エピローグ

エピローグ

 昼休み。

 私はいつものように、運営委員会室へ向かっている。


 A組の教室を出て150メートルはある廊下を歩いていると、C組の教室の入口付近で子依ちゃんが見知らぬ男子生徒と話をしていた。どんな話をしているのかと思って見てみると、なにやら子依ちゃんの腕には、会計部長と書かれた緑色の腕章がつけられている。


 子依ちゃんが腕章をつけているのは初めて見た。

 男子の方も、胸に1年生学級委員長の印である緑のリボンをつけている。

 どうやらなにかの打ち合わせ中らしい。


 男子の言葉を聞きながら、子依ちゃんは手元のノートに真剣な表情で書き込み、時にそれを相手に見せて会話を続けている。声をかけるのも悪い気がしたので、私はそのまま近くを通り過ぎることにした。


 いつもは不真面目な子供にしか見えない子依ちゃんが真面目に働く様子を見て、自分の知らないところで色んな人がそれぞれの努力をしていて、それによって社会が当たり前のように機能しているのだな、なんて、今更なことを実感する。


 白川先輩との屋上討論から3日が経った。


 あの日を境に、また私を取り巻く環境に変化が起こっている。誰がしゃべったのか知らないが、私と弥生子さんが白川先輩と討論したことは噂になり、運営委員会室には見知らぬ生徒が私の顔を見に来たり、報道部の腕章をつけた女子生徒が私や弥生子さんを取材に来たりもした。


 しかし、そんなことは些細な変化だ。

 何よりも、もっと重大な変化が他にあったからだ。


 それは放課後、私と弥生子さんが運営委員会室に居残りするのが日課になったことである。彼女はしっかり私に勉強を教えてくれるし、運営委員会の活動や人事についても相談してくれるようになった。これは実に実に、大きな大きな変化なのだ。


 弥生子さんと話をするようになって分かったのだが、白川先輩が仕掛けてきたあの『源十郎式討論』という討論方法。実は終戦間もないこの学校にて、当時3年生だった女市源十郎が、1つ下の後輩である河芝剋則、つまり私の祖父と決着をつけるために生み出した討論方法だったらしい。


 結末を言ってしまえば、2人の論戦には決着がつかず、お互いの勝ち負けがぴったりと並んだ状態で、女市源十郎が卒業を迎えてしまったそうだ。女市幻十郎は海外の大学を卒業した後に政治の道へ入り、後輩の河芝剋則は東野大学を出て日銀へ就職したため、お互いが再び討論することはなかったという。


 それが半世紀以上も後になって、この学校の屋上で、同じ討論方法で、女市幻十郎と河芝剋則の孫が共闘したというのは、なんともドラマチックな話ではなかろうか。


 因みに弥生子さんは、新入生研修の時に河芝と呼ばれた私がゲスト達を相手に討論を始めた辺りで、もしかして河芝剋則の親類だろうか? と早々に考えていたらしい。そう、初めて弥生子さんと視線を交わした、あの時である。


 私の顔を見て弥生子さんが確信を持った直後に、特別視していた白川先輩までもが討論に参加してしまったので、弥生子さんにとってあの新入生研修は大層衝撃的だったそうだ。




 運営委員会室の前まで来た私は、いつものようにドアを開ける。


 部屋の中にはただ1人、弥生子さんだけが座っていた。

 ドアを閉めると、弥生子さんは顔を上げて私を見つめながら頷いた。

 私も弥生子さんを見つめながら頷く。


「みんな居ないの?」


 私がそう言うと、弥生子さんは窓から差し込む太陽光を背に受けながら答えた。


「ええ、子依も一美も外で仕事。岸先輩は子依が戻ってくるまで美術室にいるって」


「子依ちゃんはさっき見かけたな。サダは相変わらず来ないの? ここでは全然見かけないんだけど」


「調査依頼を受け取る時とか、調査報告をする時には、昼休みになると1番に来ているわ。教室で打ち合わせする時もあるし、もうすでに3回ほど調査依頼をこなしてもらっているのよ」


「ぐっ……相変わらずちゃっかり出来る奴だな」


 私がそう言うと。


「そうね」


 と言って、弥生子さんはなんとも美しい微笑を浮かべて書類作業に戻った。

 何気ない仕草なのだが、光源のせいもあってか、それこそこの世のものとは思えないほどに彼女は美しい。


 私は自分の席について登校中にコンビニで買ってきたパンをかじりながら、弥生子さんの顔を密かに見つめ――――そして考える。


 彼女の名前は女市弥生子。

 私にとって太陽のような存在である。


 彼女がいなければ運営委員会に入ることもなかっただろうし、白川先輩と討論することもなかったかもしれない。彼女がいなければ、じいちゃんと女市源十郎についての話を聞くことも、観堺や子依ちゃんと知り合うこともなかっただろう。


 そんな『もしも』を想像すると、恐ろしくてしょうがない。


 本当に。

 全ては弥生子さんのおかげなのだ。

 こんな私とは比べ物にならないほどに、ずっと眩しく、常に輝いている――。


 だけど最近、彼女のことを特別だと思うからこそ、自分のことを少しだけ信じられる気もするのだ。


 だってこの弥生子さんが、皆が完璧と認める女市弥生子が、誰よりも最初に、そして誰よりも自分に近しい席を用意して運営委員会に迎え入れてくれたのが、私なのだから。


 そんな私のことを否定してしまえば、私を信じた弥生子さんまで否定することになってしまうだろ? それじゃ駄目なのだ。きっと弥生子さんも、そんな私を望んではいないはずだ。


 そう思い、曖昧なまま分かった気になろうとしていた私の頭に、また新しい疑問がふと過ぎった。


(では、私自身はこれからどうしたいのだろうか?)


