サラサ サラ

 朝、目が覚めて布団から起き上がる前にカガナは左の腕/カイナを見た。《アマガ》を持った時、不思議と全身の痛みは消えた、それと引き換えに台風のような倦怠感が戦った後のカガナを包み込み、そうして翌日は学校を休んだ。

 今日は行けそうだとそう思い布団から飛び出してみる、身体がよろめくが踏ん張り四肢の感覚を確認した。

 学校に行き中村レイと話がしたかった、何を言えばいいかわからない、何を伝えればいいか思い浮かばないけれどもとにかく彼女を見たかった。

 家を出て小道を左に曲がる、田畑に囲まれたその坂を下るとそこはもう駅だ、都市部から離れた山間の過疎地故に駅は無人駅、古びた木造の駅舎の塗装は剥がれ、蜘蛛の巣がはっている。来る電車も1時間に1本程度の2両編成である。乗り込む人はまばらでだいたいが通学する生徒達である。谷間の山の中腹に沿って線路は続きそこを車両は気だるそうに走っていく、車窓からは木々の合間を縫って遠く町まで見渡すことが出来た。

(今ここで異形に襲われたならば為すすべはなく電車もろとも落っこちるのみだな)

 カガナは鼻で笑う、そして乗っている人々の顔を見回した。

 40分くらいで学校の最寄駅につく、降り立ちカガナは胸に空気を深く吸い込み違う世界ではないことを確かめた。それでも脳の処理が追いついていないかのような乖離感が彼の感覚を鈍らせている。

 駅の前の道をまっすぐ少し歩くとそこは分かれ道、右に行けば裏門の方向、つまり異形と対面した方向。街での戦いで克服したはずでも足は震えすくんだ。

 きっとそこは地獄の入り口であり、克服など出来ない、無我であり《アマガ》があっただけ、その考えをカガナは振り払いたかった。左方向、正門への道を歩きはじめた。

 目的地は通う高校の教室、それが近づくにつれ足取りは重くなるばかり、教室の扉を開ける時、その見えない圧力に手がかじかむ。目線はどこへ向ければいいのか言葉は何を吐き出せば良いのか、誰に対してでも、何に対してでも、数日ぶりの教室はもう何年も通っていないようなそんな距離、視界は曲がったようにカガナは感じた。授業にはついていけるだろうか、知った顔はいるだろうか、そもそも自分という存在の場所はあるのだろうか、ごちゃ混ぜの感情の混沌さに辟易しカガナは扉を開けた。

 衝撃音とともに扉は全開となる、力を入れすぎた、教室にいた全員がこちらを向く。違う方向で失敗しかえって目立つ、心臓が干からびたように締め付けられ冷や汗が額をなぞる、そして目玉が錯乱したように左右をせわしなく移動した。

「ようカガナ、久しぶりの登校なのに派手だな」

 アルが笑顔で右手を上げて挨拶した。熊神は朝食であろうおにぎりを貪っていた。その姿を見て強張っていた表情筋が緩むカガナ、そして目線は自分の席の後ろに向う。彼女は登校していた、そこにいた。たしかに彼女の席に座っている。肺の奥底に溜まっていた重たく深い空気を吐き出す。そして新しいものを入れ換えて教室に踏み込んだ。

 カガナは自分の席の椅子に手をかける。

「おはよう」とカガナはなるべくいつもの、自然な形を意識して中村レイに挨拶をした。

 彼女は何かの本を読んでいた。顔を上げ見上げる目線。

「おはよう」と彼女は答えた。

「あの……」

 カガナにはその次の言葉を見つけることが出来なかった。見つめる彼女。

 何かを告げる前に担任の先生が入ってきて朝の会がはじまってしまった。


 朝の会が進行する中カガナの背中が突かれる、そして右脇に目線を移すと紙切れが差し出される。

『私は大丈夫よ』

 レイのやさしい字。

『よかった』

 カガナはそれしか書けなかった、それを握り締めて後ろに渡す。

 その後背中が突かれることはなかった。


 カガナにとって授業はどれも教師が何を言っているのか理解出来ない。デタラメであべこべ、知らない記号のような象形文字のようなもので埋め尽くされた教科書、認識出来る文字も読めば読むほどわけがわからない。そういうわけで教師から当てられないことだけを祈っていた、しかし物理の授業でとうとうそれはやってくる。

