…………りんご。……ごりら。……ラッパ」
適当に言葉を重ねながら、僕は先へ進む。歌やしりとりは、結界の力を持っていて、古い語法として使えるという話を聞いて以来、僕は探索の時によく使う。一人でやることに意味があるかは分からないけれど、一応やっている間は襲われた事はない。
そう、〝やっている間は〟だ。途切れてしまった時は……まぁお察しだ。
一つの廊下に、教室が三つ。手前から教室。階段を挟み、教室。教室。といった間取りのようだった。
一つは完全な空き教室。もう一つは物置小屋扱いにされている。運動会で使う大玉や、玉入れの籠。綱引き用の縄が等がところ狭しと置かれていた。最後の一番奥の部屋は……立て付けが悪かったのか、開く事はなかった。ただ、教室入口の戸には、硝子窓が嵌められていて、中を覗くと……そこもただの空き教室のようだった。
廊下の奥には進めない。机がまるでバリケードのように積み上げ、立て掛けられていて、隙間にはご丁寧に椅子が入れてある。奥には……階段があるらしかった。
「団扇(うちわ)……和太鼓(わだいこ)……黄金虫(こがねむし)……」
ここじゃない。
僕の中で、そんな結論が出る。何かの気配は確かにする。
だがそれは、もっと上からヒシヒシと伝わってきているのだ。
「芝刈り……
独りしりとりを続けながら、さびれた階段を上る。
相変わらずの無機質な空間には、僕の言の葉と、タイルを踏む硬い音だけが反響していた。そして……二階に辿り着く。
「裏道……ちりめんこ……
だんだんネタがなくなってきたが、何とか言葉を続けていく。ねっとりとした視線は、未だ僕に絡みついていた。
二階は、一階以上に何もないようだ。
廊下の奥には机のバリケードはなく、奥の階段へ進めるようになっているが……どのみちその降りる先は行き止まりだろう。D校舎は三階立てなので、上へ行く道には何かがあるかも知れないが。
「アリクイ……イースター……あんこ餅……チャンピオン、シップ……」
あやうく「ん」で終わりそうになり、慌てて紡ぐ。一瞬だけ気配が濃厚になったのは……気のせいだと思いたい。
一つ目。二つ目と空き教室。何かに使用した気配はない。本当に何のためにあるんだろうD校舎? と、僕が思いかけた頃。
はるか遠くから、誰かの足音が聞こえてきた。
「……ッ! し、シャーロックホーム……ズ。……ズ、ズ……図工……海牛……」
切れそうになったしりとりを何とか繋ぐも、僕の心臓は早鐘を鳴らしたかのように落ち着かなかった。さっき以上に小声で呟く今も、誰かの足音は響く。これは……一階からのようだった。僕以外にも、誰かがここに来たのだろうか。
「……シンバル……ルーレット……」
辺りを見渡すが、当然ながら空き教室に机のような遮蔽物はない。
たぶん使えないだろうが、外にトイレは一応あった。廊下に出て、そこに隠れようか。いや……。
僕はその考えを放棄し、直ぐ様教室の隅へ忍び足で移動した。
確かに隠れ場所としてトイレもいいだろう。だが、廊下に出て、そのドアを開ければ、間違いなく音が出る。これは、我が校どの校舎でも共通だった。無音のD校舎で、それは致命的だ。故に僕は教室のある場所を隠れ場所に選んだ。
扉は木製で、教室の壁に埋め込まれるようにして存在するもの。机も教壇もない空き教室ではあるが、これが――。掃除用具入れが存在したのは幸いだった。
音を立てぬよう慎重に扉を開き、僕は用具入れの中へ身を隠す。外以上にすえた臭いが鼻を突いたが、今そんな事はどうでもいい。
気休めだが、しりとりを心の中で呟くのに切り替えて。僕は息を殺したまま、聞き耳を立てた。
カン。カン。カン。と、階段を登る音がして。そして、コツ。コツ。コツ。と、床のタイルをを踏みしめた足音が大きくなる。
誰かが教室の入口で立ち止まったのだろうか。ふと、乾いた音がが止み。暫く後、誰かの「ふーっ」といった息遣いが聞こえてきて……。数秒後。再びタイルを踏む音が反響し、そこにいた誰かは遠ざかっていった。
僕はそのまま気を抜かず、身体を硬直させていた。誰かは、階段を上っていく。三階に向かったのだろう。取り敢えず行き止まりではないのだろう。誰かの気配が消えたら、再び探索に行こうか。
足音が捉えきれない位遠のいたのを確認した僕は、ようやく身体を弛緩させ……。
直後、コン。コン。コン。という、警戒なノックの音で、再び僕の身体に緊張が走った。
ぎょっとして、真っ暗闇の中で、目の前の扉を見る。
すると、見計らったかのように、またしてもコン。コン。コン。というノックの音が、掃除用具入れの全体に轟いた。
「ヒ……向日葵(ひまわり)……理科室……積み木……」
悲鳴を上げそうになるのを堪えて、僕は小声で、言葉の結界を紡ぐ。
さっきまで感じていた視線は、用具入れの闇の中故に感じない。
かわりに……。じめじめとした嫌な気配は。人ならざる気配は、今まさに用具入れの外からじわじわと感じられた。
まるで波にさらわれる浚われる砂の山のように、僕の精神は徐々にすり減っていく。ノックの音は……今も続いていた。
「き、キリギリス……スイカ、……バー。……ア、アイマスク……」
危うく同じ言葉を使いそうになり、何とか修正する。心臓はさっき以上に拍動し、背中はじっとりと冷や汗で湿っていた。
そもそも、このノックがおかしいのだ。ここに来た誰かは、三階へ向かった筈であり、僕がこの教室に入った時は誰もいなかった。
D校舎にはベランダが存在しないので、窓から入ってきたも却下。それ以前に、僕以外の誰かが、この教室を一度見ていて、その時は誰かは反応しなかった。
つまり……。
今ノックをしている何者かは、誰もいない教室に突然出現し、掃除用具入れの前に現れたという事にならないだろうか。
「く、くく……栗ご飯……、定食。……く、
混乱した頭が、言葉を見失う。いっそ大声を上げてみるか。それとも〝体当たりをした上で殴りかかってみるか〟そんな思考すら生まれ、完全にしりとりが途切れたと言えるくらいに間が空いて……。
その瞬間。閉ざされた用具入れの中で〝風〟が吹いた。
戸の隙間から、入り込んだのだろうか。……いや、おかしいだろう。窓も空いてない室内で風が吹く……なん、て……。
あり得ない現象を自覚し、頬の筋肉がひきつると同時に、ざわざわとした突発的な寒気が僕を襲った。そして……。
『ミ。……ミィツケタ……』
僕じゃない声が、耳元で囁かれた。
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