第九章 エコノミックアニマル
えこのみっくあにまるとは?
運営委員会室へ戻った私達は、子依ちゃんや観堺になにがあったのかを説明する。
2人は大層驚き、色々と詳しく話を聞きたいようであったが、弥生子さんが途中で話を切り上げて解散の号令を出した。それから子依ちゃんが帰宅し、次に観堺が部活へと向かった。よって今は、私と弥生子さんが同じ部屋に2人きりな訳だ。ほんの少し前なら、冷静ではいられないシチュエーションである。
しかし今日の私は、この環境を意識して味わう余裕もないほどに焦っていた。
「何? 剋近さん勉強しているの?」
「ん、ああ。今日は本当に参ったからね……」
「参った?」
「白川先輩だよ。まさかあそこまで差があるとは思わなかった」
「差が分かるの?」
「分からないくらい差があることは分かったよ」
白川先輩の実力は想像を超えていた。
だが、白川先輩という別格の存在と自分を比較するのではなく、等身大の自分自身を見つめれば、今の自分に足りないものくらいは分かる。とりあえず私は、この学校で恥をかかない程度の基礎学力を身につける必要がある。そうしなければ、私の経済に関する発言を誰も『信用』しないだろう。
それに、副委員長の成績があまりに悪ければ、運営委員会は頭が悪い連中の集まりだなんて噂も立つかもしれない。そんな状況は、想像するだけで死にたくなる。
「――ちょっと、ノートの取り方おかしくない?」
突然間近に聞こえた弥生子さんの声に私は驚く。
顔が近い、というか真横だ。長い髪がかからないように手で抑えながら、弥生子さんが私のノートを覗き込んでいた。
(うっ……高級そうなシャンプーの香りがする)
私は幸福感からなにもかも忘れて溶け落ちてしまいそうになった。
いかんいかん。
「え、えっと……どこが?」
「どうして年号とか、具体的な数字を書かないの? あと難しい漢字をひらがなにしてる」
「どうしてって、年号なんて役に立たないじゃないか……」
「え、なにそれ……?」
私の返事を聞くと、弥生子さんは私のノートを取り上げた。
「これって……。ずっとこんな勉強方法でやってたの? よくこの学校に入学出来たわね」
「まぁ……かなりギリギリだったみたいだけど……」
「意外だわ……こんな勉強をする人があんなことを喋るなんて。ちょっと待っててね」
弥生子さんは自分のカバンからノートを取り出すと、子依ちゃんの席に座った。
「例えば歴史だとこうなるわ」
そう言って彼女が見せてくれたノートは、教科書を見るよりもずっと分かりやすかった。
「凄い、これを教科書にした方が絶対いいんじゃないかい?」
「ノートは要点を、なにより自分にとって分かりやすくまとめて書くの。違い分かる?」
「弥生子さんのノートの方が沢山書かれている……」
「そこじゃないの、剋近さんは自分が得たい情報だけをノートに書いているのよ」
「それじゃ駄目なのかい?」
「何言ってるの? ダメよ。剋近さんが得たい情報と、テストで点数を取れる情報は違うのよ」
「な……なるほど、確かに」
「今日同じ授業でとった箇所、自分のノートと私のノートで見比べてみて」
私は弥生子さんの指示通り、ノートに書かれている重要ポイントを自分のノートに書き写しながらその違いを見比べた。
「結構違うものなんだね……着目しているところが」
「ええ……本当にびっくりしたわ」
書き写す私の様子を傍らで弥生子さんが見ている。
やはりいい匂いがする……。
これは決して邪念的なものではなく、その香りが私をリラックスさせてくれているのだ。
「ところで剋近さん……。さっきの企業の民主化案。以前から考えていたの?」
「えっ、いや。実は半ば思いつきで……」
「思いつき? 本当に?」
