老人と少年とSL

さかもと希夢

老人と少年とSL

 その日、初めて少年は家出を試みた。

 少年の名は高田澄史という。今年の五月に十歳になったばかりの小学四年生。背が小さく、クラスでも一番前に来てしまうような頼りない男の子だが、その決意は並々ならぬものがあったのだ。

 家を出るときに持って出たのはリュックと水筒、そして家出するには心許ない五百円玉ひとつ。だがその僅かな資金も切符を買ってしまったので、七十円ほど少なくなってしまった。

 行く当てのない旅ではない。彼は歳の離れた姉の住んでいる草薙駅に行き、姉に泊めて貰おうと思っていたのだ。小学四年生に思いつく家出というのはそういう小さなものだった。

 だが、これが彼の冒険の始まりになってしまったのだから分からないものだ。

 澄史が家出をしたそもそもの理由は、夏休みの旅行のことだった。楽しみにしていた『家族で行く初めての伊豆旅行』が父親の仕事の都合で中止になってしまったのだ。母親は最初のうちだけ抗議してくれはしたが、最後は仕方ないから諦めろと彼に申し渡した。きっと澄史がどれだけこの旅行を楽しみにしていたか、両親には分からなかったのだろう。

 彼の毎日は学校、塾、友達とゲームという、なんら冒険のないもので満たされていた。心のどこかでいつも、つまらないという思いが渦巻いていた。決して満足のいく生活ではないのだ。だから初めての家族旅行をひたすら待っていたのに。

 でも澄史は日頃のおざなりな生活から感情をあらわにする事が苦手だったため、その残念さに気づいて貰えなかった。彼の“かなり残念”が、両親には“ちょっと残念”に見えても仕方ないことだったのかもしれない。

 子供じゃないんだから感情を高ぶらせて泣きわめくなんてことは、もう出来ないと澄史は思っている。素直じゃないと言ってしまえばそれまでなのだが、そんな自分が何となく寂しいと分かってはいた。

 澄史は、静岡駅から東海道本線に乗り込んだ。

 姉の家へは、姉に連れられてなら何度か行ったことがある。静岡駅で上り列車に乗れば草薙に着くはずだ。だが彼は、何の迷いもなく下り列車(ヽヽヽヽ)に乗り込んでしまった。一人で電車に乗るのが初めてである彼に、上りと下りの区別がつこうはずもない。気付かぬまま動き出した列車の中で、澄史はため息をついた。

「つまんないの」

 自分のしていることが、ひどく子供じみていると澄史は思う。子供なんだからそれで本来はいいのだが、自分は大人だと思っているので、常識が脳裏をよぎってしまう。

「つまんない」

 四人で一囲いになっている座席に座ると、ぼんやりと外を眺めた。この囲いの中には、澄史一人しかいなかった。リュックの中にはゲームボーイが入っていたが、やる気にはならない。ゲームに熱中して草薙駅を通り過ごしてしまったら大変だからだ。

「お母さん達、心配すればいいんだ」

 無意識に澄史は、子供らしい呟きをもらした。

 二両編成の東海道本線は、ごとごとと進んでいく。電車の中は空いているとはいえ、妙に静かだった。ふと澄史は誰かに見られているようなそんな気配を感じたが、彼を見ている人物の存在を見つけることは出来ない。気のせいだろうか? 澄史は再びため息をついた。

 三十分程たって、澄史はようやくこの列車が下りであることに気が付いた。彼の記憶ではもう草薙駅に着いていてもいいはずなのに、車窓には聞いたことのない駅名ばかりが現れるのだ。窓の外を流れる景色がまるで見たことがないものに変わっていく。

 知り合いなどいるはずがないのは分かっていた。でも澄史はきょろきょろと車内を見渡さずにはいられない。もしかしたら誰かいるかもしれない。そうしたらどうすればいいか聞けるかも……。そんな一縷の望みをつなぐ。

 だがそんなに都合よくいくはずもない。

 何だか列車に乗っている乗客全てが彼の事を拒んでいるような気がして、澄史は全身を震わせた。

 ひとりぼっちがこんなに怖いなんて、知らなかった。一人で遊んでいたり、塾に行っていたりしたって、どこに誰がいるのか把握していたし、家で自分の部屋にこもってゲームをしていても、居間に行けば母親がテレビを見ていることが分かっている。でも今は自宅でも学校でも塾でもない。行き先を間違えて乗ってしまった列車の中なのだ。

