第四章 2つのお願い
2つのお願い
帰りの挨拶が終わり、皆がそれぞれの放課後へと向かっていく。
私もいつも通りにカバンを手にとり、帰宅部の部活動に勤しもうと考えていたのだが、ここで突然、予想外のイベントが発生した。
「河芝くん」
いきなりだ。
いきなり、机を挟んだ正面から声がしたのである。
私は突然聞こえたその『麗しき声』に、口から心臓と胆嚢が飛びだしそうなくらいに驚いてしまった。目の前、つまり机1つを挟んだ向こう側に彼女が立っているのだ。
そう。
あの『女市弥生子』が立っている。
私は慌てて返事をしようとするが、急に吸気したため気管に唾液がダイブしてきた。
「えふぉっ! ごふぉ、げふぉっ……。うん…………女市? なんだい、どうしたんだい?」
少々てこずったが、なんとか自然な挨拶に繋ぐことができたはずだ。
「どうしたの、風邪でも引いているの?」
「いや、見ての通り元気だよ。なんともないずら」
「……ずら? そう。ところで河芝くん」
「はいっ、なに?」
女市弥生子にただ名前を呼ばれるだけで、私の平常心がリーマンショック直後の日経平均株価のように不安定になる。
「実は……大事な話があるから、放課後つきあってもらえないかな?」
私は女市弥生子の言葉に耳を疑う。あの女市弥生子が、私に『つきあって欲しい』と言っているのである。まぁ、こう言うと少々語弊があるかもしれないが、彼女が一応そんな趣旨のことを言っているのは間違いない。
「……い、い……」
「嫌……? 部活とかある?」
「い、嫌じゃない嫌じゃない! いいですとも! 部活なんてやってないから!」
私がそう答えると、彼女は少しだけホッとしたような表情を見せた。
その表情の変化に私は見入る。
「そう……。それなら、今から10分後くらいに運営委員会室まできてくれる?」
いつも人と会話をする時にはしっかりと目を見つめている彼女なのだが、今回は珍しく少し目線を外している。なんだかその仕草さえもが妙に魅力的に見え、私の胸の高鳴りを重りの位置を下げたメトロノームのように速くさせた。
「分かった、行くよ」
「うん、ありがとう。それじゃ、私も学級委員長の仕事をすぐに終わらせて向かうわ」
そう言うと彼女は私と再び目線を合わせた後、自分の机へと戻っていく。
(なんてこった、あの女市弥生子と待ち合わせをしてしまった……)
私は緊張から。
「はぁ」
と深く息を吐いた。
◇
10分後。
私は約束通り運営委員会室前までやってきた。
ドアの前で軽く深呼吸をすると、私は勇気を持って取っ手に手をかける。施錠はされておらずスムーズにドアが開いた。覗いてみると運営委員会室の中には、ほうきを持って掃除する女市弥生子の姿があった。静かな物腰と優しい表情で掃除をする彼女の姿は、やはり完璧で美しい。
(本当に、何をやっていても様になるな……)
運営委員会室の中は普通の教室より少し狭く、奥には足元に隠れられそうなスペースがある教師が使うタイプの机が1つ、その手前には長机とパイプ椅子が並んでいる。こちらに気づいた女市弥生子は、ごくごく自然な口調でこう言った。
「よかった、河芝くんも手伝って」
顔を傾けるとサラサラ肩から落ちる長い髪。そしてまるで親しい知人に向けたような口調。私はすぐにでも手伝おうと思ったが、その前に確認しなければならないことがある。
「えっと、大事な話って掃除を手伝うことかい?」
私の質問を聞いて、ああそうかとなにかに気づいたような素振りを見せ、彼女はほうきを近くの机に立てかける。
「ごめんね、実は大事なお話っていうのは……」
そう言った彼女は長机の角のところに立ち、言葉を続けた。
「河芝くんには、ここに座って欲しいの」
(…………???)