「カガナ君、与質量子と意思の核についてここを答えて」

 教師は黒板の読むことの出来ない文字を指す。立ち上がるカガナ、椅子を引いた音が残響する。

 黒板と自分の机を交互に見る、景色は丸みを帯びてやさしく歪み、どこか一点が強調されるように浮かんでは消えていく。

「先生カガナは病み上がりですよ」アルははっきりとした通る声で言った。

 少しの沈黙。

「おお、そうだったなすまんすまん、カガナくん座っていいぞ。後で誰かに写しでも見せてもらってくれ、それじゃあ……」教師は別の人を指名した。カガナは着席し安堵する。そうして今当てられた生徒の名前をそういえば知らないなと思った。

 続いていく授業、理解は遠く及ばない、たった数日学校に彼はいなかっただけだったが光年の彼方に置いてきぼりを食らったようだ。

 境にした日はいつなのか、それはきっと病院で目覚めたあの瞬間とそれに続いた陰りと声、隔世に取り残された異形。

すべてが狂ったのだとカガナは思った。


 ざわめきの中で昼休みは唐突にはじまる。

「パンパンパンー、朝はパンー」購買から帰ってきたアルは軽快な足取りと鼻歌で教室に入ってきた。

 取り残されたような不安さを含んだ表情でカガナは顔をあげて周りを見回した。そしてアルの動きに注目する、彼は騒々しく机をひっつけてきた。

「もう昼飯の時間だぞ」カガナはアルを横目に言う。

「おい、聞いたか。貴様が休んでる間に街で大爆発事件、なんと中心部に大穴が開いたらしいぜ」

「なんだよ貴様って変な言葉使いするなよ」

「これまたうちの校庭の大穴と同じく、なぜだかあんまり報道されないし何が大爆発したとかも発表がないんだぜ」

「へぇー」

「おいおいおいあんまり興味ないのかよカガナ、悲しいぜなあ熊神」アルは振り返りの自分の後ろの席の熊神に目を向ける。

「うん、二つの意味で」熊神は重箱の一段目のような弁当を頬張りながら答える。

「え?」アルは皺を寄せたような変顔で呆けた。

「よくアルが前に使ってたから、おたから」熊神がもぐもぐしながら答える。

「どうした熊神よお、なんだかいつもの貴様らしくないな」アルは椅子に膝立ちして反対側の熊神の方を向く、昼食中のカガナに尻を突き出す形となる。

「今のアルの流行は貴様か」カガナは脱力したように肩肘ついて溜め息を吐く。

「知ってるか貴様、昔は貴様って敬語だったらしいぜ貴様」

「僕も今度貴様って使うよ、二つの意味で」うなずく熊神。

「だから意味わかんねぇだろそれじゃあ、まったく熊神は主体性が無いな」

「うん、二つの意味で」

「ヘイ! 旦那のお尻が麦味噌ですから」カガナは向けられたアルの尻を叩く。

「しかぶってねぇよ!」ひょっとこのような顔面で振り返るアル。

「そういやなんで中学までは便所で大きい方するとみんなに冷やかされてたんだろうね」カガナは熊神の方を向いて言った。

「いきなり貴様それが飯時にする話か」

「うん、こ、……二つの意味で」うなずく熊神。

「でも高校になったらそんなことなくてむしろ宣言したいくらいだよね」

「宣言しなくていい」アルは腕組みし首を縦に振る。

「いきまーす、二つの意味で」ご飯粒が熊神の口から飛び出す。

「まあそれが一つ大人の階段登ったってことなのかもね」カガナは舌で唇を濡らす。

「やるねぇ貴様、上手くまとめてきやがった」両手の親指を立てて首を縦に回してアルは肯定を表現した。

「あんた達男子を見てると悩み事とかしてても馬鹿らしく思えてくるわ」教室に戻ってきた中村レイは自分の席の椅子を引く。

「おっレイさん悩み事ですか?」

「そんなの無いわよ、あってもアル君には話さないけど」

「ずるいー」アルはカガナの方を向いて口を尖がらせた。

「いいから早く食べなさいよ昼休み終わっちゃうわよ」

