第三章 東野商業高校

お金とは何か?

 ここは東野高校1年A組の教室。

 今日は少し早く学校についたので、朝のホームルームまではまだ時間がある。少年は老い易いらしいので、こんな僅かな時間も無駄にしてはいけない。


 私は席について、昨日の新入生研修で取ったノートを広げる。これは昨日の復習であり、今週中に書かなければならないレポートのためでもあった。


(一体なにを書けばいいのやら……)


 素直におっさん達の態度に腹が立ったとでも書くべきだろうか? しかし多分、それが本当に自分の率直な感想であったとしても、ゲストを褒め称える嘘のレポートよりも高い評価は得られないだろう。我々生徒に求められているレポートとは本音ではなく、学校側にとって望ましいレポートなのである。


 妙な理不尽さを感じて「はぁ」とため息が漏れてしまう。くだらない世の中だと思えばモチベーションだって下がる。考えても良い効果が得られないことは、そもそも考えない方がいいのかもしれない。


(通貨安で輸出増加……賃金を欲しがる労働者に、賃金を払いたがらない経営者かぁ……。お金ねぇ……)


 私はポケットから財布を取り出し、その中から1枚の千円札を広げてみた。本当ならばここで諭吉の登場といきたいところだが、高校1年生の財布に諭吉が入っていることなんてあまりない。なのでここは藍より青々としたピン札の野口を見つめながら、お金について改めて考えてみることにしたい。


 さて、お金とはなんであろうか?

 目の前の千円札には、日本銀行券と書いてある。


 日本銀行とは、通称日銀にちぎんと呼ばれていて、銀行の親分、銀行の銀行みたいなものであり、主に一般人ではなく銀行や政府を相手にしている金融機関である。そして、私の祖父である河芝かわしば剋則かつのりが総裁を務めていたところでもある。


 世の中では持っているお金(日本銀行券)が多いか少ないかによって、勝ち組とか負け組みとか呼称され差別されているのだが、どうしてこんな紙切れ集めにみんなは必死になっているのだろうか?


 それは、この紙切れが様々な物と交換できるからだ。


 家や土地も、車や自転車も、私が着ているこの制服も、私が座っている椅子や机も、教室の黒板やチョークも、窓ガラスや蛍光灯も、なんでもこの紙切れが沢山あれば交換してくれるし、逆にこれがなければ殆どの物は手に入らない。これがなければ住む場所や食べ物さえ手に入らず、下手をすれば死んでしまうだろう。


 そう。

 人の命さえも、こんな紙切れが左右するのだ。


 では日本中、いや世界中が欲しがるこの円と書かれた紙切れは、どうして様々な物と交換するほどの価値があるのだろうか?


 それはこの紙切れと発行元に『信用』があるからだ。

 もしも私が似たような紙切れを作って、いきなりこれは100億万円札である、などと宣言しても誰も相手にしてくれない。残念なことに私には信用がないからだ。


(うーん、では私と日本銀行の信用の差は一体どこから生まれたのだろうか? 初めにお金を発行した人は、どうやってここまで信用を得ることができたのだろうか……?)


