解説「TPP討論」

 さて、今回の解説は『TPP』について。


 TPPとはTrans-Pacific Strategic Economic Partnership Agreementの略で、日本では環太平洋経済連携協定と呼称されます。


 TPPの基本概念は参加国の企業が、国家による関税や規制を受けることなく自由に貿易を行えるようにしようというものです。かなり複雑な取り決めがあるので、今回はできるだけ『関税』に焦点を絞って説明していきたいと思います。


 関税とは国内産業の保護を目的として、輸入貨物に対して課される税金のことです。例えば『お米』は、日本の歴史においても、日本人の食生活においてもとても重要な農産品です。このお米を作る為には当然農家の存在が不可欠ですが、仮に外国から安いお米が沢山輸入されるようになった場合、広大な土地を利用して作る大規模農業や安い労働力で作られる外国産米に、価格の面で日本米はとても対抗できません。


 安いお米が沢山日本市場に出回るようになるとどうなるでしょうか? 恐らく割高な日本のお米は、売れ難くなるだろうと予想されています。お米が売れないと日本の農家は経営困難に陥り、徐々にお米を作るのをやめてしまいます。


 お米を作る農家が減っていくと、食料自給率(自分達の食料を自分達で賄っている割合)が減ってしまう訳です。食料自給率が減るとどんなリスクが発生するでしょうか? それは、海外から輸入していた農産品が何かしらの原因(戦争や輸送トラブルや不作など)によって突然ストップしてしまった時に、日本全体が『食糧難』に陥ってしまうのです。


 だから、いざという時に備えて、日本国内の農業を国を挙げて保護しなくてならないのです。その為に用いられる手段の一つが『関税』という訳なんですね。


 農産品の関税を下げるだけなら、日本はTPPに参加しようと思わなかったでしょう。ですがTPPには『全ての関税』を撤廃するという目標がありました。全ての関税ということは、日本が海外に売っている『自動車』なども対象となります。


 日本国内で最も株式時価総額(現在の株価に発行済株式数を掛けたもの)が大きいのはトヨタ自動車です。トヨタ自動車は日本を代表する企業であり、日本を代表する輸出品は主に自動車関連品だと言われています。


 当然この自動車も、各国から見れば関税の対象となっています。だけど自動車への関税が撤廃されれば、ただでさえ強い日本の自動車が更に強く、ただでさえ沢山利益を上げている企業が更に潤うことになります。


 このように、食料自給率をとるべきか? 貿易による利益増加をとるべきか? という点だけを見ても、国内の意見を大きく二分する討論材料となりました。自動車や半導体などの製造業は大よそTPPに賛成しており、農業関連の団体はTPPに反対する傾向がありますね。




 さて、簡単に説明しましたが、ここまでが『第八章 屋上の討論会』の『世界を変えるには』の中で剋近と白川が議論する上で土台となっていた最低限の知識です。


 剋近はまず最初に、『食料自給率』を例に挙げて、TPPを締結すると日本の国民生活を支える『食』が崩壊すると主張しました。


 しかし白川は、その食料自給率の内訳についてまで言及します。実は食料自給率を数字化する時に参考にされるデータは2種類あるのです。それは『カロリー』をベースにしたものと、『生産額』をベースにしたものです。


 カロリーベースとは、食料の重量を供給熱量(カロリー)に換算したうえで、各品目を足し上げて算出したものです。それに対して価格ベースとは、食料の重量を金額に換算したうえで、各品目を足し上げて算出したものです。


 白川が主張した通り、カロリーベースだと食料自給率は39%ですが、価格(生産額)ベースだと66%となり、結果に大きな差が出てくるという訳です。


(因みに白川はこのデータを知りながらも、カロリーベースだと4割弱、価格ベースだと7割弱という風に表現して、自分の主張をより説得力ある形に見せようとしています。彼なりの討論テクニックですね。実は作中にこういう小ネタ多いです)


 白川はデータが2種類あることを例に挙げて、小麦などの価格が安くてカロリーが高い食料品の自給率が低く、反対に価格が高い食料品の殆どは日本国内で賄われていると主張しました。


 価格の高い食料品が日本国内で生産されているということは、関税が撤廃された場合、安い穀物が更に沢山入ってくると同時に、『高い食料品を積極的に輸出することができる』ようになるのです。


 つまり白川は、大規模農業が必要な高カロリー食品はどんどん輸入して、価格の高い農産品はどんどん輸出すればいいじゃないか。その方が日本の農業体系にあっていると主張したのです。


