世界を変えるには

「お題――――『消費増税』について。先輩から先に意見を聞かせてください」


 私は素早く両手の平を向けて、カウントダウンを始めた。

 白川先輩はニヤリと笑う。


「消費増税は――――基本的に『すべき』だ。その理由とは、現在の日本の財政構造が極めて歪だからだ」


 そう言って白川先輩は両手の平をこちらに向ける。

 ターンが移ったらしい。


「勝負成立ですね。私の意見は、消費増税は『すべきではない』。なぜなら過去に消費増税を行えば必ず消費が落ち込み、景気向上を止めてしまったからです。そうして、結果として税収増には繋がらなかった」


 私は両手の平を向ける。


「ふふっ、それはデータを読み違えている。過去の消費増税で落ち込んだのは消費ではなく、主に所得の方だった。所得の減少こそが、結果として消費者の安物買い傾向を加速させた。そしてそれがデフレスパイラルへと繋がる大きな要因となった」


 白川先輩は落ちついた様子で、また両手の平をこちらに向けた。


(――勝てるぞこの流れ――)


 白川先輩の指がカウント4を数える頃、私はニヤリとして反論した。


「いいえ、理由はどうあれ、デフレという状況下で消費増税を行うのは経済政策として間違いです。過度のインフレ下で緩和政策を行ったり、デフレ下で金融引き締めを行ったりすることが愚かであることと同様に」


 これは経済政策における基本だ。

 これで勝負は決したはずである。


 私はそう確信していた。

 しかし、白川先輩はまったく動じる様子もなく意見を述べた。


「経済とは生き物、経済政策とは単体で成り立つものではない。その理由は、消費税には日本の現状に適合した、他の税制にはない、ある『特徴』があるからだ」


 白川先輩の言葉に、私は息を呑む。


「日本は現在非常に大量の借金を抱えている。内部向け国債は無敵という声もあるが、内部向けの土地バブルが崩壊したことと同様に、限定的で特殊な市場は常にリスキーな性質を備え持つものなんだ。もし、2011年の米国の債務上限引き上げ問題、つまり『財政の崖』問題のような、テクニカルな要因以外で国債のデフォルトが起こる場合は、その直前にはかならずインフレ率の急上昇が起こるだろう。消費増税はこれに対して強力な意味を持つ」


 矢継ぎ早に放たれる白川先輩の言葉。

 そして続いて出た次の言葉は、私の頭を今までかすめもしなかったものだった。


「一定の消費税率が確保されていれば、インフレ率が上がるほどに国家税収が増えることになる」


「…………なっ?」


「これにより過度なインフレ率の上昇が、単純な危機ではなく、政府の税収増という側面も併せもつことになり、我が国のデフォルトリスクを大きく後退させる要因になる。これも『外的債権国日本』、そして『内的債務国である日本』ならではの特別効果だ」


 なんてことだ。そういうことか。


 もし消費税率が0%の場合は、仮に1000%のインフレが起こっても消費税に限定すれば税収に変化がない。しかし消費税率が10%だった場合、年間の消費税収が20兆円だったと仮定して、1000%のインフレが起こった場合は――。


 200兆円の消費税収が発生する。


 これだけの税収増が想定されれば、それを織り込んで円のハイパーインフレ化は前段階で縮小するに決まっている。もしハイパーインフレが起これば、たった数年で日本は借金が完済できる計算になるからだ。


 予想外の意見を言われて私は言葉を失い、呆然としてしまう。


「それに消費税は労働者だけでなく、子供も老人も、金持ちも貧乏人も、政治家も外国人観光客も、全てに等しく課せられる税だからね」


 そう言った後、白川先輩がいつの間にか向けていた両手の指は折られ続け。

 8……9……10……。

 と、私が頭を整理しているうちにカウントダウンを終えてしまった。


「まずは1勝」


 白川先輩はそう呟いて、私の方に次のお題を促すようなジェスチャーをした。




(まだ一敗だ……。大丈夫、気持ちを切り替えろ……)


 私は一瞬目を瞑り、そう自分に言い聞かせてから次のお題を提示する。


「お題、TPP。こちらの意見から述べさせて頂きます。TPPは『実施されるべきではなかった』でしょう。理由は日本の食料事情にあります。食料自給率が低い現状で農産品の関税がなくなれば、食料という国民の生活を支える、基礎的な部分が崩壊してしまいます」


 そう言った後で、私はカウントを取り始めた。

 白川先輩は迷うことなくすぐに答える。


「勝負成立。TPPは可能な限り『実施されるべきだった』だ」


 勝負が成立した。


(ここで勝たなければ……後はない!)