私は頭の中にハテナマークを並ばせながら、言われた通り彼女のすぐ近くまで歩み寄り、そして指定された席に腰をかけた。
「こ、これでいいのか?」
呆けた表情でそう言う私を見て、彼女はおかしそうな表情をして言った。
「うふふ、違うわよ」
なぜ自分が笑われているのか、何が間違っているのかが分からず私は更に混乱する。
「そっか、河芝くんって付属中学じゃなかったもんね」
そう呟きながら、彼女は教師が座るタイプの机を指さして言った。
「あれが私の席、つまり『運営委員長』の席よ」
次に彼女は私が座っている席に手をおき、人さし指で机をトントンとさせる。細くてしなやかな白い指先と、小さな唇が同時に滑らかに動く。
「そしてここは、『副委員長』の席よ」
彼女がそこまで言うと、流石の鈍い私も、まさかまさかという思いを抱きながらその言葉の意味を理解する。
「あなたに、副委員長をやってもらいたいの」
はっきりと、女市弥生子の口からそれを聞いた瞬間――――ゲリラ豪雨を告げる雷のような何かが私の体の芯を突き抜けた。
「えっ、ええぇっ? ……えっと」
「いや?」
「……い……や……じゃ、ないです」
「じゃあいいの?」
「ちょ……ちょっとまってくれ、少し整理させてくれっ!」
私は混乱する頭を鎮めつつも、間近から見下されながらのお願いという絶妙なシチュエーションに高揚していた。今、風でも吹けばサラサラの髪の毛が私の顔にかかりそうである。
(近いっ……そ……それに、なんだかいい匂いがする……)
そんなことに気をとられながらも、私は彼女から視線を外して必死に質問した。
「どっ、どうして私なんだ? それにきみは運営委員長だろ? お願いなんてせずに人事権を使って命令すればいいんじゃないのか?」
「最初の質問への答えはあなたが必要だから。2つ目の質問への答えは、運営委員の人事は委員長と対象生徒が双方同意しないと成立しないわ。強制命令はできないの」
2つ目の質問への答えは納得である。
しかし最初の質問への答えは私を更に慌てさせた。
「な、なぜ私なんだっ?」
余程焦っているのか、また同じ質問をしてしまう。
「わ、私はこの学校のことを殆ど知らないし、成績だって多分この学校では下から数えた方が早い。役職なんて学級委員長どころか、日直さえ真面目にやってなかったんだぞっ?」
「過去は過去よ、これからあなたがどうするかが大切なの。勉強だって運営業務の合間に少しくらいなら教えてあげるわ」
(くっ……ひょっとして私は明日死ぬのか? 完璧な美人に諭され、更には教えてあげるなんて言葉までかけられているっ……!)
「お……教えてくれるなら……まぁいいか……。……あ、いや、まってくれ! それじゃ答えになっていない! ちゃんと答えてくれっ!」
「なに?」
「なぜ私なんだ? 私は女市の存在をこの学校に入学してから知った。女市だって私のことなんか全然知らなかったはずだろ?」
少しばかり呼吸を荒げながら、私は質問を続けた。
「ひょっとして……新入生研修で、私が自分のことを元日銀総裁の孫だって言ったからか?」
私がなんとか視線を上げてそう問い質すと、彼女は少しの間私の目の奥を覗き込むように見つめた後で、視線を外して室内を歩き出した。彼女は室内を、コツコツと上品な音を立てながらゆっくりと歩いている。そして。
「違うわ」
と答えた後で立ち止まり、窓の外を眺めながら話し始めた。
「あなたのおじいさんが誰なのかは関係ないわ。だけど……あなたが必要だと感じたのは、確かに新入生研修の時よ」
私は相槌を打つことも忘れて、彼女の言葉に耳を傾ける。
「あの時、当たり前のようにゲスト達が生徒達を論破して、当たり前のように研修が終わろうとしていたわ。だけどあなたはその当たり前を壊そうとした。少しの間だったけど、高校1年生とは思えないような意見をぶつけていた。新入生研修なのに、全然新入生らしくなかったの……」
そう言って、彼女は委員長席にもたれかかるようにお尻をのせた。
「私にもゲスト側が焦っているのが分かったわ。ひょっとしたら、もう一押しであなたが論破できていたかも知れないとさえ思った……。この学校の3年生を言いくるめたゲスト達を、たった1人で追い込んでしまう……それだけでも十分に凄いことなのに、あなたはもっと大きな奇跡を起こしてみせたのよ」
女市弥生子は再び私に視線を向け、私の体の隅々に視線を送りながらこう言った。
「あの、白川先輩を動かしたのよ」
その言葉を聞いて、私は少しだけ胸の奥が痛んだ気がした。
やはり彼女は、白川先輩を特別視している――。
私は複雑な心境の中で質問した。