「ほーい」アルは素早い動作で右手をまっすぐに上げて真面目な顔で返事をした。

 中村レイの魅せる表情や姿にカガナはほっとした。


 そうしてカガナにとっては何でもない日が続いた。相変わらず授業では冷や汗をかくが異形の存在などは嘘で、自分の妄想癖が祟ったのだと思い始めた。

 一週間程経った時、学校で見知らぬ先生から廊下で呼び止められ紙を一枚渡された。そこには『明日夕方5時に路面電車で健軍駅に来い』と書いてあった。署名に更紗サラの文字。

 カガナは親指と人差し指を擦り合わせてその渡された紙の感触を確かめる。たしかに感じられるその紙切れの存在と文字が、校庭で起こったことも帰り道のことも、そして街中での戦闘も嘘でなかったと主張していた。

 カガナの目の前の丸く歪んでいた景色は矯正され、意識は統合されたようにはっきりとし、みぞおちのあたりに収束していく気がした。


 次の日の放課後、机に乗っかり馬鹿な話を熊神に聞かせているアルにも、友人と談笑している中村レイすらも目に入らず急ぎ足でカガナは教室を出る。

 校門の前の道は身の丈よりも高い塀が片側ずっと続いている。その向こう側は古い公団住宅が並んでいる、そこはもう誰も住んでおらず近々取り壊されるらしい。

 黒猫が塀からカガナを見下ろしていた。大きなあくびを一つしたかと思うと。

「死地に踏み込んでいるぞ」黒猫は言った。

 でもそれは嘘、カガナの妄想でしかない。異形が降ってくる世の中になっても猫がしゃべることなんてない。

 黒猫はただ鳴いただけ、そして塀の向こう側にいってしまった。駅の方向に歩き始める、競歩のような早足で心臓の鼓動は高鳴り早まる。最寄り駅のある通りを2つ区画を挟んだ大通りに学校から最寄の路面電車の駅、新水前寺駅はある。そこから乗り込む、車両は1両、古く床が木製でくたびれて穴のあいているところもある。路面のでこぼこが直に伝わってくる。紫色した椅子に深く座ると自然と窓の外の景色へと吸い込まれた。知らない風景、それは知っている場所と地続きでも別の世界に運ばれている気がした。1つ階段を踏み外せば、1つ選択を間違えば、世界の知らない面を見る破目になる。

 考え事は尽きずに、いつしか車掌は終点を告げ、降りると彼女――更紗サラが待っていた。偉そうなすまし顔、相変わらずのはっきりとした紅色の唇、鋭い目線にカガナは晒されて言葉を発せないでいた。

「早いわね、私を待たせないなんて関心する」

「僕が来ないとは思わなかったんですか」

「あなたは来る」

「なんでわかるんですか」

「それしか選択枠がないからよ」

「そんなことは……」

「だって来たじゃない」サラは口元を少しだけ緩め微笑んだように見えた。

 歩道の信号が青になり、それを知らせる鳥の電子音が鳴る。

「案内するわ、来て」そう言い終える前にサラは歩きはじめていた。

 大通りを渡り、商店街の入り口を横切り少し歩くと見えてきたのは頑丈な鉄の門とその脇に構える守衛の姿、サラはその守衛に通行証のような紙を見せてカガナの方に目配せした。カガナは3、4歩下がったとこで奥歯を軽く噛みながら居心地の悪そうな顔で突っ立っていた。

 守衛の合図で門は開いていく、サラに付き従い中へと進む。広い敷地、学校の数倍はある、いくつかの大きな建物を通り過ぎて一番奥の人の気配のしない、他の建物と比べると随分見劣りする平屋の中へと案内された。

 中へ入る、机の並んだ部屋、そこに誰も座るものはいない、書類や電子機器が静かにそこにあるだけだ。しかしカガナは向けられた眼差しに気づいた。あらかじめ一人だけこの部屋には存在していた。真正面、一番奥からこちらを見る人物、その人物は机から立ち上がりこちらへとゆっくりとした足取りでやってきた。