「まず、きみが言っている食料自給率はカロリーベースだろう? 確かにカロリーベースでは4割弱だが、価格ベースだと7割弱となる。その差に潜む数字を読み解けば、日本が主に輸入しているのは、大規模農業によって生み出される小麦のような価格が安くてカロリーが高い食品だということが分かる。逆に、価格が高い食品は国内生産で賄われる率が高い。つまり、価格が高い食品を、今後積極的に輸出する上での期待値が高いということだ」


(くっ……そういう見方もあったのか……)


 私は少々焦るが、農産物から製造業へと話をシフトして、その場を乗り切ろうと試みる。


「それはあくまで希望的観測でしょう? そもそも農業サイドのリスクに対して、成長効果の期待される製造業でさえ、TPPで得られるメリットが実は殆どありません」


 思いを込めて、私は一気に言い切った。


「なぜならば、現在、既に製造業各社の多くが国外で生産しているからです。つまり、TPPによって関税がなくなったとしても、実は企業側のメリットは殆どないのです」


 私は勝利を確信した。なぜなら、TPP賛同派であってもこの意見に対して言い返せる人を見たことがなかったからだ。


 しかし、白川先輩は私の指が2つ折られた時点で反論した。


「それは思考が止まっている」


(思考が止まっている……? どういうことだ?)


 私は白川先輩の説明を待つ。


「TPPは、日本企業が海外で生産しなければならない『現状を変える』のが狙いだよ。結局のところ、工場や会社のある国でしか雇用や税収が生まれないからね。関税や通貨高が重しになって、日本企業の工場や会社が海外へ流れ、国内産業が空洞化してしまったのが好ましくない現状だった。日本向けの関税が大きく削減されるなら、工場の国内回帰を後ろ押しすることに繋がるだろう。現状を現状のまま分析しても意味がない。モノづくりを取り巻く、悪い現状を変えるための手段として、TPPは使えるんだ」


(……工場の国内回帰……そんな意図が……)


 想定していなかった意見を前に、私は再びなにも言えなくなってしまう。


(何か……何か言い返せないのかっ?)


 頭をフル回転させるが――。


「……10秒だ」


 ――無情にも白川先輩の両手の指は全て折られてしまった。




 閉じた両手を向けたまま、白川先輩は口を開く。


「もう2本先取したけど、まだ続ける?」


 白川先輩のこの言葉に、私は迷う。

 これまでの勝負2回、常に私は自信のある議題で勝負を挑んでいた。


 しかし私の凡庸でありふれた意見など、白川先輩にとってはとうに想定済みだったのである。自分は全力でやっているつもりなのに、白川先輩の言葉を詰まらせることさえ出来ていない。


(これは……実力差があり過ぎるんじゃないか……?)


