ノット・リメンバー

楠木尚

第1話ノット・リメンバー

「もちろん」と僕は、彼女の付き合って欲しいという告白の言葉にそう返事をした。すると彼女は、「これから先、私以外の女にそういわれても、『もちろん』ていう返事はしないでね」といった。

 この時僕たちはまだ十六歳で、これからの将来とか、未来とかについては漠然としか考えられなかった。この年齢でずっと先の事まで考えろ、なんていう方が難しい。これから僕たち二人はどうなっていくのだろう。もしかしたら、すぐに別れがやってくるのかもしれないし、死ぬまで一緒にいるのかもしれない。

 その答えを知る事になるのは、それから数年後の事だった。



「あの日」から数年、僕は幸せという感覚を覚える事はなかった。幸せという概念が僕の人生から抜け落ちたといってもいい。幸せとは何か? そう考える事もなくなっていた。人は皆幸せを糧に生きている。辛い事があっても些細な「いい事」に慰められている。幸せなしには生きてはいけない。では僕は、死んでいるのだろうか? もしくは生きながら死んでいるという矛盾を抱え、生と死の境に存在しているのだろうか? それは、もしかしたら生きる事よりも、死ぬ事よりも、辛い事かもしれない。


 大学を卒業し、社会人になってから数年、僕は職場と家のアパートをただただ往復するだけの毎日を送っていた。家に帰り、スーツを脱ぎハンガーに掛ける。部屋は必要最低限の家具やものしか置いていないから、一人暮らしの男の部屋にしては整っている方だと思う。ただ、そこには至る所に悲しみが散乱していた。部屋にあるもの全てが悲しみから構成されている。悲しみで出来たベッド、悲しみで出来た机、悲しみで出来た椅子、悲しみで出来たテーブル。キッチンにある調理器具や食器までもが悲しみで組み立てられているような気がした。

 僕は着替え終えると、椅子に座り本を読む。それが僕の習慣だ。別に昔からの習慣ではなかった。昔はテレビでドラマを見たり、ニュースを見たりしていた。でも、いつからかテレビを見なくなり、本を読むようになった。今では、本が僕をこの世界に繋ぎ止めている。

 本を読むようになったのは簡単にいえば現実からの逃避だ。テレビを見ると現実と繋がってしまうようで怖かった。その点、本は自分だけの世界に連れて行ってくれる。ある時は見晴らしのいい草原、ある時は知らない外国の土地、ある時は未来の世界。本の数だけ世界があり、僕はその世界に浸る。それほどまでに現実は悲しみで溢れていた。そして本を読み終わった僕は「彼女」の事を思い出す。彼女の容姿、匂い、言葉、思い出。彼女の事を思い出さない日は一日たりともなかった。

 ある日、いつものように仕事を終え、家に向かって歩いていると、見知らぬ店の前に立っていた。どうやって辿りつたのかも分からない。普段通りの道を歩いてきたはずなんだけれども。

 そのままいつもの道に戻り、家へ帰ろうとしたが、なぜかその店が気になってしかたがない。外観は古ぼけた個人商店で、何の店かは分からなかった。看板が出ている訳でもないし、店先に商品が並んでいる訳でもない。

 店の中に入るのに少し躊躇したが、結局僕は店の扉を開けて中に入っていった。店の中は薄暗く、空気がどんよりとしていて黴臭かった。ショーケースや棚がところ狭しと置かれていたが、商品のようなものはなに一つとしてなく不気味な雰囲気だった。なんの店なのだろう。もしかしたらもう営業はしていない店なのかもしれない。もしそうだとしたら迷惑だろう。

 しかし、店の奥の方に人の気配を感じた。その方向に向かってみると、レジが置かれたカウンターがあり、よく見ると老人が座っていた。この店の店主だろうか?