「一応以前からさ、企業構造には疑問があったんだ。組織運営のために上下関係が決まっているのにさ、何故かふんぞり返る人と、頭を垂れる人がいるなぁって。企業ってさ、そういうことをする為に上下関係がある訳じゃないでしょ? だからそれをどうにかして、お互いが尊敬し合って、お互いを支え合う関係に出来ないかなって、考えてたんだ」
「……なるほどね」
「株式っていう弥生子さんのヒントがあったから、土壇場で形になったような感じだよ」
「……そう。私、役に立てたのね……」
そう呟くと、弥生子さんは少し安心したような表情を見せた。
「でもね。ただ手法ばかり考えていても駄目なんじゃないかって、そう思う時もある」
「どういうこと? あなたのアイデアは、あの白川先輩を唸らせたのよ?」
「いやさ、本当にこの国が、或いはこの世界が良くなるためには、そういうテクニカルなこととは別に、人の中で『なにか』が変わっていかなきゃいけないと思うんだ。それが変わればきっと、時代や状況に応じて必要なものが『人の中』から生まれてくると思う」
「なにか……」
「利益を求めることばかりが経済じゃないと思う。お金そのものが経済じゃないと思う。突き詰めれば結局のところ、経済の主役は『そこに生きる人達』だと思うんだ」
弥生子さんは、私の言葉の意味を考えているようだった。そして、彼女は上下させていた視線を私の目元に定めると、真っ直ぐな瞳で質問してきた。
「剋近さん、1つ聞いていい?」
「え? うん、いいよ」
「あなたは一体――――何を目指しているの?」
「あれ……? じいちゃんのやっていたことを知りたいって、前に言わなかったっけ?」
「ええ、聞いたわ。でもそれだけ?」
「そう、だなぁ……」
私は少し考えて言った。
「もう1つだけ、凄く曖昧だけどあるかも」
「それ。是非、聞かせてもらえる?」
「もう一度さ、我々日本人が『エコノミックアニマル』と呼ばれる日が来るといいなぁ、って」
「えっ……? エコノミックアニマル? あれって皮肉でしょ?」
「ふむ、弥生子さんは本当になんでも知っているね……」
「ねぇ、どうして?」
「ああ、ご存知の通りエコノミックアニマルというのは、高度経済成長の最中、利益ばかりを追求する我々日本人を皮肉った言葉らしいんだけどさ、元々は褒める意味合いで使われていたって話もあるんだよ」
「褒める?」
「我々は動物である。しかしただの動物ではない。『経済的動物』である」
「誰の言葉?」
「私の言葉だよ。生命は進化の末に社会を作り、社会をより良くするために経済学を生み出した。エコノミックアニマルは、そんな人類の特徴を表した的確な言葉じゃないかい?」
「そう言われてみれば……そうね」
「もう1度私達が希望を取り戻して、帰るべき土ではなく、伸びるべき空を見上げて、生命の進化はここに在りって示せたら。それはとても素晴らしいことなんじゃないかな?」
弥生子さんは、ジッと私の目を見つめたと思うと。
「ふぅん」
とだけ言った。
「気に入ってくれた?」
「また意外だったわ。結構、詩的なのね剋近さんって。少し気に入ったかも」
「え、素敵? 気に入ったって私のことかい? 照れるなぁ」
私がそうおどけて言うと、弥生子さんは。
「なに言ってるの」
と言って笑ってみせた。
表情を柔らかくした弥生子さんと私は視線を落とし、一緒に2人のノートを見比べた。2人で見つめる2人のノートには、人類が辿った戦争や革命や発明の歴史が並んでいる。
「あのさ、私からも質問があるんだけどいいかな?」
「なに?」
「以前弥生子さんは、このままじゃ白川先輩に勝てないって言ってたよね?」
「ええ、そうね」
「それって言い換えれば、いつかは勝ちたいってこと?」
「ええ。尊敬する人だからこそ、きちんとした形で勝ちたいわ」
「でもあの人、プロでも敬遠するんだろ?」
「1人だと、多分いつまで経っても勝てないでしょうね」
そう言って弥生子さんは再び私を見つめた。
それに応えるように私も見つめ返す。
「……私も?」
