遠くへきてしまった。

 僕の家の最寄駅は無人駅、切符を車掌に渡すと薄暗い駅舎に降りた。電灯は曇って虫が張り付いており蜘蛛の巣がついている。電車を降りたあとは誰にも会うことがなかった。田んぼに挟まれ乱雑に舗装された細い坂道を上がっていく、少しした先に見慣れた我が家があった。数年ぶりに帰ってきたようなそんな感覚に襲われた、本当はどのくらいあけていたのだろうか、どのくらい眠っていたのか今確かめられるものがない。幸いにも家には明かりがついていた。玄関の鍵は開いており「ただいま」と言うと母が出迎えた。「大変だったね」と母はそれだけしか言わなかった。右腕がないことには触れない、少なくとも1日以上連絡せずに家をあけたことにも触れてこなかった。暖かい食事が用意されており、ぐっすりと眠った。その夜夢を見ることはなかった。


 目を閉じてすぐに開かれるように朝は時間を無視したようにすぐにやってきた。母はもう仕事に出掛けたようで居間の机に朝食と「仕事に行って来ます、しっかり食べて元気だしてね」と書置きがあった。その見慣れた文字はたしかに家に帰ってきたことの証明になるかもしれないがもう僕は昨日の母の顔を思い出せない。よくよく考えてみればどんな人の顔もはっきりと思い出すことは容易ではない。朝食はまだ暖かかった、それを食べている時にたしかにそこに人がいたんだという実感が沸いた。時計は午前7時を指している。学校にいかなければいけない、それだけが体を動かしている動力だった。家を出てあぜ道に等しい道路を下るとすぐに駅についた、乗るべき電車はもう停車していた。乗客は通学する生徒がほとんどでいろいろな制服を皆それぞれに着ている、ただしここから遠いということもあって僕の通う高校の制服を着たものは一人もいない。

 電車に揺られながら次に起こることを考えていた。乗っているこの車両が”敵”に襲われるかもしれない、”敵”の攻撃により橋桁が落ちていて車両がそれに突っ込む、昨日までの出来事を顧みると有りえる話だ。サラに会いたいという気持ちは右腕と一緒に削ぎ落ちてしまった。こんな体では合わせる顔がない、希望もない。

 考え事をしていても習慣は体に染み付いている、家の戸締りをした記憶がなくてもだいたい鍵は閉まっているものである。世界はそう出来ているように感じた。電車から降りて通っている高校までの道のりをはっきり意識して歩いていなくとも既に教室に僕はついていた。

 見慣れた顔がいくつもあった。後の席は中村レイという女の子で細身で相当に美人だったが「おはよう」とかそんな会話しかしたことがない。割と仲の良い友達のアルと熊神が近づいてきた。

「ようカガナどうしたんだよここ数日おまえが無断で学校を休むなんて珍しいじゃないか」アルは僕の机に手をつきながら笑顔で言った。

「うん、心配したぞ」熊神はいつも人より少しだけゆっくりした口調でしゃべる。  

「ありがとう」二人は相当に気を使ってくれたのか右腕がない件については触れず僕はそれだけしか言えなかった。

 1限目物理の先生が教室に入ってきて二人は自分の机に戻った。数日とは具体的に何日だったのか聞けばよかったと後悔した。授業には全くついていけず教師が何を言っているのかすらわからなかった。

「不確実性と重力子の応用による極小の機械生成体理論について、……えーと、そうだなカガナ君はどう思うか答えてくれたまえ」と唐突に物理の教師は僕に質問を投げかけた。僕は飛び跳ねるように立ち上がり、椅子を引く音が静まり返った教室に響いた。心臓の鼓動が一気に早くなるが答えはもちろん口からでる言葉さえ見当たらない。小刻みに視界が震えた、周りを見回す、他の生徒達、良く考えてみると見覚えのない顔ばかりだった、教室を間違えたのかと思ったが見慣れた顔が二つ、熊神は腕を組み口を大きく開けて寝ていた、アルは笑顔で合図してくれた。

「先生、カガナは休み明けですよ」アルは優しい口調で言った。

「おお、そうか病み上がりだったなすまんすまん、あとで誰かに板書見せてもらって、えー、かがな復習しといてくれ」先生はそう言うと他の生徒を指名した。

 授業は頭に入ってこなかった、特に最初の物理とその後の数学は全く理解の及ばない高い領域の話でどうやって自分はいままでやってきたのかも記憶になかった。

 放課後帰りの支度をしていると一人の生徒が叫ぶように言った。「おいおい見ろよあの赤い車の美人、いったい誰の保護者だよ」僕は慌てて窓へ駆け寄る、教室は二階にあり窓からは右方向下方に正門が見えて、サラが腰に手を当ててすまし顔で立っていた。僕は走ってそこへ向かわずにはいられなかった。

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