「彼とはもう何度か会ってるね、彼はイザナキ」サラは紹介した。

「はじめまして」カガナは軽く頭を下げた。

「やあ、あの時、あの場所で、君の鬼神の如き活躍っぷりに自分の役割について苦心したよ、……なんちゃって」そう言ってイザナキは右手を差し出した。カガナもそれに答えた。イザナキとの握手、硬くて熱い手だなとカガナは感じた。わざとのように強く握られる手、握り返そうとしても虚しく反発が返ってくるだけだった。手がしびれ痛みが手から腕へ、肩、首、そして脳へとさざなみの様に伝わっていった。カガナはいつもの自分が一番自然であろうと考えている顔を心がける、表情には絶対に出したくなかった。

「イザナキあんまりにも寒いわ、あと彼にはその洒落は伝わっていないと思う」サラは息を吐いた。

 カガナの目にイザナキの瞳の奥底が垣間見えた、青い、蒼い、葵、だんだん沈んでいって黒に、最初からそれは黒かった。

「挨拶はその辺でいいでしょ、本題に入るわ」二人の顔を交互に見るサラ。握手は解かれた。

 イザナキは柔らかくカガナに微笑んだ。それは握力自慢の後の嫌味なのか、純粋に向けられた笑顔なのか、どちらともわからずカガナは困惑した。

「カガナ君、あなたが何でここに呼ばれたのかわかる?」

 サラの目玉だけがカガナの方へと動く、カガナの喉仏はゆっくりと上下に動いた。

「あの異形の生物と戦ったから」ゆっくりとカガナは答えた。

「そうね、たしかにそれは起点ではあるけれど重要ではない」そう言って目とつむり再びその大きな瞳でカガナを見るサラ。

「アマガ」カガナは答えた。

「そうアマガ、あれを使えたことが、それが理由」最後の方は特に重く低い声でサラは言った。

「あの時は無我夢中だったんで」

「あなたは気づいてないかもしれない、もしくは確信がないだけかもしれないけれど、病み上がりでしかもあれほど重い質量を持って訓練も無しにいきなり身軽に動けるわけがない」サラは部屋の置くの方に歩きはじめて、そして振り返った。

「あなたはあれを使えるってこと」そのサラの瞳は木漏れ日のように真っ直ぐ、カガナへと差し込んだ。

「アマガはどこですか」語気が強くなるカガナ。

「それを知ってどうするだ」イザナキは目を細める。

「僕にもあれは使えるんだ」カガナは自分に言い聞かせるよう小さな声で言った。

「たしかに……そうだな、もしもの時のために場所は知っておくべきだろう、ここにわけもわからず連れて来られて、はいさようならというわけにはいかんだろ」顎に手をやり首をすこし傾げてイザナキは言った。

「この黒い鞄の中にアマガが入っている」サラは奥の細長い扉を開け中の黒く縦に長い箱状のものを拳骨で軽く叩いた。

「鞄というよりも匣だがね、甲の字の匣の方だ」イザナキは解説し、続けた。「君は子供じゃない、そしてその剣を握るということは責任が伴うということだ」

 その言葉はカガナの耳に妙に残響した。そしてまだ話は続いていった。


 (僕にもアマガは使えるんだ)

 その想いをずっとカガナは反芻していた、夕日に架かる歩道橋、健軍の停車場でサラとカガナは向き合っていた。路面電車がやってくる。軋み古めかしい音を立てながら折り返しの運動をはじめて停車した。

「お礼をいうような立場じゃないけど今日は来てくれてありがとう」

 カガナはその言葉を聞きながら乗車した。「え、あ、はい」突然のことでその程度の返答しか発せなかった。

 暁に溶けていくサラの見送りの笑顔を何度も思い出す、人の顔を思い出すのは難しい、それは仕舞えないから消えないようにやさしく大切に。


 次の日、席替えがあった。カガナは相変わらず窓際だったけれども中村レイは廊下側に移動してしまった。授業中にもう背中を突かれることがなくなると思うと寂しかった。

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