「本当に一人なんだ……」

 そう口に出して行ってみた瞬間に、冷水を浴びさせられたかのような悪寒が背中を駆け上がってくる。

「……どうしよう……」

 心臓の音が耳の奥で大きな音になって聞こえてきた。まるで自分の身体全部が心臓になってしまったようだ。

「……どうしよう……」

 鼻の奥がツーンと痛くなってきた。泣きそうだ。

 誰か親切な人が突然現れて、自分を助けてくないだろうか? 優しくて親切な人が助けてくれないだろうか? そんなに都合よく行かないことを普段の澄史は分かっているが、今はただ必死に泣きたいのをこらえて周りを見渡し続けるしかない。 すると震える澄史の耳に、微かに彼を呼ぶような声が聞こえた。怖さのあまりの幻聴かと思って、涙を堪えて下を向いた。知っている人はいないはずなのだ。名前が呼ばれるわけがない。でも、それは彼の幻聴などではなかった。

「澄史、澄史」

 少し低いかすれ声が、再び彼の名前を呼んだ。澄史は弾かれたように顔を上げる。澄史の座席の正面に、いつの間にやら老人が座っていた。白髪の老人だ。

「澄史、迷子になったのかな?」

 老人は、目に優しそうな表情を浮かべて、澄史を見つめていた。初めて会った老人なのに、何だかとても懐かしくて、どこかで見たような、そんな気がする老人だった。

「怖かっただろ、澄史。おじいちゃんが来たからもう大丈夫だ」

 老人は優しく微笑んだ。

 咄嗟に澄史は身構えたが、老人の深い微笑みはを見て、肩の力が一気に抜けてしまった。心の中から孤独感と不安感がすーっと引いていく、そんな感じを澄史は初めて覚えたのだった。気が抜けると、こらえていた涙が鼻水になって垂れ落ちてきそうになり、澄史は慌てて鼻を拳でぐっと拭った。

「大丈夫かな?」

「……うん」

 落ち着いてきたところで老人をよく見てみると、何だかとても奇妙な服装をしている。それはまるで何かの制服のようなものだった。

 襟の開いた白いシャツには胸ポケットが付いており、そこには少年には読めない漢字で“鐵大”と書いてあった。ズボンは黒に近い藍色で、その色合いは警察官を思いだす。だが、老人の微笑みは警察官とはほど遠いように思えた。

普段は少し人見知りする澄史だったが、ひとりぼっちから開放された安心感から、老人に話しかけることが出来た。

「お爺さん、誰?」

 老人は微笑んで答えた。

「私の名前は澄史と言うんだよ」

「僕と同じ名前?」

 びっくりして聞き返すと、老人は楽しそうに笑うと、まるでいたずらっ子のような楽しげな口調でまた不思議なことを言った。

「字も同じ澄史だよ」

 これは凄い偶然だなぁと澄史は心の中で思ったが、もっと不思議なことには気が付かなかった。それは何故老人が澄史の名前を知っていて、字も知っているのかと言うことだ。今の澄史は、この偶然の出会いがとてつもなくワクワクする冒険の始まりのような気がして、そのことに気づく余裕はない。

「凄いね、何か僕、お爺ちゃんのこと前から知っているような気がするよ」

「私は澄史のこと前から知っているよ」

「やっぱりね。どこかであったと思ったんだ!」

 やはり見覚えがあったのは気のせいじゃなかった。澄史の顔にようやく笑みが浮かんだ。学校の帰りや、塾に行く道なんかで出会っていたのかもしれない。この見知らぬところで知っている人に出会うのは心強いものだ。

「澄史はどこに行くんだい?」

 老人に聞かれて澄史は黙って俯いてしまった。何となく家出して姉の家に行くという事を言うのは恥ずかしいような気がしたのだ。そしてそれを口に出すと、このワクワクする冒険が、家に連れ戻されて終了という味気ないものになってしまいそうなのも嫌だった。澄史は思いっきりウソをつくことに決めた。

「お休みだから、思いっきり冒険するんだ! 行くところなんて決まってないよ」

 口に出した瞬間、自分がゲームの主人公になったような気がして、澄史はそんな状況が楽しくなってきた。こうしてどこかを冒険することこそ、彼の夏休みの希望だったのだ。目的はまだ分からないけど、旅に出る。それはRPGの主人公に良くありそうで、ちょっと自分を格好良く感じてしまう。

 そんな澄史を見て、老人は楽しそうにあることを持ちかけてきた。

「お爺ちゃんと友達になると、楽しいところに一緒に行く旅が付いてくるがどうじゃな?」

「楽しいところ?」

「SLに乗りに行くんじゃ」

 SL! それは澄史にとってもってこいの冒険だった。SLと言えば彼は、母親が大事にしているアニメのビデオ『銀河鉄道の夜』と、父親が持っている『銀河鉄道999』くらいしか知らない。本物を見られて、その上それに乗れるなんて凄いことだった。