 これに対して、剋近は言い返すことが出来ませんでした。

 しかし、まだ負ける訳にはいかない。

 なので同じTPPという議題の範囲内で話を切り替えます。


 そうして、議題は『製造業』へ移行します。


 剋近は状況改善が期待されている製造業においても、TPPは効果がないと主張します。その理由は『既に、製造業各社の多くが国外で生産しているから』というものでした。


 先述の通り、日本から外国へ輸出する場合には関税が発生してしまいます。しかし、売ろうと思っている国に工場を建てて、現地生産すれば関税が発生しません(材料調達を除く)。関税に加え新興国の人件費が安いこともあり、既に多くの製造業が日本国外に工場を建てて生産を始めていたのです。この状況で、TPPで関税を撤廃しても企業側のメリットは少ないと剋近は主張しました。


 剋近が勝利を確信したとおり、TVでもこれについて反論できるTPP賛成派を見たことがありません。それほどこの件は、TPP賛成派にとっては痛いところなのです。


 しかし、白川は見る角度を変えて反論します。


  TPPは、日本企業が国外に工場を建てなければならない『現状を変える』ために使えると主張したのです。例えば


 日本→国外(関税10%) だった場合、TPPによって関税が撤廃されれば、

 日本→国外(関税0%) という風になります(TPP圏内は)。


 TPP圏内のどこで製造しても関税がかからないのならば、『メイドインジャパン』か『メイドインUSA』が強いブランド力を持ちます。白川は、関税がかからないのなら、日本で製造した方が製品の競争力(信頼度)は増すので、企業はこれ以上国外に工場を増やそうとしなくなるだろう、そして今後は、工場の国内回帰が起こるだろうと主張したのです。


 工場がある所でのみ雇用が生まれ、税収が発生します。国内に工場を戻さないと、日本の雇用も税収も確保できません。だから白川は目先の企業の利害だけでなく、総合的に見て『現状を変える』為には関税を撤廃する必要があると主張したのです。


 TPPによって製造業が得られる恩恵は少ないはずだ、という現状への意見に終始していた剋近は、確かに、だからといってこのままで良いはずがないと考えるようになり、白川に反論することが出来なくなってしまいます。


 時間制限制の討論であることと、農業分野に続いて製造分野でも圧倒されたこと、そして企業だけでなく税金など国政まで想定していた白川への畏怖から、剋近は閉口してしまいました。時間があれば剋近ならもう少し反論できたかもしれませんが、ディベート経験は白川の方が圧倒的に高かったという訳ですね。


 作中のTPP討論部分の解説は以上となります。





 おまけとして、少し内容のレベルが高くなりますが、実はTPPに関してはもっと語るべき部分が多くあります。


 TPP参加国を一つの経済圏として見た場合、TPPに参加している国は参加していない国に今まで通りの内容で輸出できますが、TPPに参加していない国が参加国に輸出する場合は、価格競争でかなり不利になってしまいます。


 例えば、簡単に表すと(矢印は輸出という意味)


 参加国→非参加国(関税10%)

 非参加国→参加国(関税10%)

 参加国→参加国(関税0%)


 という風になり、TPP参加国に輸出する場合、非参加国はTPP圏内の国と比較して、価格競争で圧倒的不利になるのです。TPP参加国は同じ商品ならTPP圏内から買った方が安いと考えますが、TPPに参加していない国は恩恵が得られないばかりがどんどん不利になります。


 国家視点でTPPを見ても、どうせお金を払うなら価値観を共有するTPP圏内の国に払った方がいい。もし、価値観を共有しない敵国にお金を払っても、それが軍事開発や軍事拡張に使われるかもしれない。今後、粗悪な材料や悪意のあるパーツを売りつけてくるかもしれない。こう考えることもできます。


 このようにTPPは、貿易や企業の利益だけでなく『世界戦略』のレベルでも重要な意味を持っていたのです。


 だから現日本政府は、アメリカ政府からTPPを拒絶されても、二国間交渉では関税の話にしかならない、TPPで共同経済圏を構築すべきだと主張しているんですね。ここまで考えるとニュースが少し面白くなります。


 もし作中に国家戦略に関する討論まで盛り込むと、白川なら応じることができると思いますが、今の剋近の知識やディベート能力を大きく超えてしまうので入れませんでした。



 TPPはかなり複雑で色んな思惑が入り混じっているので、それぞれの取り決めにどんな意図があるのかなどを想像するのも、なかなか面白いものですよ。

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