 僕は恐る恐る訊ねる。

「この店はなんの店なんですか?」

 店主と思われる老人は俯いていた顔を上げ、こちらを見た。濁った目が合った。

 老人は一拍の間は空け、こういった。

「思い出と幸せの店だよ」

 それを訊いて、きっとこの老人の思い出と幸せが詰まった店なんだな、と解釈した。しかし、老人はこう続けた。

「幸せだった思い出を俺が買い取り、幸せに変えるんだ。分かるか?」

「正直、なにをいっているのか分かりません」

 呆けた老人の戯言だろうか、それとも人をからかうのが趣味なのか。どちらにせよ、老人のいっている事を信じる事は出来なかった。

「まあ、そうだろうな。初めてこの店に来るやつは皆同じことをいう」老人は話を続ける。「例えば、お前さんの幸せだった思い出を俺に売ったとする。すると、それを今の幸せに変えることができるんだ。もっと具体的に話すと、思い出を売ると自販機で当たりが出たり、宝くじが当たったりするのさ。売った思い出が幸せであればあるほど、大きな幸せを得る事が出来る。理解できたか?」

「理解は出来ました。ただ信じる事は出来ませんね」

「そうか、なら気が向いたらまた来るといい。まあ、お前さんの顔を見る限り、またすぐに来るだろうがな」

 僕は、馬鹿馬鹿しい話だと思って店を出た。

 数日後、また例の店の前に来ていた。別に気が向いた訳じゃない。足が勝手に向いたのだ。

 店の中に入り、老人に話しかける。老人はにやついた顔でこういった。

「だからすぐに来るっていっただろう?」

 本心では幸せにひどく飢えていたのかもしれない。僕も結局は幸せがなくては生きていけないのだろうか。それに、幸せというものを思い出させて欲しかったのかもしれない。

「いいか、思い出を売れるのは三回までだ。そして大事な事だが、一度売った思い出は存在しなかったことになる。そして当然お前の『記憶からもなくなる』まあ、実際に売ってみればすぐに分かるさ。それと、幸せだった思い出ほど得られる対価をでかくなる。よく覚えておけ」

 存在しなかったことになる? 記憶からなくなる? 少し不安だが、ここまで来て売らずに帰ろうとは思わなかった。

 僕は売る思い出を思い出す。真っ先に思い出したのは小学生の頃友達みんなでよく遊んで幸せだったという漠然とした記憶だった。

「売るものは決まったか?」

 老人は、急かすような口調でそういった。

「はい、決まりました」

「よし、じゃあ、俺がいいというまで目を瞑れ」

 目を閉じる。それから老人の手が僕の頭に触れる。なにかが抜き取られたような感じがした。

「よし、もういいぞ。明日からなにかしら幸せが訪れるだろうよ。楽しみにしてな」


 あれから数日、仕事帰りにコンビニへ寄った。ビールと適当なつまみを買うと、くじを引かされた。千円以上買い物すれば、くじが引けるキャンペーンをやっているらしい。くじを引き、店員に渡す。するとどうやら一等の一万円分の商品券が当たった。まさか、これが思い出を売った対価なのだろうか。僕の思い出がたったの一万円とは笑える。僕はいったいどんな思い出を売ったのだろう。なにを売ったのかは思い出せなかった。でも大した思い出ではなかったんじゃないだろうか。なにせ一万円程度の価値の思い出なのだから。

 家に帰り携帯を操作していると電話帳に登録されていた件数が数件消えている事に気づいた。老人の言葉を思い出す。「売った思い出は存在しなかった事になる」と。どうやら僕は数人の友人か知人をなくしたらしい。だが、実際に思い出を売っていい事が起きた。幸せとまでは思えなかったが。老人のいっていた事は本当だったらしい。


 僕はまた仕事の帰り道に例の店に寄った。店は相変わらずひっそりと佇んでいて、中の空気はまるで時間の流れが止まっているようだった。

 老人は僕の顔を見るなり、幸せな事はあったか? と訊いてきた。それに対し、幸せという程ではなかったがいい事はあったと答えた。

「それで、今度もまた思い出を売りにきたのか?」と僕に訊ねてくる。

「今回は僕の人生の中でもだいぶ幸せだった思い出を売ろうと思っています」といった。

 それは僕がまだ大学生の頃の話だ。その頃僕には、親友と呼べる存在がいて、よく二人で遊び回ったものだった。よく酒を飲み合い、世の中のくだらなさについて笑いとばした。それ以降、僕に親友や友人といった人物は現れなかった。彼とは大学を卒業してから疎遠になり今では連絡もとっていない。だが、大学時代の幸せで楽しかった思い出は今でも鮮明に覚えている。だからころ、高く売れるのではないかと思ったのだ。