「お爺ちゃんと友達になるよ! SL乗りに行こう!」

 老人は満面の笑みを浮かべて頷いた。

「SLはいいぞ。お爺ちゃんの憧れだからな」

「本物見るの初めてだよ! 楽しみだなー」

 かくして2人の澄史はSLに乗ることになったのである。


 色々話しているうちに、列車は金谷駅に滑り込んでいた。忘れ物のないように澄史は気を付けて列車から降りる。

 金谷駅は山間に立つ駅で、ホームからは山がよく見えた。日曜日ともあって子供連れの家族で賑わっていたが、山間の静かな駅という印象は変わることはない。

 澄史と老人はホームの階段を下って、隣のホームへ抜け、SLの連絡改札口を通っていくことにした。駅から出て外を歩いてSLに乗ることも出来るのだが、老人がこの連絡通路を選んだのだ。でも澄史にはSLの連絡切符がない。一体どうすればいいのだろうか?

「お爺ちゃん、切符ないよ」

 ちょっと心配そうな澄史に老人は笑って答えた。

「大丈夫だよ、あの家族にくっついて行ってご覧」

 澄史の前方には沢山の子供達とその親たちがいた。確かに一瞬紛れ込んでも見つからなそうだ。澄史はドキドキしながらその家族の後ろをくっついていった。駅員にその親たちが切符を渡している間に、澄史は素早くSLの止まっているホームに滑り込むことに成功した。初めて無賃乗車をしてしまった。

 澄史の心では冒険心のドキドキが勝ってしまって罪悪感というものを感じなかった。ほっと一息ついて後ろを振り向くと、老人の姿がない。びっくりしてきょろきょろとその姿を探すと、老人は何といつの間にかSLの乗車口に乗り込み、澄史に手を振っていた。

「お爺ちゃん、いつの間にそんなところに行ったの?」

 老人はただ笑うだけで、何も答えてはくれなかった。不思議ではあったが、澄史もそのままSLに乗り込むことにした。先に乗っていた老人は、澄史に普通の客席ではなく乗務員用の座席に座るよう促す。

「ここはいいぞ。SLの動くのがよく見られる特等席だ」

 老人は機関車を指さしてにこやかに言った。

「怒られない?」

 ちょっとビクビクしながら澄史が聞くと、老人は豪快に笑った。

「なあに乗務員が来たらどけばいいさ」

「本当?」

「本当さ」

「本当に大丈夫かなぁ……」

 心配はあまり減らないが、SLがよく見えるのは楽しみだった。客席はほとんどが満席だったが、ちらほらとたまに空きがある。いざとなればそこに座らせて貰えばいいのだ。そう考えると澄史は少し気が楽になった。

 乗務員席に座ると澄史は足をぶらぶらさせながらSLの出発を待った。SLの煙突からは、ひっきりなしに白い煙が吹き出している。話でしか知らないが、石炭という燃える黒い石みたいなものを竈に入れてこの列車は走るらしい。

 電車にしか乗ったことのない澄史は、それだけで楽しくなった。立ち上がって前に付いている窓からSLの機関部を眺める。真っ黒で重厚な機関車が今か今かと出番を待っている。それは澄史の心と一体になっているようでちょっと楽しくなった。

「きっと、SLも早く走りたいって言ってるんだね」

 ぽつりと呟いた言葉に澄史は思わず赤面してしまった。今までの大人ぶった澄史なら出てこない言葉だったからだ。恥ずかしくなって老人を振り向くと老人は楽しそうに笑った。

「そうだね」

 それだけのことなのに澄史は何だか無性に嬉しくなった。大人ぶって憎まれ口を叩くより、こうやって素直に言えるのは楽しい事だなと初めて気が付いた。新発見だ。

 不意に老人が外を指さした。

「何があるの?」

 慌てて澄史はホーム側の窓に駆け寄って外を見た。駅のホームでけたたましいベルが鳴る。

 すると駅員が赤い旗を高々と上に掲げた。何の合図かと澄史が振り向いて老人に聞こうとすると、老人はいつの間にかすぐ傍に立って、澄史ににっこりと微笑みかける。

「さあ出発だ」

 老人の言葉とほぼ同時に、車内に響き渡るほど大きい音の汽笛が鳴った。

 ぼおぉぉぉぉぉぉぉ……。

 大きく、力強く、少しもの悲しい響きのある音だ。

 びっくりする澄史の耳に次に聞こえてきたのは、鉄同士がぶつかり合うようながちゃがちゃという重い音と、きしむようなゴトンゴトンという重たい車輪の回転する音だった。その直後、SLはゆっくりと前進を始めた。短いシュッシュッという音が徐々に早くなっていく。澄史にとっては本当に驚きの出発であった。「走り出したのう、さぁ澄史、座んなさい」