「あの人が1人で戦い続けることと、『私達』が2人や3人で戦うのは別問題よ」
「勝てる見込みは?」
「あの人が卒業するまでの1年間にかかっているわ」
「なるほどね」
「だからしっかり作戦を立てて、これから備えて行かないといけないわ」
「……参ったね。本当に勉強が、自分だけの問題ではなくなってしまったらしい」
「お互い、足りないところをしっかり補強していかないといけないわ」
「補強か……。私はこうして勉強を見てもらえているだけで死ぬほどありがたいんだけどさ、正直弥生子さんの足りないところなんて見当もつかないよ」
私がそう言うと、少しだけ弥生子さんの表情に陰りが差した。
「見つかれば頑張っていける。厄介なのは何を改善すればいいのか分からない状態よ……」
そう言うと弥生子さんは黙ってしまう。
それから暫し、静かに時が流れる――。
同じ時間を誰かと共有することをここまで意識したのは初めてだった。
静かな運営委員会室の中には、私が指でノートをこする音と、弥生子さんの吐息だけが聞こえる。雲に隠れた月や太陽を待ち望むかのように、私はノートに書かれた人類史を見つめながらも、弥生子さんのことを想った。
そんな、静寂の中であった。
つい先ほど僅かな憂いを見せた弥生子さんには悪い気もするのだが……これだけはどうしても聞いておかなければならない、ある『問題』が発生してしまったのだ。
これは非常に、深刻な問題である。
この問題を解決しなければ、私は勉強を続けることさえ困難になるだろう。
質問に答えてもらわなければ、多分私は――――今夜眠れない。
「あのさ……。私から、もう1つだけ、質問していいかな?」
緊張から息が詰まる。
「なに?」
「……その……」
私はゴクリと唾を飲み込んだ。
勇気を持って、右手の人差し指を弥生子さんのノートに近づける。
そして、ノートに書かれたある部分を指さして言った。
「――――この『角の生えたでかい猫』みたいなのはなんなの?」
私が指した先には、二足歩行するでかい猫のような絵が書かれていた。
弥生子さんは揺るぎない口調で、こう答えた。
「猫じゃなくて熊よ」
「――熊?」
「ええ。くまった(困った)時に現れる、心のオアシス『ぶるべあくん』よ」
そう、弥生子さんは真顔で答えた。
言葉の意味を理解出来なかった私は、弥生子さんの顔をまじまじと見つめる。
しかし、やはり弥生子さんは真顔のままである。
(――――なっ――――なっ――――なんてこったああぁぁぁぁぁぁ!)
私は激しく動揺してしまった。
ひょっとしたらこの学校にきて最大の事件かもしれない。
(おっ、恐るべし弥生子さんっ! まさかこれほどまでだったとはっ!)
普段の私はどれだけ心の中でショックを受けても、弥生子さんの前では平静を装ってきた。しかし、今回ばかりは我慢できずに両手で頭を抱えて身悶えしてしまっている。
(――まっ、まさか『萌え』まで完備しているとはっ……これが……完璧っ! これが女市弥生子っ……! 白川先輩っ! 弥生子さんが深いってこういう意味ですかっ?)
「ち……えぇっ? なんなんだいそれは? えっと…………心のオアシス?」
「1つのことが分からず、その結果として全体が分からなくなる時が稀にあるでしょ? そんなくまった(困った)時に現れて、心に平静さを与えてくれるのがぶるべあくんよ」
「ちょ、ちょっと待ったっ。ブルとベアって、強気相場と弱気相場のアレ?」
「そうよ。――――あっ!」
突然、弥生子さんはなにかを閃いたような仕草をした。
「……どうしたの?」
「ひょっとして、エコノミックアニマルって、ぶるべあくんのことじゃないの?」
初めて振られた弥生子さんのボケに対して、私は迷う事なく突っ込んだ。
「それは違うっっ!」
その後。
忌憚のない会話が数十分続いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます