雪降る街で逢いましょう

さかもと希夢

雪降る街で逢いましょう

 荒木千春は、苦悩していた。

 何に苦悩しているかといえば、この足下に転がる奇妙な男にである。

 真夜中の一時、人通りもなく雪がしんしんと降っている道の端にその男は倒れていた。外は何十年に一度の大寒波、朝の気温は氷点下な今の時期、この男は何故ゆえにこんなところに行き倒れているのだろう。

 先ほど脈を計ってみたが、生きている。

 救急車を呼ぼうかと思ってみたが、酒臭いだけで、呼吸は正常だからそれも憚られる。

 見捨てていってしまえばいいのだが、そうできないのが千春の性格だった。そのせいで何度馬鹿を見たか分からない。

 それなのに、またやっかいなものを見つけてしまった。見つけてしまったからには捨て置けないではないか。

 足のつま先で軽くつつくと、男はうなり声を上げた。

「もしも~し、そんなところで寝ていると、死にますよ」

 酔っぱらい相手に、何の感慨も沸かない。冷たい声でそう告げた千春に、男は顔を上げた。

――人畜無害そうな男……。

 それがその男を見た、千春の第一印象だった。いかにもおっとり方の、要領のよくなさそうな、そんな感じを受ける。

「自分で帰れないなら、警察呼んであげますけど?」

 千春のその言葉にようやく反応があった。男は小さく呟いたのだ。

「……いいです」

「え? 何?」

 よく聞こえない。千春は男の傍にかがみ込んだ。

「そこまでじゃないんで、大丈夫です……」

 男は蚊の泣くような声でそう言った。ため息をつくと立ち上がり、千春は男を見下ろした。

「ねぇ、だったら立ち上がって家に帰ってよ。こんなところで行き倒れられたら、感じ悪いの。毎日仕事に行く時、思い出すじゃない」

 顔を上げた男は、千春よりも若いらしかった。千春が三十歳だから、二十五、六といったところだろう。

「帰れないんです」

 男はのそりと起きあがった。立てないらしく、座り込んでいる。服が雪で濡れて色が変わっていた。よく見るとあちこちに擦り傷が出来て、鞄も持っていない。

「何でよ?」

「金がないんです」

「はぁ?」

「さっき全部、取られてしまいました」

 千春はようやく納得した。なるほどこの男、酔った上で鞄を取られて殴られたらしい。

「じゃあ、やっぱり警察じゃないの?」

 呆れてそう告げた千春に、男は力無げに首を振る。

「たいした額じゃ無いんで……」

 何故か警察には行きたくないらしい。確かに少額なら警察に行く手間を考えると黙っていた方が楽という事もある。

「じゃあどうするのよ、凍え死ぬの?」

「いや、それもちょっと……」

「もうっ、はっきりしないなぁ!」

 そうこうしているうちに、ちらついていた雪が本降りになってきた。これでは傘を持っていないから濡れてしまう。

 肩の長さですっぱりと切られているショートボブの髪も、雪で冷たくなってきた。いつまでもこうしているわけにはいかない。

 倒れてた男と話をしていて、風邪を引いたなんて、馬鹿げている。しかも知らない男だ。

 踵を返して家に向かいかけて振り返ると、暗い道の電灯に照らされて男がポツリと座っているのがみえた。

 その姿が何かに似ている気がした。ちょっと首を捻って考えるとすぐにそれが何か思いついた。

 ビクターの犬だ。

 確かあの犬って、ご主人様に先立たれたんだよな……。

 そこまで考えてしまってから、千春はため息を付くと、男に手をさしのべた。

「はい、立って。ウチすぐそこだから」

 千春の行動に、男は一瞬驚いたような顔で固まる。見ず知らずの男を家に上げようとする彼女の行動に、少々戸惑っているようだ。

 だが千春は出した手を引っ込めず、ゆっくりと繰り返した。

「どうするの? 来るの? 来ないの?」

 男は本当に恐る恐るといった感じで、千春の手を取った。その瞬間にこの男は千春の拾い物となったのだ。

「また拾っちゃった」

