「泉ののろい」その17

 もう何も見えない代わりに何ものにも頼らない、すがらない。


 裏切らない、裏切られない。もう、十分だ。十分だと思える。


 見えない? 見なくて良い。亡者さえ光さす道を求めるのに彼女にはなにもなかった。絶望すら『見え』なかった。



 立ち上がる術さえ失って初めて気付くのだ。自分は何も『見て』はいなかったのだと。


 彼女はおもむろに立ち上がり、神がかった仕草で前を示した。小川から危険物と思われた黒いぶよぶよとした物体がうねり収束し宙へと舞い上がった。


 ぶつぶつと声が聞こえる。


『お兄ちゃんはずるいよ。お母さんの欠片(かけら)ももらって。お母さんは風になってしまった。俺にはなにもない。ずるいよ。ずるいずるい』


『なら、お母さんの欠片(かけら)、やってもいい。その代わり約束だ。二度とそれを言うな』


『お母さんの欠片(かけら)……わあい、わあい!』


『その欠片(かけら)がもたらすものは、予想以上に重く苦しいものだろう。だが、私は常におまえの上を行く。忘れるな』


『やっぱりお兄ちゃんはずるいよ。俺にその反対ができないと思ってる。そんなのって、うん。やっぱり、ずるいや!』


『それを言うなと言ったぞ』


『それってなんだよ。わっかんないや』


『………………』


『絶交だ! お兄ちゃんは、お兄ちゃんの癖に俺のこと、そんな風に睨んでばかりいる!』


『恩知らずめ、二度と私の前に現れるな!』


 アレキサンドラはいつも厳しい。



「失ったものの方が大きかったんじゃないか? 竜と蛇の子供としては、お守りとひきかえに、同じ境遇に育った相手を失うとは」



「アレキサンドラ、意識が……」



 アレキサンドラは王子を制した。その目はまるで何も見えてはいないようだった。



「闇へと帰るか?」


 それは彼女の口から発せられた初めての呪いの言葉だった。



「思い出してみろ、おまえの血液に竜の装甲かけらの毒が混じり、おまえはもがき苦しんだ。そのときでさえ兄を恨んだ」


 恨んで恨んで恨み抜いて、




 ……そうして、毒を帯びる者となった。




「だが兄を見てみろ。そんなものには侵されない。知っているからだ。おまえの不幸と苦しみを。愛する者すら腕に抱けない運命を」



「おのれ、嘲弄するか……人間ごときが」



「ごとき? それをいうなら小蛇ごときがなにをいう。まだ兄の想いに気付かないか」



 大蛇の目は暗く、意識を闇に奪われている。彼は虚ろになりながらも舌で気配を察知していた。今アレキサンドラの前に瞬間移動し、大きく口を開いて威嚇してくる。


 だが、彼女は理解していた。

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