 老人に促されて澄史は座席に座った。しかし乗務員がいつ来るかと思うと落ち着かない。

「お爺ちゃん、普通の座席に座りに行こうよ」

 そわそわしながらそう持ちかけると、老人はにこやかに頷いて席を移動し始めた。

 しばらく歩くと向かい合った4人掛けに、老人が一人だけ座っている席があった。他に誰かが来る様子はなさそうだ。老人と澄史はその席に座ることにした。澄史が頭を下げると座っていた老人もにっこりと笑い返す。

「坊やは一人でSLに乗りに来たのかい?」

「いえ、お爺ちゃんと」

「そうか」

 そういったきり、その老人は車窓に夢中になってしまったようだった。見たところ七十五~八十歳くらいだろうか。何だか寂しげな顔をしている。

「お爺ちゃん、何か寂しそうだね」

 澄史が隣に座る澄史老人に小さな声で言うと、澄史老人は頷いた。澄史老人も心なしか寂しそうに見えた。

「この男はな、二宮というんだよ。私の昔の知り合いでな。あれからもう五十七年になったか」

 澄史老人はじっと老人……二宮氏を見つめていた。

「歳を取ったな、二宮」

「二宮さんっていうんだ」

 口に出して呟いた澄史に、前に座っていた老人がびっくりして澄史の方を振り向いた。

「坊や、どうしてわしの名前を知ってるんだね?」

 二宮の声は怖いくらい真剣で、目付きも真剣だったから、澄史は思わずたじろいだ。

「あ……あの、お爺ちゃんが、二宮も歳を取ったって言うから……」

「お爺ちゃん?」

「うん、僕と同じ名前のお爺ちゃんだよ。澄史っていうの」

 二宮は不思議そうな顔をして、澄史を見つめた。

「名字は何ていうんだい?」

「お爺ちゃん、名字は?」

 澄史の問いに老人は笑った。

「名字も一緒さ。勿論字もね」

 またもこの偶然にびっくりしたが、今は不審そうな顔をしている二宮氏を何とかしないとならない。澄史は自分のびっくりを隠して、すぐに二宮に名前を伝えた。

「あのね、高田澄史って言うんだよ。僕と全く同じ名前なんだ。字も一緒なんだって」

 それを聞いた瞬間、二宮は細い目をこれ以上は開かないというくらいに見開いた。見ている澄史のほうが驚いてしまったくらいだった。二宮は澄史をじっと見つめる。何となく居心地が悪くなってきたが、老人が立ち上げる気がないようなので、澄史はじっと二宮の目を見つめ返した。何となく目をそらすのが悪い気がする。

「お爺ちゃんはお願いがあって、澄史にここまで来て貰ったんじゃ。いいかな?」

 今までとは違って真剣な老人の表情に、澄史は頷いた。何となく自分が何とかしてあげなければいけないことになっているな、と薄々感じ始めたのだ。だって、二宮さんにはお爺ちゃんが見えていないらしい。もしかしたら、二宮氏はぼけてしまったのかもしれない。

「私の言葉を二宮に伝えて欲しいんだよ」

 不思議な申し出だったけど、澄史はそのお願いを受けることにした。何故なら、澄史の父と母がケンカしたときも、お互いが近くにいながらにして澄史をメッセンジャーに使うことがあるからだ。同じ事かもしれない。

「お爺ちゃん、僕引き受けるよ。何?」

「坊や、誰と喋ってるんだい?」

 二宮の不思議そうな表情がちょっと怖いので、わざと見ないようにして澄史は老人に尋ねた。

「毎年SLに乗ってくれてありがとう、お前のせいじゃないからって伝えてくれるかな?」

「ええっと、お爺ちゃんが毎年SLに乗ってくれてありがとうって、二宮さんのせいじゃないからって伝えてって」

 それを聞いて二宮はまるで時間が止まったかのように固まった。見ている澄史の方がどうしようかと思って、じっと二宮を見つめてしまったくらいだった。しばらくして、二宮が汗をハンカチで拭い、かすれた声で訊ねた。