 小声でそう呟くと、千春はため息を付いた。小さい頃から、捨て犬、捨て猫、捨てうさぎなどなど、彼女は有りとあらゆるものを拾ってきてしまう。

 社会人になってようやく自分の経済状態やら、その他諸々を理解して、グッと堪えて拾わないように心掛けてきたのに、ついに人間を拾ってしまった。

「あの、本当にいいんですか?」

 千春の手を借りてようやく立ち上がった男は、不安そうにそう尋ねる。

「……いいけどあんたは私の客じゃないからね」

「え?」

「拾い物(ヽヽヽ)、だから」

 強調してそう言うと、男は『はぁ』と情けない声で返事をして、のろりと頷いた。

「意味分かってる?」

 掴んでいた手を放すと、千春は男に指を突きつけた。男は目を丸くして、体を後ろに引いた。

「あの……分かりませんが……」

「つまり、私のいうとおりにしてなさいって事。もてなしはしないからね。いい?」

「はい」

 こうして千春は、この男を家に連れ帰ることになったのである。

 一人暮らしのワンルームマンションに男を先に入らせてから、千春は鍵をかけた。彼氏でも親類でもない男……ましてや知らない男を連れてきたのは始めてだ。

 だが仕方ない。これは千春の性分だ。あそこに置いておけば死ぬことが分かっていながら、置いてくることなぞ、出来るはずがない。

「すみません、ありがとうございます。僕は……」

 名乗ろうとする男に、千春はバスタオルを投げつけた。

「先に風呂に入りなさいね。部屋が汚れちゃう」

 さっさと風呂の支度を始めた千春に戸惑ったように、男は落ち着かない。ウロウロと千春の後ろをついて回る。

「あの……とりあえず名前だけでも……」

 千春は、そんな男の様子を見てため息を付いた。全くもってこの男、情けない。

 だがため息を付かれた方は、何か千春の気に障ることをしてしまったのかと困った顔をする。

「名前は聞かない。拾った生き物に名前を付けるとね捨てられなくなるの、分かった?」

 捨て犬や捨て猫と同じようにいわれても、男は怒るどころか、申し訳なさそうに項垂れるだけだった。

「そんなに恐縮しなくてもいいよ。そりゃ、傍若無人に振る舞われても困るけど」

「はぁ、でも……」

 男は相変わらず叱られた子供のように、うなだれている。全く持って世話が焼ける男だ。

「始発までいることになるんだから、それじゃ疲れるでしょ? 君がそれじゃ、私だって気を使っちゃうじゃない。さ、シャワー浴びてきて」

 腰に手を当て、諭すようにそう告げた千春に、男は頷くと素直にバスルームに入っていった。狭いユニットバスだが、問題ないだろう。

 千春はクローゼットを開けて、前の男が忘れていったパジャマを取りだして、バスルームの入り口に置いた。

 男は小柄だから、少々前の男の服は大きいかもしれない。だが千春の服を着るよりは大分ましだろう。

「ここに服置いとくからね!」

 大声でバスルームに呼びかけると、中から気の抜けたような返事が返ってきた。聞こえてるなら問題ない。

 キッチンに立ち、冷蔵庫を開けてみると入っているのはビールばかりで、体を温められそうな物はない。

「どうしようかなぁ……」

 一から作るのは面倒だ。冷凍庫を開けると、この間冷凍食品の特売で購入した冷凍カレーうどんが入っていた。鍋に放り込んで、少々水を入れて煮込めばカレーうどんになるという便利な代物だ。これで十分だろう。

 自分の分は要らない。先ほどまで飲んでいたから、腹は減っていなかった。だが何となくもう少し酒が飲みたい気がした。

 こんな寒い雪の夜に男を拾ってしまった、お馬鹿な自分に乾杯だ。

 ようやく冷凍うどんがほぐれてきた頃に、男は風呂から上がってきた。

「シャワーお借りしました。ありがとうございます」

「はい、どういたしまして」

 さっぱりとした姿を見ると、それなりに悪くはない容姿だった。格好いいわけではないが、不細工なたぐいでもない。

 並の上といったところだろうか?