 私はそう思い、降参を宣言しようと思って顔を上げた。


 しかし。

 その時だった――――。



『ガチャンッッ』



 と音を立て、屋上と校舎内を結ぶドアが荒々しく開かれたのだ。


 私と白川先輩が何ごとかと思い、ドアの方へと視線を向けると――。


 「はぁ、はぁ……」


 そこにはなんと――――弥生子さんが立っていた。


 弥生子さんはここまで走って来たのか、肩で息をしている。その激しい息遣いと必死な表情は、普段のお淑やかな彼女とはまったく印象が違っていた。


 呆気にとられている男子2人に早足で近づきながらも、彼女は白川先輩の両手がこちらに向けられ、その指の全てが折られていることから瞬時に状況を察したようであった。


「源十郎式討論ね。――今、何本目?」


 恐らく私に聞いているのだろう。


「もう……2本取られたところだよ」


「そう……」


 弥生子さんは普段は決して見せないような険しい表情で、白川先輩の方を向いて言った。


「私と剋近さんで、3本目をお願いします」


 明らかにいつもと違う彼女の雰囲気、口調。そして、私の意見を伺うことさえしない遠慮の無さ。初めてそれらに接する私の中には、なぜか快感にも似た強い高揚感があった。


「僕は別に構わないけど、河芝くんはいいのかい?」


 白川先輩は私に向けてそう尋ねる。


「はい。どうせ1人じゃ勝ち目がありませんから」


「そうかい? 河芝くんも結構勉強しているようだったけど」


「それでも――――それだけじゃ、勝てません」


 私のその言葉を聞いて、白川先輩は不敵な笑みを浮かべて言った。


「へぇ。2人なら勝てると?」


 それに対して私は。


「かもしれませんよ」


 そう言って笑い返した。


「そりゃ楽しみだ。お題はまたそっちで決めてくれ、既に2本こっちが取っているからね」


 私は軽く頷くと、頬に汗が伝う弥生子さんの顔に自分の顔を近づけて相談する。


「なにか、得意なお題はあるかい?」


「剋近さん、あなたの得意なお題でいいわ。資料は無いけど、私が知っていることがあれば隣でサポートするから」


「そうかい。それなら…………『この前の続き』をしたい」


「続き?」


「ああ、新入生研修の続きだ」


 弥生子さんはゴクリとツバを飲み込み、その艶かしい喉を流動させると返事をした。


「分かったわ」


 気持ちを1つにした2人は、再び白川先輩の方を向く。



「「始めましょう」」



 申し合わせた訳でもなくハモる私達に、白川先輩は楽しげに応えた。


「いつでもどうぞ」


 私は鼻で大きく息を吸い込んで、お題を述べた。


「お題、『企業の在り方』について」


 白川先輩はお題を聞いてこちらの意図を察したらしく、再び口角を釣り上げた。


「へぇ。なるほどね」


 私は言う。


「企業内における上下関係は、組織を円滑に機能させるためにこそ存在します。しかし現在、上司が部下の、役員が現場の意見を吸い上げる手段は、あくまで個人の裁量にばかり依存しており、馬鹿な上司をもった部下の苦労は続き、トップダウンで下りてきた計画を間違いだと分かっていながらも、現場が実行しなければならない状況があります。これは企業の永続性や長期的発展性を阻害する一因になっており、大きく改善する余地があると考えています」


 私はこのお題における、自分の立ち位置を明確にした。

 私が両手の平を向けると、白川先輩は少しだけ考える素振りを見せて――。


「なるほどね。賃金の話だけでなく、組織構造に関してまで突っ込むつもりか……」


 そう呟いた。

 そしてその後で軽く頷くと、こちらを見据えて応えた。


「勝負成立だ。上下関係は個人の組織内における『信用』によって構築される。長く勤めていたり、過去に実績があったり、多くの人に慕われている人間こそが要職に就くのが適当である。完璧な人間などいないので、時折理不尽なことも発生するだろう。だが、基本的にはこのトップダウンシステムは合理的に作用する」


 そう言って、白川先輩は両手の平をこちらに向けた。

 意見を聞いた弥生子さんが隣で囁く。


「剋近さん、白川先輩は企業の縦割り構造をある程度容認しているわ。なにかしらの形でこれを崩せれば、勝機が見えるかもしれない」


 その言葉に私は軽く頷き、反論を開始する。


「しかし、トップダウン構造では社員1人1人の個性を生かせないことも多いでしょう? 上司が代わった途端に、能力を発揮し始める社員は多いと聞きます」


 そう言って私が両手の平を向けると、すぐに白川先輩は反論した。


「きみは会社に民主主義システムでも持ち込むつもりかい? 何一つ出資していない雇われ社員が、経営にまで口を出すようになれば混乱を招く。一社員が経営失敗の責任を取れる訳がないだろう? 会社経営の基本的な流れとは、『出資者が直接的、或いは間接的に労働者を雇用して事業を動かし、利益を追求すること』にある」


 私が早くも返す言葉を失い始めていると、弥生子さんが私の耳元で囁き続ける。


「会社は誰のものか? という議論は昔からあるわ。株主のものか、経営者のものか、社員のものか……」


 白川先輩の意見、そして女市の情報を聞いていると、ふと自分の中に細い細い蜘蛛の糸のような線がチラついた。


 何かが掴めそうな気がして、それを手繰り寄せようと集中する。


 白川先輩の向けた両手は、カウント4を数える。


「弥生子さん、続けて」


 私の声を聞くと、弥生子さんは私の肩に体を密着させた。

 そして更に耳元にまで顔を寄せると、言葉を続けた。


「株式会社の場合、法的に言えば会社は株主のものよ。株主の権限によって経営者が決まり、そしてその経営者によって社員が雇用される。つまり、直接現場で働いているはずの社員が、システム上は1番弱い立場にあるということになるわ」