「お爺ちゃんはどんな格好をしているんだい?」

 奇妙な問いだったが、澄史は律儀に答える。

「ええっとね、襟の開いたシャツ着てて、ネクタイはしてないよ。でね、シャツの胸ポケットに難しい字が書いてあるんだ。大きいって字は読めるけど、もう一個は難しくて読めないよ。あと……」

 澄史が続けようとしていると、二宮は持っていた手帳にある文字を書いた。

「もしかして胸に付いてる文字ってこう書いてないかな?」

 そこには老人の胸ポケットに書いてあるのと同じ“鐵大”の文字があった。

「うん、その字だよ。なんて読むのか分かんないけど」

「澄史、これはこっちから読むんじゃよ、反対から読んで……」

 老人がそういったとき、二宮が呟いた。

「“だいてつ”って読むんだよ。大井川鐵道の略称だ」

「略称?」

 澄史が再び老人を見ると老人は、笑いながら長い名前を短くしたものの事だよ、と答えてくれた。 

「大井川鐵道って、何?」

 澄史が再び老人に聞くと、老人は笑った。

「澄史が今乗ってるこの汽車を走らせてる会社のことさ。見て御覧、窓の外に見える大きな川が大井川だ」

「分かった! 大井川のそばを走ってるから大井川鐵道っていうんだ!」

「その通りだ。澄史は賢いなぁ」

 賢いなんて言われて、澄史は思いっきり照れてしまった。照れ隠しに窓の外に目を向ける。そんな澄史を見る老人の目は限りなく優しかった。

 老人と澄史が話している間も、二宮は呆然としたような表情で澄史を見つめていた。

「坊や、高田さんはわしのせいじゃないって、本当に言っているのかい? いや、本当にそこにいるのかい?」

「いるよ。なんで二宮さんには見えないの? 変なの」

 沈黙の上に、SLのごとごとという揺れる音だけが降りてきていた。

 黙りこくってしまった二宮と老人の間で気まずくなってきた澄史は、ぼんやりと窓の外を眺める。走り出してからどれくらいがたっただろう、窓の外には大きな川が線路と連れ立っているように流れていた。

 時々SLは思い出したように大きな汽笛を鳴らす。トンネルに入るときであったり、橋を渡るときであったり。

「どうして汽笛を鳴らすの?」

 澄史が問うと、老人はにっこりと笑う。澄史に何かを教えることを、楽しんでいるようでもあった。

「トンネルや鉄橋をこれから通るって事を、みんなに知らせてるのさ」

「ふ~ん、そうなんだ」

 トンネルでは、ひんやりとした空気と水の匂い、そしてちょっと焦げたような炭の香りが感じられた。町中では知らなかったような感覚だ。

「木陰は涼しいだろう?」

 黙っていた老人が不意に澄史に声をかけた。

「うん、涼しいよ。それにかいだことのない匂いがするんだ。冷蔵庫で冷やした野菜みたいな感じ」

「そうか、冷蔵庫の野菜か!」

 老人は笑った。

「それは、木と草の匂いだよ。緑の匂いだ」

「緑の匂いかぁ」

 二宮は相変わらず黙っている。その間に澄史はトンネルの涼しさや、炭の香り、水の匂いに付いて色々老人に聞く。

 生まれて初めて味わう自然という香り。澄史にはとても新鮮に感じられた。

「澄史、良く見ていてご覧。線路脇に白い花が咲いていたり、川で白鷺が水浴びしていたりするんだよ。凄いと思わないかい? お爺ちゃんが昔見ていたのと同じ景色がまだあるんだ」