「じゃあ、私もシャワー入ってくるから」

「え、あの……」

 慌てる男に、千春は苦笑した。

「あのね、私も寒いわけ。暖まりたいの」

「ええ、そうでしょうね……」

 どぎまぎした様子で男は頷いた。このシチュエーション、男ならどう感じるのか、千春には分かっている。

 分かっているが、拾ってきた人間相手にそんなつもりはない。

「だ・か・ら、いい? お金を持ち逃げとか泥棒なんかしないでよ」

「え? ああ、勿論です」

 男は何度も頷いた。やはりそう言うこととは別のことを想像していたらしい。

「それと、うどんの鍋が火にかかってるから、出来たら食べて。箸は割り箸を置いといたからね」

 いちいち指さして教えると、男は頷いて聞いていた。説明が一通り終わると、千春は笑顔を男に向けた。

「それから……覗きは厳禁だからね、ビクターくん」

「び、ビクターくん?」

 男は困惑した顔で聞き返した。まさかあのビクターの蓄音機を聞く犬から来ているとは思わないだろう。

「そ、ここにいる数時間の君の名前。返事は?」

「え?」

「覗かないでね?」

「はいっ! 勿論です!」

 緊張して堅いビクターくんに手を振って、千春はバスルームの扉を閉じた。一人になった瞬間、大きなため息が出た。

 なんでこんな事してるんだろうと思うと、分からなくなる。人を拾ってくるなんて……しかも男だ。もしも人のいい顔をしているビクターくんが、とんだ食わせ物だったらどうするんだろう。

 千春はシャワーを思い切り捻った。お湯が勢いよく流れ出す。首を振ると服を脱ぎ捨ててシャワーを浴びる。冷えた体に熱いお湯は染みいった。

 体が温まると、落ち着いてきた。千春は風呂から出るまでに、すっかりと開き直っていた。

 なるようにしかならない。今更考えても仕方ない。そう思うしかない。

 どんなことが起こっても、それは千春の責任だ。いいじゃないか、別に。もし相手が殺人犯だったとしても、命を惜しむ理由がない。

「よし」

 髪を拭きながらバスルームから出ると、部屋の真ん中にある小さなテーブルの横に、ビクターくんは行儀よく正座して座り、うどんをすすっていた。

 その姿を確認してから、手早く濡れた男の服をヒーターの傍につるす。これで数時間後には乾くだろう。

「お待たせ。私はビール飲むけど、ビクターくんはどうする?」

「僕はもう……」

 ビクターくんは顔をしかめた。そういえば飲んだ帰りに襲われたんだっけ。よっぽどひどい目にあったのだろう。

「じゃあ私は飲むから」

 冷蔵庫から冷えたビールを取り出すと、プルタブを引き、一気に三分の一ほどのビールを飲み干す。シャワーで暖まった体が、一気に冷やされて気持ちいい。

「かーっ、美味しい!」

 そんな様子を、ビクターくんはニコニコと微笑みながら見ている。

「なによ、何かおかしい?」

 口を尖らしてそう尋ねると、ビクターくんは微笑んだまま答えた。

「美味しそうに飲みますね、何か見てると幸せそうで」

「そう?」

 千春は、ビールと灰皿を持ってビクターくんの向かいに座った。この部屋には、他に座るところがない。

 千春は、ビクターくんに断ることなく、煙草に火を付けた。大きく吸い込み、肺にその煙を満たす。しばらく吸っていなかったから、軽い酩酊感が心地よい。

「あの、体に悪いですよ」

 正座したままビクターくんは、別に悪いことをしているわけでもないのに、さも申し訳なさそうに千春にそう言った。

「ええっと、拾い物の僕からいうのもなんなんですけど……」

 よく見ると千春が貸してやった前の男の服が少々大きかったらしい。ビクターくんは小柄なのだ。彼は袖を降り、裾を上げている。それが妙に嵌っていて、幼い印象になった。

「いいの。ここは私んちなんだから。それに知ってて吸ってんだから」

「そうですか……」

 ビクターくんは、何となく悲しげな顔でそんな千春の姿を見ていた。千春はそんな彼から視線をそらし、壁の方を向いて煙を吐き出す。

「うん。私、自分って大切だと思わないの。体を壊すも、死ぬも私が決めることだからね」

 ビクターくんは言葉がでないようだった。そんな彼を見もせずに千春は続けた。

「だってさ、そういうの他人が決める事じゃないっしょ? 私は私。死ぬも生きるも自分の勝手」

 言葉の接ぎ穂を失って、何となく沈黙が流れる。時計に目を遣ると、まだ二時にもなっていない。始発までまだまだ時間がある。

 気まずい空気が重い。所詮二人は他人なのだ、共通の話題なんて分かるわけがない。千春はテレビを付けた。深夜番組特有の騒々しさが、静かだった部屋に満ちた。

 何の気なしにチャンネルを、コロコロと変えてみる。金曜の夜は騒々しいか、深夜映画の二つしかない。

「ビクターくん見たいものある?」

 一通りチャンネルを変えてから尋ねると、彼は首を振った。

「そう、じゃあ適当に付けとくね」

 黙ったまましばらくぼんやりとテレビを見ていると、ビクターくんが立ち上がった。手には食べ終わったうどんの容器と割り箸がある。

「これ、流しでいいですか?」

 生真面目にかたづけてくれるらしい。

「うん」

 立っていくビクターくんを何気なく見ていると、流しから戻ってくるその顔に何か違和感を感じた。

 どこかで見たことがあるような……。

 とても親しいわけではなく、それでいて長いこと会わない感じではない。何度も何度も会っているような、だけど会ったことはないような、そんな奇妙な感覚だ。

「おかしいなぁ……」

 ビクターくんがテーブルに戻ってきてから、千春は立ち上がってビールを取ってきた。歩きながら開けて飲む。

「何か変ですかね?」

 戸惑うビクターくんに、千春は首を傾げた。

「どこかで見たことあるような気がするんだけど、気のせいだよね?」

 気のせいだと、いう言葉が返ってくると思っていたが、違った。千春の言葉に、ビクターくんは嬉しそうに笑ったのだ。

「そうなんです、会ったことあるんですよ」

 思いも書けない言葉に、千春は驚いた。まさか本当に会ったことがあったとは。

「うそ! いつ会ったの?」 

「土日を除いて、毎日会ってますよ」

「毎日? どこで?」

 驚きで思わすビールをテーブルに勢いよく置いてしまった。ビールが溢れる。

「あ、零れましたけど……」

「おっと」

 慌てるビクターくんの顔を見たまま零れたビールをティッシュで拭く。そんなこといわれても全く思い出せない。

 毎日会ってるったって、会社の同僚ではないし、出入りの業者でもない。馴染みの弁当屋でもないし、近所のコンビニの店員でもない。

 千春に全く思い当たることはなかった。

「何処で会ってるの?」

 全く考えが及ばないまま降参して、千春はビクターくんに尋ねた。

「僕の家から最寄りの駅に一番近い交差点です」

 一瞬意味を掴み損ねて、千春は首を傾げた。交差点? さっぱり意味が分からない。降参だ。

 そんな千春の困惑した顔が嬉しかったのか、ビクターくんはニコニコと嬉しそうに言った。

「僕が出勤する時、駅から出て会社に行くあなたとすれ違うんです。毎日」

「ということは……毎日すれ違うだけって事?」

 呆れて言葉が出ない。確かに毎日同じ時間の電車に乗り、同じ時間に駅を出て、同じ時間に交差点を通って会社に行く。

 普通ならそんな通りすがりの人など、覚えているわけがない。

「なんで私のこと覚えてるの? 私は通りすがりの他人なんて覚えちゃいないのに。変なヤツ……」

 呆れた顔のままビクターくんを見ると、彼はにこやかに笑みを浮かべたまま答えた。

「でも僕の顔、見たことがあるように感じたでしょう? 覚えていたんですよ」

「う……まぁ……」

 だからあんな何ともいえぬ奇妙な感じがしたのだ。意識していなくても、意外と脳は記憶してるものだと感心する。

 でもそれだとはっきりと千春のことを覚えていたビクターくんは何なのだろう? 桁外れに記憶力がいいのだろうか?

「なんでビクターくんは、はっきり私のこと覚えてるの?」

 不審な目で見た千春に、少々言い辛そうにビクターくんは答えた。

「……三ヶ月くらい前、交差点を渡る時泣いてましたよね?」

「え?」

 三ヶ月くらい前……。それは今ビクターくんが着ている服の本当の持ち主が、千春の前から去っていった頃だ。

「泣いてた? 私が?」

「涙を流してってわけじゃないけど、僕には泣いているように見えて。目が真っ赤だったから……」

 多分それは、別れた次の日だ。確か泣いて泣いて、目が覚めたら目が開かなかったのを覚えている。多分ビクターくんが千春を見たのはその日だ。

「それから気になって、毎日交差点の向こうから見てました。すれ違いながら今日は泣いてないなと見てたんです」

 あの何気ない通勤途中でそんなことがあったなんて、全く気が付かなかった。まさか毎日自分の心配をしている人が、いたなんて。

 そう思ってからふと気が付いた。そんな風に千春のことを気にしていた人を、偶然拾うなんて出来過ぎじゃないだろうか?

 もしかしたら……。

「じゃあ、今日近所に倒れてたのは、私の家を突き止めに来たからなの?」

 きつい口調でそう詰め寄った千春に、ビクターくんは両手を振って否定した。

「違います! 断じて違います!」

「だって出来過ぎじゃないの!」

「営業先の会社がこの近くで、それで接待で飲んでたんです。本当です!」

「……嘘くさい」

「本当なんです! 信じてくださいよぉ……」

 その必死な様子は、嘘を言っている感じではない。なおも疑わしい目で見ていた千春だったが、汗だくになって否定しているその姿に力が抜けた。

「分かった、信じる」

「ありがとうございます」

 ビクターくんはホッとしたように、力を抜くと、微笑んだ。このいかにも純朴そうな顔で嘘を付けるわけがない。

「それで?」

 千春は再び交差点でのことを尋ねた。ビクターくんは座り直すと、真っ直ぐに千春の顔を見つめる。その瞳はいい大人のくせに純粋で、少々捻くれた千春には痛い。

 千春はビールを飲むふりをして、そっと目をそらした。

「交差点で毎日会うのは、偶然です。でも僕はその偶然であなたに出会えたんです」

「……」

 何も言わずに千春はビールを飲んだ。そんな千春を見つめたまま、ビクターくんは続ける。

「こう思いませんか? 確かに今までは偶然だったけど、雪の中に倒れてた僕を助けてくれたのがあなただったのは、きっと必然なんです」

「必然?」

 ビクターくんに視線を戻すと、彼は真っ直ぐに千春を見ていた。

「なによ、格好いいこと言っちゃって」

「すみません」

 千春は少々腹立たしくなってきた。ビクターくんが何を言おうとしているのか察したからだ。それは多分千春が一番信じていないことだ。

「行き倒れてたんだからね。私はそれを拾っただけ。これも偶然」

「そうですかね。僕はそうじゃないと思うんですが……」

 真剣なままの言葉に、千春は苛立った。何故この男は、こんなにも純粋に出会いの必然を語っている? 所詮は他人、ただ単にすれ違っただけなのに。

「都合のいいように解釈してるだけでしょ? 明日になればまた他人に戻るの。分かってる?」

 偶然が重なってそれが必然になった、それをどう解釈しているのか、千春にはビクターくんの考えが読めていた。

 自分の苛立ちをビクターくんにぶつけたが、彼はそれを黙って受け止めた。

「偶然だ、必然だって、子供じゃないの。それがどうしたの? 運命だとでも言いたい? 運命だからつき合おうとか、そう言う話にでも持っていくの?」

 一気にまくし立てられたビクターくんは、しばらく黙ってテーブルを見ていたが、顔を上げて再び千春を真っ直ぐに見つめた。

「……いけませんか?」

 全く堪える様子のないビクターくんに、千春はため息を付いた。

「馬鹿じゃないの?」

「馬鹿でしょうね。でもずっとあなたが気になっていたんです。今日助けて貰って、それが確信に変わったんです」

 言葉を切って、ビクターくんは言葉を探していたようだったが、やがて大きくため息を付くと言った。

「あなたが好きなんです」

 どうやら気の利いた言葉は、見つからなかったようだ。

「交差点ですれ違っただけで?」

「はい」

「行き倒れたのを救ったから?」

「はい、そうです」

 あまりに純粋なその瞳に、千春は圧倒された。圧倒されつつも心は、ビクターくんの言葉を全て否定している。

「私の事なんて何も分からないくせに……」

「だから、これから分かっていきたいんです」

 あまりにも期待を裏切られ続けてきた。人を信じても、いつもそれが仇になって一人になってしまう。

 そんな千春には、純粋に運命を信じ、彼女を好きだと告げるその瞳が、痛い。

 何かにすがりたい、誰かに分かって欲しい。そう思って膝を抱えた日々のいかに多いことか。

 千春には分かっている。運命なんて無いんだと。ビクターくんも他の人たちと同じだと。

 だけど、そんな千春の日々をビクターくんは知らない。知らずにそんな風に甘い罠を張る。

 そんな罠にすがりたい自分は、悲しい。悲しくて……情けない。

 期待して裏切られるくらいなら、このまま赤の他人になってしまう方がいい。一瞬の幸せと、あがく続く後悔など、欲しくはないのだ。

 しばらくの沈黙の間、テレビの音だけがこの気まずい空間を満たしている。 

 自分の人生を通り抜けていくなら、いっそのこと……この方がいい。千春はすっと立ち上がった。

 そんな彼女の動きを、彼は目で静かに追った。純粋なその瞳を見つめながら、千春はパジャマのボタンに手をかけた。

「……だったら、私を抱いてよ」

「何言ってるんですか!」

 驚き、慌ててビクターくんは叫んだ。千春はそんな彼を見ることなく淡々と言葉をつづる。

「運命とか必然とか、そんなのは信じない。それを信じているあなたの言葉なんて信じない。だからいいじゃない。私を抱いて。それでお終わりにして」

「そんな……終わりになんて……」

 必死で千春を見つめて言葉を探すビクターくんに、千春は静かに告げた。

「それで今まで通り、通り過ぎた他人でいて」

 静かにそう告げると、千春はパジャマのボタンをはずした。前がはだけて、胸が露わになる。

 今まで座って呆然としていたビクターくんが立ち上がり、開いたパジャマの前を両手でしっかりと合わせ、前を閉じた。

「駄目です。こんなのは……駄目です」

 ビクターくんの手は、微かに震えていた。目を覗き込むと、そこには少々の怒りと、大きな哀しみが溢れていた。

「こんな事で、僕の気持ちは終わりになんてならない!」

 後悔と、寂しさがこみ上げてきて、千春はそんな彼の手を払いのけた。

「馬鹿! 意気地なし!」

 そのままベッドに潜り込み、壁を向いて布団を被った。もう何も考えたくない。

 まだテレビが騒いでいるが、千春にはもう何を言っているのか分からない。だけど、重い静けさよりましな気がする。

 しばらくしてから、ベッドの端にビクターくんが座るのを感じた。彼は元のような穏やかな口調で、千春に告げる。

「あなたが好きです。だけど、あなたは信じてくれないんですよね」

 千春は何も答えない。答える言葉がない。答えが返ってこないのを承知で、ビクターくんは続けた。

「僕を信じてくださいというのは簡単ですけど、きっとそれじゃ駄目なんでしょうね」

 しばらく黙った後、ビクターくんはふと小さく笑った。

「僕と賭をしませんか? 運命を賭けて」

 その呼びかけにも千春は答えなかった。答えなかったが、彼は全く気にしていないようだった。

「クリスマスまであと少しですよね。だからこうしましょう。もしもクリスマスの日、十二月二十五日のいつもの時間、いつもの交差点ですれ違った時、雪が降っていたら、あなたは一度だけ僕を信じてくれませんか? 僕と出会ったのが運命だって。もし降らなかったら、僕はもう二度とあなたに声をかけたりしません」

 あまりに静かなその賭への誘いは、舞い散る雪のようにふわりと千春の心に積もった。

 もしクリスマスに雪が降ったら……分の悪い賭だ。東京は随分長いことホワイトクリスマスになっていない。

 もしも……もしもそれで雪が降ったら……。それはどれだけの確率なのだろう?

――それは、本当の運命と呼べるのだろうか? 千春には分からない。

「僕は信じてますから」

 ビクターくんはそう言うと、ベットから降りて、テーブルの横に座った。

「……財布」

 千春はベットから顔も上げず、ボソッとそう呟く。

「何ですか?」

「財布そこにあるから千円持ってって。電車賃」

 それだけは言っておかねばならない。そうしないと帰れないのだから。

「……すいません。お借りします」

 律儀に答えたビクターくんに、千春はなるべく素っ気なく聞こえるようにそう告げる。

「いい。あげる」

 だがビクターくんは優しく答えた。

「お借りします」

 彼は雪が降ると信じているのだ。千春は自分の心の中の信じたい想いと、決して信じたくない気持ちに押しつぶされそうになりながら目を閉じた。

「お休みなさい」

 ビクターくんの優しい言葉が、そっと千春を包んだ。


 少しうとうとしてしまってから目を覚ますと、もうビクターくんはいなかった。どうやら本当に眠ってしまったらしく、外は明るい。

「いっちゃた……」

 ポツリと呟くと、千春はほんの数時間前までビクターくんがいたテーブルを見つめた。

「あ……」

 紙が一枚置いてある。千春の電話の近くに置いてあったメモ帳だ。

 紙には『お世話になりました。また二十五日にお会いしましょう』と書かれていた。

「馬鹿ね。雪なんて降りっこない……」

 千春はカレンダーに目を遣った。そして気が付く事実。

「……クリスマスって日曜日じゃない……会うわけない……」

 知らずに千春に日付を言ったのだろう。これでは雪が降ろうが何だろうが、運命なんてありようがない。だって会社が休みなのだから、千春はあの交差点に行かない……。

「馬鹿ね……本当に馬鹿なんだから……」

 千春は小さく呟いた。


 十二月二十五日、日曜日。

 千春は会社のある駅で電車を降りた。行かないでおこうと何度も思ったのだが、気になってしょうがなかったのだ。

 第一彼は、二十五日にいつものように交差点で会った時、雪が降っていたらといったのだ。

 二十五日は日曜日だから、いつものように会うわけがないのに、自信たっぷりにこの日を指定するなんて、間が抜けているにも程がある。

 千春は改札を出て、冷たい風に身をすくませた。電車と駅は暖かかったから余計身に染みる。

「何で来ちゃったかなぁ……」

 両手をこすり合わせながら、ポツリと呟いた。勝手に足が動いてここまで来てしまった自分が馬鹿らしい。

 空を見上げると、朝だというのにどんよりと曇り、重く雲がたれ込めている。雪が降るなんてこと、あるのだろうか?

 もし本当に雪が降ったら、どうしよう。自分はどうしたいのだろう。

 空を見上げ、ゆっくりと一歩一歩踏みしめながら道を歩く。今日はクリスマス。世間はこの一日に浮かれさざめいている。

 キリスト教徒でも何でもない人々にとっても、何故かこの日は心が浮かれる。何故だろう? まるでそれはたった一日限りの非日常。

 明日になればきっと、不思議なほどあっさりと人々は年末の慌ただしさに戻っていくのだろう。自分だってそうだ。今までずっとそうだった。

 全てが全て自分の上を通り過ぎていくだけ。今まですれ違った人々も……交差点ですれ違った人々もみんな。

 ふと名前も聞いてやらなかった、ビクターくんの言葉を思い出していた。

『交差点で毎日会うのは、偶然です』

――そうだね、偶然だね。私の会社がこの駅の先にあって、ビクターくんの家がこの先にあっただけ。

『確かに今までは偶然だったけど、雪の中に倒れてた僕を助けてくれたのがあなただったのは、きっと必然なんです』

――そうかな? 偶然君がウチの近所に営業に来てたってだけじゃない。それって偶然じゃない?

『もしもクリスマスの日、十二月二十五日のいつもの時間、いつもの交差点ですれ違った時、雪が降っていたら、あなたは一度だけ僕を信じてくれませんか? 僕と出会ったのが運命だって』

――馬鹿ね。運命だなんて、そんなの口説き文句にもならない。今そんな言葉で女性を落とせると思ってる奴なんて一人もいないんだから。

 なのに来てしまった。

「私、馬鹿だ……」

 自問自答し、自嘲してみたって、来てしまった時点で、自分の心にある気持ちは決まっている。もう一度、彼に……ビクターくんに会いたいのだ。理由なんてない。何の根拠もないけど、もう一度彼に会えば、何かが変わるかもしれない。

 考えて、考え抜いて悩んだ上に至った、それは千春の微かな祈りにも似た思いだった。

 全てを否定していた自分の、たったひとつの賭……。

 雪が降ったら、そしてクリスマスを休日だとも知らずにうっかり指定してしまった彼が本当にやって来たら、今度はビクターくんを信じてみようと思うのだ。

――彼がいう、千春とビクターくんの運命を。

 いつもの時間の日曜日は、人が少ない。流石にこの時間から出掛ける人々は、少ないのかもしれない。

 不思議なくらい街は静かに感じた。まるでここに千春しかいないみたいに。

 ゆっくりと空を見ながら歩いていく千春の目に、交差点が見えてきた。携帯を取りだして時間を確認する。

 いつも通りの時間。

 再び空を見上げると、相変わらずの曇り空。

 雪は……降っていない……。

 ため息を付くと、千春は頭を振った。肩の力が一気に抜ける。今まで期待と諦めで落ち着かなかった気持ちが、ゆっくり諦めへと向かっていく。

 交差点の向こう側を見る気は起きなかった。ビクターくんは、賭けに負けたのだ。運命とやらを賭けた勝負に。

 やはり、運命なんてない。雪は降らないし、千春は一人だ。きっと、ここ数日の気持ちを忘れて、また日常へと帰っていくのだ。

 交差点が青に変わって、軽快な盲人信号の音が流れ出す。別に渡る必要もないのに、千春は無意識の横断歩道を渡り始めていた。

 このまま、しまっている商店街を通り抜け、どこかへ行きたかった。

 下を向きながらとぼとぼと歩く千春には、すれ違う人々の足しか見えない。この方が楽だ。もし、ビクターくんがやって来ても気付かずに通り過ぎることが出来る。

 交差点を渡り終えて大きく息をつくと、千春の目の前に、誰かが立っているのが分かった。安物の靴、すり切れたズボンにコート……。

 ゆっくりと顔を上げると、そこには笑みを浮かべたビクターくんの顔があった。人が良さそうで、頼りなげで……それでいて強い意志を持った顔。

「……じゃない」

「え?」

 千春がようやく絞り出した言葉を、不思議そうな顔でビクターくんが聞き返す。呑気なその声を聞いて、千春はキッと顔を上げ、コートの襟を掴んだ。 

「雪、降らなかったじゃない!」

「……落ち着いて」

「運命なんて、無いんだから!」

 何故だろう、涙が出そうだ。

「……ありますよ」

 千春の腕を優しく叩いて、静かで落ち着いた言葉でそう言うと、ビクターくんは空をゆっくりと見上げた。つられたように千春は空を見上げる。

……雪が、舞い始めていた。

「雪、降ったでしょう?」

「うそ……」

「ウソじゃない。見えるでしょ、雪」

 今にも泣き出しそうだった曇り空から、静かにひとひら、またひとひらと雪が舞い始めていた。信じられない偶然に、千春は呆然と立ちつくした。

 ビクターくんのコートからも手を放し、ただ空を見上げる。

「なんで?」

 言葉につまりながらそう呟いた千春に、ビクターくんは照れくさそうに微笑んだ。

「すいません。実は天気予報で分かっていたんです。寒気団が迫っていて二十五日の日曜日は朝から雪だって」

「え……?」

 ビクターくんは再び空を見上げた。

「だけど天気予報だって百パーセントじゃないから、賭だったんです。それに二十五日は日曜日だから、あなたは来ないかもしれないことも分かっていました。運命の賭は僕の中では五分五分でした」

 そう言うとビクターくんは、千春の方に向き直り微笑んだ。その笑みは今まで出会ったどんな笑みよりも優しかった。

「ずるいじゃない、私なんて本当に奇跡的な確率だと思ってたんだから」

 最後の方は涙声になってしまった。何でか分からないが涙が止まらない。

「泣いてるんですか?」  

 少々動揺しながらビクターくんはポケットの中をあさって、いつ洗濯したのかも分からないしわしわのハンカチを取りだした。

「これ、よければ……」

 その差し出された手を、千春はぎゅっと握り替えした。

「あの……?」

 戸惑うビクターくんを睨みながら、千春は涙声でいう。

「こういう時はどうするか、分からないの?」

 言い終わるより前に、千春はちょっとだけ身長の高いビクターくんの腕の中にいた。彼のコートに顔を埋めながら、千春は小さく呟く。

「運命なんでしょ? だったら分かってるよね」

「分かってます。僕はあなたと一緒にいます」

 優しくて実直な声に千春は頷き、ようやく顔を上げた。ビクターくんは幸せそうに千春を見つめる。

「うん。ビクターくん合格」

 千春の言葉に、ビクターくんはまた蓄音機の犬のように首を傾げて困ったように笑った。

「こんな時にビクターくんじゃ、格好つかないですね」

「そうね」

 二人は見つめ合い、微笑んだ。 

「僕は村越芳洋(よしひろ)といいます」

「私は荒木千春」

 雪は優しくひらり、ひらりと舞い降り続け、やがて街を白く彩っていく。 

 クリスマスの奇跡をそっと包みこみながら……。

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雪降る街で逢いましょう さかもと希夢 @nonkiya-honpo

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