 白川先輩の両手はカウント8を数え……9に達した。

 私は咄嗟に、繋ぎの言葉を放つ。


「しかし現状のまま放置してしまえば、ボトムアップで意見を吸い上げる具体的なシステムが構築されないままだ。結局のところ、上司や経営陣の不理解があれば、鮮度の高い現場の意見が抹殺されてしまいます。これではこの先、企業が戦えない!」


 私が少々強引に両手を向けると、白川先輩は少し考えた後で、軽く頷いてカウント2で切り返してきた。


「具体的なシステムがあれば話は別だ。しかし、素人の民意にばかり迎合した政治がうまくいかないように、現場の社員には現場の社員の、経営陣には経営陣のやるべきことがある」


 白川先輩は深く瞬きをした後、追い込むように言葉を連ねた。

 先ほど、私が返答に窮したのを見切ったのだろう。


 恐らく――――ここで決めるつもりだ。


「資本主義において最も求められるもの、それは『信用』だ。出資者である株主から任命されている経営陣は、株主から『信用』を得ていると言える。そして誠実に仕事をこなし、長らく会社に勤めて出世してきた上司もまた、例え部下からしてみれば馬鹿に見えたとしても、経営陣からは『信用』を得ていることになる。よって、このシステムには一定の整合性があると言える」


 そう言って白川先輩は両手を向け、カウントを開始した。


 弥生子さんは再び、白川先輩の発言内容を補足するように、私の耳元で情報を囁き続ける。


「資本主義においては、出資者が一番の権限を持つの。だから、株主が経営者を任命することが出来るし、出資者から任命された経営者が、会社内で強い権限を持つの」


(出資者の優位性……上から下へ……一方通行の権限……)


 思考を続けながら、私は弥生子さんの声に集中する。


「一定数の株式を保有する株主は大株主、筆頭株主などと呼ばれて企業に対して強い権限を持つわ。だから、個人や団体が株式を大量に集めて、会社を乗っ取ることだって可能よ」


(……会社を……乗っ取る?)


 弥生子さんの言葉を聞いていると、ふと先程チラついた細い細い線に、手が届きそうな予感がした。


「――頼む、続けてくれ」


 弥生子さんは私の直ぐ傍で頷く。


「会社を乗っ取る方法とは、会社が発行する『株式の過半数を獲得する』こと。ただし株主のすべてが、ただお金を出せば株を売ってくれる訳ではないわ」


 そこまで聞いた私は横を向き、鼻と鼻が触れ合いそうなほどに近くにある弥生子さんの顔を見つめながら言った。



「ありがとう、弥生子さん」



 その時線が――――繋がった気がしたのだ。


 白川先輩のカウントは8を刻んでいた。

 私は微かに、しかし確実に手にかかった線をたぐり寄せるようにして反論する。


「社員による投票制にすればいいじゃないですか。経営者を決める時に」


 私はそう言って、両手の平を広げた。

 当然の如く、白川先輩は呆れ返って言い返してきた。


「――――はぁ? おいおい、ちょっと待ってくれ。さっきまでの話を聞いていたのかい? 経営陣は株主が任命するんだ。社員が投票するなんて完全に論理破綻しているだろう? ひょっとして、もうギブアップかい?」


 そう言う白川先輩に対して、私は声を張り上げて言った。



「ギブアップなんてしないっっっ!!!」



 私はカウントを中止する。

 そして、今生まれたばかりの言葉で、その真意を補足した。


「社員が株主になればいいのです。そして現場の意見を統合し、最も社員達からの信頼が厚い人が取締役になればいいのです。社員は長く勤めることによって、自分達の給与から株式を購入し続ける。そういう契約の下で社員になるのです。社員全体の保有する株式が過半数を超えた時――――その企業は世界で初めてのボトムアップ型企業。即ち『民主主義的企業』になるのです」