 外に夢中になっていた澄史に老人はそういった。

「お爺ちゃんが見ていた昔って、どれくらい前なの?」

 老人は寂しそうに笑って答える。

「五十七年前さ。川も自然も全く変わらんな。変わったのは人間と町だけだ」

「五十七年も前から同じなの? 凄いね!」

 澄史の屈託のない口調に二宮は顔を上げた。五十七年前という言葉にに何か心が動かされるところがあったようだった。そのまま澄史の方をじっと見つめる。

 でも澄史は、想像も付かない五十七年前に思いを馳せ、老人の話と窓の外に夢中になっていたのではそれに気が付かない。

「お爺ちゃん、ここに昔住んでたの?」

 車窓に広がる大井川を眺めながら老人に訊ねる。

「いやいや、私はこの大井川鐵道で働いていたんだよ」

 その言葉に澄史は驚いて、それから納得してしまった。だから老人は“鐵大”の文字が入った制服を着ていたのだ。まじまじと老人を見つめる。

「お爺ちゃん、SLを走らせてたの? 汽笛鳴らしたことある?」

 澄史の感激した声にちょっと照れながら老人は頭を掻いた。

「いやいや、駅長さんだよ」

「駅長さん! 格好いい!」

 感動されたのが嬉しかったらしく、老人は垂直な座席でふんぞり返った。

「凄いぞ、お爺ちゃんはな、イングリッシュもできるんだ」

「いんぐりっしゅ?」

「英語のこと、今はイングリッシュっていうんじゃないのかな?」

「言わないよ」

 二宮はたまらなくなったように澄史に声をかけた。高田駅長は英語が出来たために高齢で招集された事を思い出したからだ。

「坊や、坊や、本当にいるんだね? 高田さんがいるんだね?」

 戦時中、彼らは同じ駅で働き、そして同じ部隊で戦場へ連れて行かれた。捕虜との通訳で戦場に赴いたはずなのに高田は現地で召集され前線へ出ることになったのだ。そして……。

 彼の声は絞り出すような苦しげだった。

「いるよ。僕にね、色々な事話してくれてるんだよ。線路の所の白い花のこととか、白鷺の事とか」

 口に出してみて澄史は、お爺ちゃんが二宮に見えていない事を改めて確認した。二宮が惚けているようにはとても見えない。

 ――もしかしてお爺ちゃんは存在していないのかもしれない――心の中の何かがそういった。

 花と鷺の話を聞いた瞬間に、二宮の中に懐かしい声が蘇った。

『なぁ二宮、俺達は何のためにこの戦場へ来たか判るか?』

 若かりし日の二宮はその時、お国のためと一言答えただけだった。敵に囲まれた状況での高田の質問の意図が分からなかったのだ。

 実際その時、二宮達の連隊は迫り来る死の恐怖に必死で立ち向かっていたのだった。

『二宮、俺達の大井川鐵道は綺麗だよな、線路端に咲く白百合、大井川の白鷺、木々の香り、木漏れ日の美しさ。俺達はきっとそれを守るためにここにいるんだ』

『景色を守るためですか?』

『そうだ。あの綺麗な景色を子供や孫達に見せてあげるためだ。だからな、若いお前はそれを子供達や孫達に引き継ぐために、生きて帰らなきゃいかん』

 その言葉に二宮は頭を殴られたような気がした。まだ若かった二宮は、大井川鐵道をそういう目で見たこともなかったし、線路の白百合や白鷺を探したこともなかったからだ。

 二宮が自分の過去の意識に沈み込んでいるとき、ひときわ大きな汽笛が鳴った。SLが大きな鉄橋に差しかかったのだった。澄史が思わず飛び上がる。

「澄史これが、笹間渡鉄橋って言うんだぞ。大きい鉄橋だろう?」

 窓の外一面に川が広がった。澄史は身を乗り出す。それは壮大な眺めだった。

 川の上流までずっと川が続いている。川の下流にもずっと川が続いてる。見渡す限り川は続いて、緩やかに流れ続けている。

 心の中で大きな光が広がった気がした。これが自然の景色なんだ――。

 この自然の景色に比べたら、澄史は本当に小さい。大井川に落っこちている一粒のゴマみたいなものだ。大人ぶって、背伸びをしているただのちっぽけなゴマ粒だ。

「綺麗だろう? これを澄史に見せてあげたかったのさ。」

「お爺ちゃん、本当に綺麗だよ! 凄いね。来て良かったよ!」

 二宮の中で過去は色鮮やかに広がってきていた。そう、あれはついに敵に見つかって踏み込まれたときだった。

『逃げろ二宮! 俺はもう十分に生きた! お前は逃げろ<』

 高田は彼の前に立ちふさがると、二宮を逃がした。だが恐怖に怯えていた二宮の足は、容易には動き出してくれなかった。咄嗟に走り出すことが出来ない。震える足を動かそうとしたとき、沢山の銃声が後方で聞こえた。

 その瞬間はやけにスローモーションだったような気がする……。

 駆け出しながら振り向いた二宮の目に映ったのは、全身を銃弾に貫かれた高田の姿だった。

『駅長……高田駅長<』

 叫びながらも彼は蹴躓きつつ、必死で逃げた。彼にはどうすることも出来なかった。倒れてゆく高田の体、逃げ延びることが出来た自分。他に何人の人間が逃げられたのか、その時には分からなかった。勿論高田がどうなったのかさえも……。