 老人は前回と同じく、僕の頭に手を触れた。またなにかが抜き取られていくような感覚だった。

 家に帰り、また携帯の電話帳を見てみると一件減っていた。僕はまた友人か知人を失った。


 次の日、いつものように仕事をしていると、上司から呼び出しがあった。出世の話だった。仕事に熱心な方ではなかったが、素直に嬉しかった。これが今回の思い出を売った対価なのだろう。

 仕事を終え、家でいつものように本を読んでから、考え事をした。次はどんな思い出を売ろうか。幸せだったという気持ちが強ければ強いほど、得られる対価は大きい。今までの人生で一番幸せだった事、それは考えるまでもない。「彼女」との思い出だ。


 彼女とは高校一年の時に出会った。快活で明るい子だった。彼女とは知り合ったばかりの頃から相性がよかった。音楽の趣味や他の趣味がぴたりと当てはまり、まるでずっと昔から一緒に過ごしてきたんじゃないかという錯覚さえ覚えた。知り合ってからはいつも二人でいるようになった。そして、好きだと告白されたのだ。僕も彼女が好きだったから「もちろん」と答えた。すると彼女は、「これから先、私以外の女にそういわれても、『もちろん』ていう返事はしないでね」とはにかみながらいった。僕はその瞬間を永遠に忘れないだろう。

 それからの僕たちは常に身を寄せあい、支えあいながら過ごした。高校を卒業してからも、同じ大学に進学した。彼女の方が成績がよかったから、同じ大学に入る為に猛勉強した。初めての恋だった。初めて結婚したいと思った。死ぬまで一緒にいたいと思った。願った。祈った。

 大学では同じサークルに入ったり、同じ講義を選んだりして、同じ時間を過ごし楽しんだ。大学を卒業してからはそれぞれの会社に就職した。仕事はお互い忙しかったが、会える時間を必ず作った。

 だが「あの日」がやってきた。

 その日、彼女は待ち合わせに来なかった。何度携帯に連絡しても繋がらない。仕事が長引いているのだろうか? だが、それからしばらく待っても彼女が来る事はなかった。次に彼女と会ったのは病院の遺体安置所だった。彼女は事故に合い、もう二度と僕に笑いかけてくれる事はなかった。その日から僕は幸せという感覚を失ったのだ。


 僕は数日後、例の店に寄った。気づいたのだ。幸せの感覚を失ったのでもなく、幸せという概念が抜け落ちた訳でもなく、ただ彼女の死で麻痺していたのだ。本当は心から幸せを渇望していたのだ。

 店に入り、老人に話しかける。

「今回は一番最高の思い出を売りにきました」

 それを聞いた老人はこういった。

「今回で三度目、売れるのはこれが最後だ。その思い出は本当に売っちまっていいものなのか?」

 老人の問いにこう答えた。

「はい」と。


 次の日、僕はとある女性と知り合った。少し話しただけで、意気投合した。それから連絡先を交換し、頻繁に会うようになっていった。

 そしてある日、その女性から、付き合って欲しいと告白された。

 僕は「もちろん」と答えた。

 その時、なぜだか胸が痛み、涙が止まらなかった。

 出来過ぎた出会い、出来過ぎた結末。

 きっと僕は一番大切な思い出を売ったのだろう。

 なにかとても大切な事を忘れているような気がした。


 幸せってなんだろう? 僕は今幸せなのだろうか? 


 胸の痛みと涙の理由は思い出せなかった。

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ノット・リメンバー 楠木尚 @kusunoki_nano

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