 そう、弥生子さんに望まれた私自身は、これから何を望むのだろうか。

 私は顔を上げて、ぼんやりと考える。


 暫く考えた後で、その答えを求めるように仕事に励む弥生子さんへ視線を送っていると、ふと彼女の後ろ、窓の向こう側に並ぶ桜の木々が気になった。


 中庭に見える桜の木々は、とうに花びらを散らして緑葉をつけている。誰もが見向きもしなくなった木々を見て、私は入学式直前、弥生子さんを見つける直前にこぼした自分の言葉を思い出す。



「咲き始めの桜というのは、なんだかもどかしくないか?」



 入学式に見た咲き始めの桜も、誰もが見向きもしなくなった緑葉を揺らすあの木も、同じ桜の木である。どちらも、共通して太陽に照らされ、風に揺れている。


(桜の木に例えると、私は一体どれくらいの時期にあるのだろう……)


 目に映る桜の木々は、ただただ太陽を信じて枝葉を広げている。

 雨が降っても降らなくても、太陽が照っても照らなくても、ただただ高く幹を伸ばし、根を張り、空を仰ぎ続けるのだ。咲き誇るほんの一瞬の季節に向かって。枯れ朽ちるその時まで、それを繰り返し続けている。


 きっと、他に選択肢はないのだ。

 この星に生きる限り、生命を営む限り。


 太陽に照らされた桜の木々から室内に視線を戻すと、私は再び自分のことを思う。


(私もあの木々のように、ずっと届かぬ太陽を求めるのだろうか?)


 ほんの一瞬、私は言葉と考えることを忘れてしまった。

 がしかし、すぐに口元を緩めて薄ら笑いを浮かべる。


 1つだけ。

 たった1つだけ。

 弥生子さんのおかげじゃなく、自分自身の行動によって道を切り開いた時のことを思い出したからだ。私はあの時、会議室で上げた自分自身の右手を見つめた。


(変えられる)


 静かに、しかし力強く私は確信する。


(きっと自分の意思で……変えられる……)


 まるで天に誓うように、太陽に届くようにと、私はその右手を高く掲げた。


(そしていつかは――)


 弥生子さんは右手を上げて天井をジッと見つめる私に気付き、不思議そうな表情でその黒点を向ける。


「どうしたの剋近さん?」


 私は弥生子さんの声を聞き、意を決すると右手を下ろす。

 そして、しっかりと床を踏みしめ立ち上がった。


「弥生子さん――――ちょっといいかな?」


 私の呼びかけに、少し間を置いてから弥生子さんは返事をする。


「……ええ。どうしたの?」


 私は弥生子さんの傍へと、呼ばれた訳ではなく、自分の意思でしっかりと歩み寄る。私の表情から深刻ななにかを察したのか、彼女も陽に照らされた黒髪をサラリと揺らしながら委員長席から立ち上がった。


 向かい合う2人を、優しくひだまりが包み込む。


 きっと彼女は、色んな可能性を想定しているのだろう。

 とても心配そうな表情をしている。

 私は覚悟を決め、真っ直ぐに目線を合わせながら、口を開く。


「弥生子さん」


「……はい」


「いつか、私が今よりもずっと成長して。そう、いつか私が、白川先輩を乗り越えることが出来たなら――」


 私は緊張から息を呑む。

 それに感応したように、弥生子さんも息を呑む。


「――きみに、伝えたいことがあるんだ」


 私の言葉を聞いた彼女の目が大きく開く。そして彼女は視線を下ろし、その言葉の意味を吟味しているようであった。


 頭のいい弥生子さんのことだ。

 当然、私が本当に言いたいことも想定しているのだろう。


 暫く考えた後、少しだけ切なそうに、そして寂しそうに、弥生子さんは笑顔を浮かべた。その複雑な笑顔が何を意味するのか、今の私にはまだ分からない。浮かんでは消える、彼女の一挙一動に私の心は揺さぶられ、とてもとても胸が苦しくなる。


「…………」


 私は静かに、そして大きく息を吸い、弥生子さんの黒くて完璧な瞳の奥を見つめながら、自分自身の言葉にありったけの想いを乗せた。


「だからその時まで、その眩しい表情で、その深く澄んだ黒い瞳で……」


 なんとも洒落臭い言い回しか。

 だが、これが今の私にとって、精一杯の言葉。

 素直な思い。


「……見守っていて…………ください」


 敬語で締められる頼りない台詞。

 悔しいが、これが等身大の私である。


 私の言葉を聞いた弥生子さんは、定まらなかった視点を徐々に収束させていき、私の目を真っ直ぐに見つめ返してきた。


 1つのひだまりの中で、静かに2人は見つめ合う。

 たおやかな仕草で黒髪をかきあげた後で、彼女は完璧な目元をほんのりと歪めた。

 そして。

 桜のつぼみのような唇が、静かに花開く。


「ええ、待っているわ」


 ほんの少しだけ、太陽に手が届きそうな気がした。










                              第一部 完

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