 もしもという言葉は歴史に存在しない。それは分かっている。だが二宮は敢えて、そのもしもを自分の中で問いかけ続けていた。

 あの時二宮が怯えたりせずにすぐに逃げ出していれば、あの時足がすぐに動いていたら、高田はもしかして逃げられたのではなかろうか? それはずっと二宮の心に突き刺さる後悔の棘となっていた。

 しばらくSLの色々な話で盛り上がっていた老人と澄史だったが、老人はずっと二宮の様子を気にしていたらしい。鉄橋からもう随分たったところで老人は澄史に声をかけた。

「澄史、二宮にまた伝えて欲しいんだがいいかな?」

 老人の言葉に外を見るのに夢中だった澄史は不満だったが、二宮の様子を見て引き受けることにした。それほど二宮は悲しそうだったのだ。

「帰ってからも、お前は大井川鐵道で働き続けてくれた。それだけで私は嬉しいんだ、と」

 老人の言葉を澄史はそのまま伝えた。二宮から堪えきれないように嗚咽と涙がこぼれ落ちた。帰国して自分の職場であるここ大井川鐵道に戻ったとき、二宮は初めて高田の言った自然の美しさを知り、高田の言葉の大きさを知ったのだ。

 終戦の後、心身共に疲れ果てた彼の目に飛び込んできた景色は、他のどの景色よりも美しく、輝いて見えた。自分はこんな事にも気が付いていなかったのかと、そう思い涙がこぼれた。

「この子にも、俺達の大井川鐵道を見せてあげられただろ? もう後悔するのはよすんだ」

 澄史はその言葉を伝えながら、何となく不安が心の中に広がっていくのを感じた。もしかするとこの旅が終わったら、老人に二度と会えないような気がしてきたのだ。

 SLの揺れる音と木々の香りだけが、彼らの上に降ってきたようだった。

「お爺ちゃん、何だかお爺ちゃんがいなくなっちゃいそうで怖いんだ。これからも僕の友達でいてくれるよね?」

 沈黙に耐えきれず、澄史が老人を振り仰ぐ。だがその問いに老人は寂しげに笑っただけだった。

 再びの沈黙。車内の音がやけにはっきり聞こえた。

『次は、終点千頭、終点千頭です。井川線乗り換えのお客様は……』

『二宮、いい旅だったな。今日も俺達の鐵道は綺麗だな』

 老人のつぶやきにも似た言葉は、不意に二宮の耳に飛び込んできた。澄史を通さずに初めて聞こえた声だった。どうも澄史には聞こえていないらしい。少年はずっと外を眺めているだけだった。

 二宮が高田の実在を確信したからこそようやく、澄史を通してではなく彼ら自身として言葉を交わせるようになったのだ。ここまでが長かった。

 直接言葉をかけられるのに、五十七年間もかかってしまった。

「……駅長」

『お前が生きて帰って。この鐵道を守ってくれて本当に良かった』

「駅長……。済みません、済みません……」

 老人の姿は相変わらず見えてはいなかったが、二宮の耳にだけはっきりと高田の声が聞こえた。

『謝るな。どうせならありがとうっていってもらいたいもんだな』

「私に出来ることはこれしかなかったんです。駅長に恩をお返しすることが出来なかった……」

 命を救ってくれた彼に対するせめてもの事が、大井川鐵道を守ることだけしかなかった。そんな彼の心情を汲み、老人は微笑んだ。せめて彼の気持ちを少しでも軽くできるよう、楽しげに話しかける。

『じゃあ、その恩を今返して貰うか。この少年は私の曾孫だ。私の名前を貰ったのさ。この子は家出をしてきていたんだ。それを私がここまで連れてきた。この景色を見せてやりたくてな。俺たちが守った、大井川鐵道を』

 老人の言葉の合間に澄史が唐突に割って入った。彼にはこの声が聞こえてはいない。

「お爺ちゃん、終点だって。千頭駅」

「そうだな、あそこがお爺ちゃんの働いていた駅だよ」

「おじいちゃん千頭駅で働いてたんだね」

 澄史は言い難い不安感に顔を伏せる。もうこの冒険が終わってしまう。そう思った。

「お爺ちゃんは、帰っちゃうの?」

 澄史の心の中でやっとお爺ちゃんの存在が理解できてきたようだった。

 二宮さんには見えないお爺ちゃん、切符がなくてもSLに乗れてしまうおじいちゃん。

 きっとお爺ちゃんはこの世にはいない人なんだと思った。それはちっとも怖いことではなかったけど、もう二度と会えない寂しさに繋がっていることは理解出来た。

 そしてお爺ちゃんは自分に冒険と、素直さを与えてくれたことも分かった。景色を見せてくれたこと、それが彼を素直にしてくれた。それは自分にはなかったもの、憧れていたけど手に入らないと思っていたもの、その両方だった。