 生まれたばかりのアイデアを、たどたどしく、しかしはっきりと伝えた。

 それを聞いた白川先輩の反論が――――初めて止まった。


「社員が株を? 持株会? 定期購入? それを権限の行き渡る規模まで……?」


 私は更に言葉を続けた。


「これにより、現場の社員の努力は会社全体を巡って、株主である自分達自身に及びます。経営者を選んだのは自分達、配当を受け取るのも自分達、これによりただ雇われて仕事をこなすだけの社員ではなく、組織のために個々人がなにをすべきかを真剣に考える必要が生じます」


 アイデアを補強する、様々な理由が私の口から湧き出てくる。


「これにより、パワハラや左遷などの社会的歪みを正すことも、儲け主義の投機家に企業経営が、沢山の家族を抱える社員達の人生が振り回される危険性も回避できます」


 白川先輩は、深く何かを考えながら呟いている。


「……資本だけではなく、そこで働く人間ありきで機能する組織……」


 私は湧き出る言葉を、最後まで言い切る。


「ただ一方通行の権限ではなく、一人はみんなのために、みんなは一人のために、権限が下から上へ、そして上から下へと循環するのです。一方向的な線ではなく、お互いがお互いをチェックし、補い合う、理想的な円環構造を生み出す。こうして一握りの者だけが勝ち続ける、富の一極集中さえ変えていくのです。トリクルダウン型経済を打ち砕き、資本主義社会が抱える歪みを正すことが出来るのですっ!」


 私は。


「カウント再開します!」


 そう強い口調で言って、再び指を折り始めた。

 白川先輩の反論はなく、カウントは4……5……6……と進んでいく。


「……社員1人1人の自己責任……自社株式の保有という正規雇用形態……労働者を雇用することが自社への継続的投資家を生み出す……法的整合性……ボトムアップ構造の確立……トリクルダウンからの脱却……そして」


 白川先輩は、様々なことをシミュレートしているのか、何度も何度も、ただぶつぶつと呟き続けている。


「資本主義と……民主主義の融合」


 そうしてカウントが8に達した時、白川先輩はおもむろに顔を上げて言った。


「……その発想は」


 カウントは9に達する。


「…………面白い」


 白川先輩がそう言うと、カウントは――――10に達した。




 私が広げていた全ての指が折られ、一瞬の沈黙が訪れる。

 私と弥生子さんが間近で顔を見合わせると、白川先輩は照れたように言った。


「こりゃ、一本取られたね」


 その言葉を聞いた私と弥生子さんは、お互いの両肩に両手を置く。そして、顔を見つめ合いながら、ただただその場をピョンピョンと飛び跳ね始めた。


 この時、なにか大きな声を出して、2人で喜びを分かち合っていたような気がするが、多分私も弥生子さんも。


「やったっ!」


 とか。


「嘘でしょっ!」


 とか、そんな他愛のない言葉しか発していなかったと思う。


 だけど――――。

 それこそ言葉では表現出来ないほどに、本当に、ただ本当に嬉しかったのだ。

 喜ぶ私と弥生子さんを、やれやれといった感じで見つめる白川先輩は。


「僕が2本先取しているんだから、一応僕の勝ちなんだけどね」


 と念を押す。


 白川先輩の声を聞いて、ハッとした弥生子さんは、白川先輩の方へと振り向いて深々と頭を下げた。


「ありがとうございました」


 急にいつも通り礼儀正しくなった弥生子さんを見て、私も横に並んで頭を下げる。


「ふふふっ、いいよ。久しぶりに僕も充実した時間を楽しめたからね」


 弥生子さんは深々と頭を下げ続けながら、何度も謝罪した。


「すみませんでした。挨拶もせずに勝手に参加して……本当にすみませんでした」


「だからいいって」


 白川先輩は弥生子さんに頭を上げさせると、時計を見て言った。


「さて、僕は予定があるからもう行くけど――」


 そう言って背を向けた白川先輩は、頭を少し傾け肩ごしに私達を見てから、こう続けた。


「――次は正式な討論会でやろう。きみ達が勝ち続ければ、いずれは僕とやる機会がくる。それまでは負けないようにね」


 そして、目線を切って。


「僕もまだ負けないから」


 そう言い残す。

 背を向けたまま片手を上げ、白川先輩は屋上から立ち去った。

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