 私がそんなことを考えていると、突然――。


「いっただきぃー」


 手元にあった野口が、油揚げの如くさらわれてしまう。

 この声はサダである。


「こら、返せ! 昼飯代なんだぞ!」


「平和な日本といえど、公共の場でお金を堂々と広げてちゃ駄目だよ」


「ふざけるな、どの国においてもひったくりは犯罪だっ」


「えー? 名前も書かれてないのに、どうやってこれがロリこんのお金だって証明するのさー?」


 屁理屈なんか言いやがってと私は思ったが、ひょっとしたらさっきの話、サダなら何か知っているかもしれない。見かけによらず、サダは幅広い知識を身につけているからだ。


「おい、聞きたいことがあるから、私の野口を返して話を聞け」


「おいおい、なんだい? お金を返せ、話を聞け、ほんとロリこんは要求が多いね」


 生意気なことを言いながらも、サダは素直に私に野口を返還した。

 私は無事に帰ってきた野口を広げて、それをサダに見せながら言った。


「サダ、これはなんだ?」


 私の言いたいことを直ぐには理解できないらしく、サダは不思議そうな顔で答えた。


「お金でしょ? 千円札。ちゃんと返したよ?」


「そうではない。これはなぜこんなに価値がある?」


「こんなにって……千円じゃないか」


「しかし、これと交換できるものは多い。どうしてこれはそんな力を持っている?」


 ようやく私の言いたいことが分かってきたらしく、サダは頷きながら答えた。


「ああ、なるほどね……。うん、それは信用があるからじゃないか?」


「そうだ、そこまでは私でも分かる。しかし、その信用とやらはどうやって作るものなのだ? 最初にお金を発行した人は、どうやってその信用を確保したのだ?」


「ははは、それは簡単なことだよ」


「簡単?」


「お金自体が、金とか銀とかの貴金属でできていたのさ」


 なんとも意外な答えが返ってきた。

 こいつは盲点である。


「あぁ……そうか。金貨とか銀貨とか、大判とか小判とかか」


「そういうこと。貨幣自体がみんなの欲しがる物でできていたから、みんなが金や銀の量に応じて色んな物と交換したってわけさ」


「なるほどな。……あ、違う違う。私が聞きたいのはそれだけではない」


「なんだい?」


「例えばだ、私が100億万円札を発行しても、誰もそのお金を信用してはくれないだろう? この野口と私の100億万円札との差は一体なんなのだ?」


「へぇ、元日銀総裁の孫が発行した貨幣か、面白いなぁ。ところで100億万円って、100億の1万倍だから100兆円札ってことなのかい?」


「そこはどうでもいい。要は金や銀ならともかく、なんでこんな紙切れを世の中が信用するに至った? もう1度言うが、野口と私の100億万円札の差は一体なんなのだ?」


「分かったよ、そういうことね」


 サダは糸目を楽しそうに細めて説明し出す。


「その紙は元々きんの代わりだったんだよ」


「代わり? どういうことだ」


「100年以上前から円は発行されているんだけど、最初は金や銀でできていたんだ。しかし問題があって紙になった」


「問題?」


「金や銀のような貴重な金属でできていると、コインを少しだけ削って貯めようとする人がいたり、世の中に実在する金や銀の分しか貨幣が発行できなくなったりするんだ。人口が増えてもお金の数が少ないままだと不便だよね? だから紙幣が生まれたのさ」


「――んで、その紙幣はどうやって信用を確保したんだ? 所詮は紙切れだろ?」


「紙幣は交換チケットみたいなものだったのさ。発行された日本銀行券は、金や銀と交換することができる。これを保障するのが『貨幣法』っていうんだけど、こういうとり決めがあったからみんなが紙幣を信用するようになったんだよ」


「なるほどな、金と交換できるチケットか……。それじゃ、今も銀行に行けば日本銀行券を金や銀と交換してくれるのか?」


「うーん、銀行に行かなくても円があれば普通に金や銀が買えるよね? 売り買いっていうのも、結局は『何かと何かを交換する』ってことだし。――あぁそうそう、紙幣が金と交換できる制度を確か『金本位制』っていうんだよ。金の価値をベースに色々な物の価値を測っていくから金本位、金が価値の中心ってわけ。だから自分本位って言葉は、自分が価値基準って意味なんだねぇ。で、確か今は金本位制ではなくって『管理通貨制』って呼ばれる状態らしいから、銀行に行っても多分金や銀とは交換してくれないんじゃないかな?」


 そこまでサダが話すと、倉井が教室に入ってきた。


「おーっし、みんな席につけー」


「んじゃね」


 そういってサダも自分の席へと帰っていった。

 とりあえず私も野口を財布にしまう。


(お金というのは本当に読んで字のごとく、元は金のことだったんだな……)


 こうして色んな仕組みの元で金や銀や紙切れが飛び交って、世界が発展し、時には血を流して争ってきたことを想像すると、私はなんとも不思議な気分になった。





 その日の放課後、ホームルームで倉井からある発表があった。それは候補者が1人だった為、自動的にA組の学級委員長が決定したということである。


 1年A組の学級委員長に決定したのは言うまでもなく、女市弥生子だった。


 倉井が発表した後に、彼女は立ち上がって簡単な挨拶をした。皆が注目しているので私も遠慮なく彼女に視線を向けることができる。いやはや眼福眼福。


 挨拶を終えて着席すると、すぐに周囲の女子達が女市弥生子に声をかけていた。


「がんばってね、応援してるよ」

「困ったことがあったら言ってね、姉さんの頼みならなんでも聞くよ」


 なんとも協力的な女子達の声が聞こえてくる。

 やはり彼女は皆に慕われているらしい。


(なんでも聞くよ……か。そりゃ私だって女市弥生子にお願いされたらなんだって聞いてしまうだろうさ)


 私がそう心の中で思っていると、倉井が言った。


「運営委員会選挙の立候補申し出も今日で締め切りだ。うちのクラスからは既に女市が立候補しているから、しっかり応援してあげてくれ」


 どうやら予定通り、女市弥生子は1年生の運営委員長選挙にも立候補するらしい。


(ほんと、感心するよ。その向上心には……)


 相変わらず、彼女はとても眩しい。

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