 そして、もう一つの経験も澄史に与えてしまう事も分かっていた。

 それは二度と会えない別れだ。

 老人は澄史を見てただ寂しげに笑っただけだった。だが、二宮には語りかけ続けた。

『澄史を静岡のこの子の家に送り届けて欲しいんだ。私は千頭に残るから。私の家は分かるな? 昔と同じ所にあるから』

 戦後焼けてしまった静岡市内に新しい町が作り始められていた頃、復員してきた二宮は高田の戦死を知らせに家を訪れたことがある。場所は分かっていた。二宮は静かに頷いた。

『間もなく千頭、千頭です……』

 車内アナウンスが三人の耳に聞こえてきた。

「澄史、そろそろお別れだよ。お爺ちゃんは本当に楽しかった」

「本当に? 本当にいっちゃうの? ……もうお爺ちゃんとは会えないの?」

 老人は今までにない晴れやかな笑顔を澄史に見せた。それは思い残すことのない清々しい笑顔だった。

「もし澄史が本当に困ったことになったら、お爺ちゃんはまた来てあげるよ。でも澄史は男の子だ、きっと自分で頑張っていけるな?」

 今までの澄史だったらそんなこと受け入れられなかっただろう。だがこのほんの短い旅で少し成長した澄史には、これから自分で頑張っていくことを約束できるような気がした。でも言葉にはならず、何度も頷いただけになってしまった。

 そんな澄史をみて、老人は微笑んだ。

「澄史はいい子だ」

 SLがついに千頭駅のホームに入ってきた。列車が少しずつ速度を落としていくのとまるで同調するように、老人の姿は少しずつ薄らいでいった。

「お爺ちゃん!」

 消えかかった老人は、微笑んで澄史に言った。

「泣かないでくれよ、お爺ちゃんは悲しいお別れは嫌だからな、笑ってお別れしよう」

 その言葉で、涙をいっぱいに浮かべた澄史は、ぐっとそれを飲み込んで笑って見せた。

「泣かないよ。バイバイ、お爺ちゃん!」

 その言葉を聞くか聞かないかのうちに、老人の姿はSLの蒸気に紛れるようにして消えていった。

 老人が見えなくなった瞬間に、澄史の目から大粒の涙がこぼれた。到着を知らせる汽笛が、お爺ちゃんのさよならのように長く尾を引いてもの悲しげに消えた。


 それから、澄史は二宮に連れられて静岡の家に帰る事になった。二宮はSLに乗って帰るかと聞いてくれたが、澄史は首を横に振っただけだった。

 千頭から普通の列車に乗っていくと、老人と共に見た景色がぐんぐんと後方に消え去っていった。少年は少しだけ自分が本当の自分に戻ったような気がして少し嬉しかったけど、同時に寂しかった。

 鉄橋も、トンネルも白百合も白鷺もみんな飛ぶようにして後ろへ流されていく。旅が終わったのに、澄史には改めて何かが始まるような予感が芽生えた。

 金谷駅で東海道本線に乗り換えて来た道を逆に辿る。

 でも、お爺ちゃんはもういない。

 家に着いた時、もう辺りは暗くなっていた。両親は澄史のことをもの凄く心配していたようで、家から飛び出してきた。それが澄史にはとても新鮮で、何だか嬉しかった。

 二宮は澄史を送り届けて、澄史の家に上がることになった。そこで彼は仏壇に手を合わせた。澄史もそうしなければいけないような気分になって仏壇に手を合わせる。

「駅長、約束通り澄史君を家まで送ってきましたよ」

 二宮が仏壇の上に飾ってある写真の一枚にそう声をかけた。何気なく見上げて澄史は驚くと同時に、老人が何故彼の名前を知っていたのかを知った。澄史の名前は曾お爺ちゃんから貰ったと良くお祖母ちゃんに聞かされていたのだ。

「お爺ちゃん、ここにいたんだね」

 語りかけた瞬間に、老人の微笑む顔が見えたような気がした。

 次の日は月曜日、七月十六日だった。静岡ではお盆で先祖が天国に帰る日になっている。今まで興味がなくて送り火の時はテレビを見ていた澄史だったが、初めて送り火を見た。

 煙が天に昇っていくのを見て、澄史は老人と共に乗ったSLの蒸気を思い出した。煙はまるでSLの汽笛のようにもの悲しく長く空にたなびいて消えていった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

老人と少年とSL さかもと希夢 @nonkiya-honpo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