「……白川先輩は、そんなに凄い人なのかい?」
「ええ、限りなく理想に近い人だと思う」
揺ぎない口調でそう言う彼女の声に、私は目を瞑った。軽く息を吐き、僅かに口角を上げてから再び目を開く。そしてしっかりと、女市弥生子の目を見据えて私は質問を続けた。
「あの人が凄いことは、私にだってなんとなくだけど分かるよ。だけど新入生研修の時もそうだったけど、どうしてあの人はあんなにやる気がなさそうなんだい?」
彼女もまた、私から目線を外すことなく答えた。
「この学校には、討論会っていう行事があるでしょう?」
「ああ、らしいね」
「討論は基本的に3人1組で行われるのだけど、1年生の頃からずっと、白川先輩は3人ではなく、1人で討論会に挑んでいたのよ」
「できるの? そんなこと」
「人手が足りない場合には、2人で討論に挑むことがあったわ。人数が少ない分には許可されていたから。だけど最初から1人で挑むというのは普通ありえないわ」
「友達がいなかったとか?」
「あの人の人望は厚いわ」
「ふむ。それで結果は?」
「1対3だったにも関わらず、相手は前半戦が終わった直後に降参していたらしいわ」
「1年生の頃だから、相手が何も知らなかっただけなんじゃないの?」
「普通はそう考えるわね。だけど白川先輩の討論内容は審判していた教師達さえ唸るものだったし、その後もずっと1人で討論を続けて他の生徒を圧倒し続けたわ。そう、3年生を相手にしても……」
「上級生を相手にしても1人で……そりゃ……凄いな」
「白川先輩が入学してから半年が経った頃かしら、ゲストの胸を借りて行われる公開討論会があったわ。生徒達がゲストに意見をぶつけて、ゲストがそれを注意したり褒めたりするイベントみたいなものよ。その時のゲストはテレビに何度も出たことのある、名の知れた評論家だったわ」
「おいおい、そんな人まで来るのか? この学校」
「ええ、当時中学生だった私もこの公開討論会を見に行ったわ。父の誘いでね」
「きみはそんな頃から……それで?」
「白川先輩はブレることなく、いつものように1人でその評論家と討論を始めたの」
「うん……。それでどうなった?」
「結果は白川先輩の優勢、というか『完全論破』よ」
私は女市の語る現実味のない話に。
「冗談だろ?」
と呟く。
「テレビ局も来ていたから証拠は残っているわ。ただし評論家の顔を潰さないように、時には評論家の先生が押される場面も、という感じで放送時は編集されていたけれど。だけど現場にいた人達は、途中から評論家の主張が素人目に見ても破綻していることに気づいていた。だから翌日にはその出来事が噂になったらしいわ」
あまりの凄さに、もはや言葉もない。
「その日を境に、白川先輩が参加する討論会を見学したいという人が増えたわ。見学者は飽きるどころか日に日に増えていく一方。白川先輩が2年生に進級する頃には毎回2、30人くらいの見学者がきていたらしいわ」
「おいおい、そんなに沢山の見学者どこに……」
「会議室よ。新入生研修の時に私達が座っていた席があったでしょ? パイプ椅子じゃなくって、ちゃんとした見学席が用意されたのは白川先輩の影響なの」
「……マジか……」
「2年生になった白川先輩は、運営委員長選挙にも立候補したわ。そして、出馬していた中村先輩に大差で勝利した」
「中村先輩……3年生の現運営委員長か。確か、1年生の時は中村先輩が運営委員長だったんだっけ?」
「そうらしいわ。だけどその元運営委員長が1対3で論破されているのを見たら、誰だって失望するでしょうね」
「……うぅむ……」
「それ程白川先輩の存在感は圧倒的だった。私も何度か白川先輩の討論を見学しに行ったわ。常に1人で、圧倒的で、輝いていた……」
「――ちょっとまってくれ。やはり、きみの話す英雄のような白川先輩と、この前のやる気のなさそうな白川先輩が、どうしても私の中で一致しないのだが?」
「そうね……。白川先輩の文字通り1人勝ちはしばらく続いたわ。だけど2年生の2学期に入った頃、突然白川先輩が討論会でまともに発言しなくなったの」
「一体どうして?」
「分からないわ。だけどそれは一時的なものではなく、討論会に関してはそれ以降まともにとり合わなくなったの」
「それは、ずっと続いたの?」
「ええ続いたわ。…………そう、新入生研修のあの時までは」
彼女はそこまで話すと、スッと机に預けていたお尻を持ち上げて再び歩き始めた。
「白川先輩が人の上に立とうとしたのは、恐らく高校2年生になってからよ。それに比べて私は小学生の頃から、リーダーシップを学ぶために色んなことをやってきたわ」
「ああ、壁新聞で読んだよ」
