そうして、少年は隠れるのをやめた
光を目で追う子猫達のように、皆が一斉にイケメン先輩に注目した。
女市弥生子もまた、明らかにびっくりしたようにイケメン先輩に視線を向けている。気のせいでなければ、それは彼女が初めて見せる、まったく余裕のない反応だった。
「……おっ……おお……。なんだ、白川君……君もそう思うかね? ははは……」
驚いたような表情でおっさんがそう尋ねた。しかし何だか、ゲスト側の様子がおかしい……。まるで、生徒であるイケメン先輩の機嫌を伺っているようにさえ見える。
「ええ。揃いも揃って、FRBとヘリを結びつけることの出来ない皆さんの様子がね」
「えっ……?」
イケメン先輩の一言で、部屋の空気が一変する。
「せめて当時のFRB代表者の逸話くらい知っておいた方がいいと思いますよ? 『デフレを解消したければ、ヘリコプターからお金をばら撒けばいい』。過去日本に対してそう述べたのは、他でもなくFRBの代表者です。有名な話でしょう?」
「なっ……」
イケメン先輩の言葉におっさん達は面食らう。
「我が国の通貨価値が少しばかり高い水準にあったということには、私も条件つきで同意出来ます。しかし、ゲストの皆さんは日銀が取るべき手段について一体何を想定していたのでしょうか? 当時、政策金利はとっくにゼロ水準だったはずですが?」
一番しゃべっていたおっさんは状況が飲み込めず、当惑した様子で恐る恐る答えた。
「そ……それは、日本国債を買い上げてお金を供給すればいいのではないのかな……?」
イケメン先輩は迷うことなく反論した。
「確かに新総裁の異次元緩和によって円高には歯止めがかかり、輸出企業の業績や株価も大幅に改善しました。しかし、それは政権や日銀総裁の交代時期が重なり、同時に国債価格の暴落を抑える幾つかの法案が通った直後だったために、実現可能となったことです。同じ政策を旧政権の体制で行って、同様の効果を得られるとは全く思えません。だって、買い上げたお金で金融機関はまた国債を買ったじゃないですか?」
「えっ、えーっとだね……」
「例え旧体制の日銀が、基金を通じて銀行から大量に国債を買い入れていたとしても、民間銀行の当座預金が積み上がっただけでしょう。それでどう円安に振れたのでしょうか? まさか民間銀行があの円高トレンドの中、政府のように為替リスクを背負ってまで外債投資を行ったとでも? 政府日銀の新体制以降、為替や株価に改善傾向が見られた理由は、政府日銀の方針が内外の期待と一致していた点にあります。政策や中央銀行の行動が、単純にそのままマーケットに反映される訳ではありません」
「そ……そうだね……」
恐らくおっさんの様子から察するに、イケメン先輩の言っていることが専門的過ぎて理解出来ていないらしい。
いや。
そもそもこの場に理解出来ている者がいるのだろうか?
「先程ご自身でもおっしゃいましたよね? 我が国の国債はその殆どが国内で消化されていると。しかし、それを免罪符に財政ファイナンスを行って公共事業を実施するならば、確実に価値あるものが創造されなくてはなりません。不要な箱物やインフラに円と労働力を使えば、総合的国家価値の毀損につながります。なぜなら、一度作った箱物やインフラには、『維持費用』と『処分費用』の両方が確実に生じるためです。作ってしまえばそれでいいとお考えかもしれませんが、その後の負担を押し付けられるのは、結局のところ次の若い世代なのです。『価値の創造』が容易に出来るのなら民間が既に行っているでしょう。そもそも自発的に行われ、新たなイノベーションを生み出す状況こそが経済構造上最も好ましい。利益と優位性のために自発的に行動するから、より良いものを生み出す。それが自由競争の醍醐味でしょう?」
先程まで自信の塊のようだったおっさんが、伏し目がちに閉口している。
イケメン先輩は更に言葉を重ねる。
「輸出を伸ばすようにと主張されるお気持ちはわかります。しかし新入生の彼が述べた通り、我が国の輸出依存度は11%強です。これは中国の半分以下、ドイツの3分の1、韓国に比べれば僅か4分の1です。これは輸出競争力の増加によって得られる国民の利益、経済効果が限定的であることを示しています」
イケメン先輩は席を立ち、ゆっくりと会議室の中を歩き出す。
まるで周囲の目を意に介さないような、自信に満ちた所作である。
「通貨安を目指すべきだとおっしゃっていましたが、政府が国債を発行して円を調達し、それで米ドルを買うという政府主導の為替介入では、結局のところ国家財政の歪みを大きくします。なので当時の私は『日銀の外債購入』についても考慮すべきかと考えていました。まあ、今は酷い円高にはないので、論ずる環境下にさえありませんがね……」
私は聞きなれない言葉に耳を傾ける。
「外債を購入するための円を国会の承認を経て発行し、その承認枠の範囲内で日銀が適切に外債を購入して為替を安定化させるというものです。これなら投機筋に足元を見られたりすることもない。日銀の存在意義ともいえる物価の安定にも寄与することが出来る。外債購入に必要な通貨発行量の上限も、オープンな形で国会の承認を得れば、無秩序で唐突な介入トレンドも生み出さずに済む。上限枠なので使い切らなければならない訳でもない。購入の対象が外債であるため、日銀が嫌がっていた財政ファイナンスとも異なり、日銀資産の偏りも調整出来て円の信用背景に連動性をもたせることだって可能だ。なんせその連動性のなさが過剰な円への信用、円高トレンドを生み出していたのですから……。なによりも、グローバル化した経済環境の中で、外的要因で通貨が独歩高に陥る現状は良くありません」