「そう……。あなたも私を王者とか貴人とかって思う?」
「えっと、王者かどうかは分からないけど、かん……いや、凄いって思う」
私は完璧という言葉を飲み込んだ。
それがなぜなのかは分からない。
「ありがとう。でも、私はそうは思わないわ」
「どういう意味だい?」
「私がやってきたことは、私にとっては当たり前だったから。人間誰しも自分が当たり前だと思っていることを凄いとは思わないわ。自分が持っていない他人のものは、どこまでも輝いて見えるけれど」
「そういうものなのかな?」
「食料、水、携帯電話、インフラ、医療、治安、平和。この国に住んでいたらそれが凄いことだとは思わないでしょ?」
「……なるほど……」
「私はね。あなたを凄いと思っているわ。河芝くん」
「えっ? ……どこが?」
「分からないでしょ? 自分が当たり前だと思っていることだから」
女市弥生子は、その美しい黒髪をサラリとかきあげながら。
「はぁ……」
と、ため息をついた。
彼女がため息をつくのを見たのは初めてかもしれない。
「そうよね、ちゃんと答えなくちゃ……」
そう零すと、彼女は再び私の座っている席に接近し、私の目を見据えて口を開く。
「1年生の時の白川先輩と、今1年生になった私を比較してみても、私は白川先輩には絶対勝てないわ。今まで通り勉強して、色んな人の意見を聞いて、リーダーシップを発揮しても……多分、ずっとあの人には追いつけないと思う」
彼女の表情はいつになく真剣だ。
「私は知りたいの、あなたの何があの人を揺さぶったのか。私は知りたいの、あなたがあの人の何を揺さぶったのか。きっとそれは同じもの、私が理解できていない、同じもの……」
今までとは違う食らいつくような執念か、もっと切実な何かが窺えた。
「今までと同じようにただ積み重ねるだけでは駄目……それが分からないと私はもう限界。これ以上先へは進めない気がする」
私の目の前には、完璧な女性の完璧な瞳がある。
どこまでも吸い込まれそうな、完璧な黒だ。
私は高ぶる感情によって小刻みに震えるその深い黒を見つめているうちに、スッとなにかが腑に落ちたような気がした。
常に完璧に見える女市弥生子。
だが、彼女が完璧に見えるのには理由がある。
戦っているのだ。
いつでも、ギリギリの所で。
人知れず……。
「そうか」
そう呟くと私は立ち上がった。
「相分かった――――引き受けましょう」
私のその言葉を聞くと、陰の差していた彼女の表情に陽が差す。
ただ望みに応じるだけで、彼女の表情をこうも変えることができるのかと思うと、まるで自分が価値ある人間のようにさえ思えてくるから不思議だ。
「本当?」
「ああ。私がこの学校に入った理由も、この学校の出身者であるじいちゃんのことを、そして経済のことをもっと知りたいからだ。運営委員会に関わることは、きっと僕にとってもプラスになると思う。それに――」
そう。
正直な所私にとっては、こちらの方が本命であった。
「――女市がたまに勉強を教えてくれるんだろ? それなら普通に学力向上にも繋がる」
「ええ、もちろん。ちゃんと教えるわよ」
「そうか、女市がそういうのなら――」
「待って」
「……え?」
「それ、やめて」
少し不機嫌そうに眉をしかめて、サッと背を向けてから彼女はそう言った。
彼女の「やめて」という言葉と険しい表情、そして不意に背を向けられたことが妙に胸にきて、自分が何かまずいことをしてしまったのかと思い、少々、いや、かなり焦る。……かなり焦る。
「それ……って、なんのことだい?」
激しく狼狽した私は、彼女の返事を待つ。
そっと肩ごしに緊張した私の顔を見ると、女市弥生子は不意にいたずらっぽく笑った。肩ごしに見えるその表情の落差に、私は目が釘づけになる。
「私のことを、女市と呼ぶのをやめなさい」
「…………へ?」
彼女は黒髪とスカートを揺らして、私の方へ向き直ると言った。
「私の名前は弥生子よ。分かった?」
「ちょ、ちょっとまってくれ女市、それは一体」
「弥生子よ」
「……はい……弥生子…………さん」
「なに、剋近くん……。あ、さんの方が美しいかしら?」
「いいえ、なんでもない……です。さんでもくんでも好きにしてください」
「そう、よかった……。これからよろしくね剋近さん」
「……了解、分かったよ弥生子さん」
「うふふっ、ありがとう、そして歓迎するわ。ようこそ運営委員会へ、副委員長」
「よ、よろしく、委員長」
私がそう応えると、弥生子さんはまたいたずらっぽく笑った。
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