「う、うん……そうだな。ははは……うんうん、そうだ。それで為替を調整すればよかったのだから、やはり日銀が動くべきだったのではないのかね……?」
「日銀は動けませんでしたよ」
「え? どういうことかね?」
「日銀が単独主導で円売り介入を行うことは制度上困難だからです。現在の円売り介入は政府主導であり、政府が国債を発行して円を調達した後で日銀を通して実行されます。もしも日銀が自らの意思で外債を購入するならば、何かしらの国会審議が必要となるでしょう」
「……そ、そうか……」
「では、ここで質問です。法改正や国会審議が出来るのは、一体どこだったのでしょうか?」
「……うっ…………」
「世間からは日銀が何もしないと批判する声も上がっていましたが、一方で日銀に新しい権限を与えるどころか、日銀の独立性を奪おうとする動きさえほんの数年前には政治サイドでありました。経済成長を遂げた我が国のシステムを、総裁解任権があった戦時立法時にまで戻すつもりだったのでしょうか? 専門家から権限を奪い、来年いるかも分らない政治家に権限を集めるなど、世界中の笑いものになるだけでしょう」
そこまで言うと、私の目の前でイケメン先輩はハッとしたように立ち止まった。
「――おっと、調子に乗り過ぎました。これくらいにしておきましょう。別に私は旧日銀を擁護する立場でもないですしね。今になって考えてみたら、旧日銀の対応も穴だらけですし」
「そ……そうだね……。ははは……」
何かから開放されたかのように、力無くおっさんは笑った。
「お気を悪くされないでください。労働者の賃金に関しては、経営的にみて一定の理があると思いましたよ」
「そ……そうだろう。うん。そうだ」
「経営リスクを何一つ背負っていない雇われ社員が、経営に口を出すのは企業の構造上おかしい。気に入らないなら、別の会社で働くか起業するのが資本主義の原則ですからね」
「う、うん。そうだ、その通りだ」
ギリギリのところで顔を立てられたゲストは、少しだけ自信を取り戻したようだった。
長い長い嵐が、漸く過ぎ去った。
現在会議室は、何がなんだか分らない言葉がイケメン先輩の口から続いて飛び出し、それで全てが決着したような状態だ。いや、正確にはイケメン先輩が口を開いた瞬間から、ゲスト側になにか大きな変化があった。
そう、女市弥生子にも……。
イケメン先輩は散々無双しておきながらも、最後にはおっさん側の顔を立てていた。勝ち過ぎないよう、恨みを持たれないよう、何かしらのバランスを取ったのかもしれない。しかし私の中には、それに対してさえ煮え切らない思いが膨れ上がる。
(違う……イケメン先輩の最後の主張は、資本主義経済が完成されているという前提の意見だ……)
頭に血が登り過ぎているのか、私の気持ちの昂ぶりはなかなか収まる様子がない。
このままでは、その矛先をイケメン先輩にまで向けてしまいそうな勢いであった。
(落ち着け……イケメン先輩は行き詰まった私を助けてくれたんだ。今、あの人とやり合うのはおかしい)
私は大きく深呼吸をして、周囲を見渡した。
司会の倉井さえも、自分の役割を忘れてポカンとしている。
(で、結局これは……誰の勝利なんだ?)
確かにイケメン先輩は生徒側である。しかし、あれだけ口が回るのなら、なぜ最初から他の生徒と一緒に論議に参加しなかったのであろうか?
文字通り注目の的であるイケメン先輩であったが、突然、くるりと私の方へと向きを変えた。そして興味津々といった表情で私に尋ねてくる。
「きみは1年生だよね?」
まるで予行練習でもしたかのように、サッと皆の視線が私の方に向く。
(くっ、何なんだこの注目されようは……。というかイケメン先輩フリーダム過ぎるだろ? 倉井も司会なら止めるべきじゃないのか?)
私は倉井の方をチラリと見てみるが、倉井も私の方へと注目していた。
(駄目だ、もはや全員がイケメン先輩のペースに飲まれている……)
止める者が誰もいない現状を理解し、私はしぶしぶとイケメン先輩の質問に答えた。
「はい、1年です」
「名前は?」
「河芝です」
「河芝か、いい苗字だ。実に『経済に精通してそうな苗字』だね」
そう言ってイケメン先輩はクスリと笑った。倉井やゲストの一部からも笑みがこぼれ、なるほどといった声が聞こえてきた。
白川先輩はおそらくジョークのつもりで言ったのだろう。
だが私は、まったく笑えない。
「経済は誰に教わったんだい?」
「……ほぼ独学で」
「本や雑誌で?」
「ネットが多いです。後は新聞とか、テレビで見るニュース番組とか、図書館で調べたりとか……」
「へぇ、大したものだよ。殆どの人が経済は難しいと思い込んでいたり、大学で教えてもらうものだと思っているのに。きみは中学の頃から勉強していたんだね」
イケメン先輩は、私のIDカードを覗き込みながら言った。
「では、なぜその苗字が経済に精通してそうなのか…………きみには分かるかい?」
実に楽しそうな表情で、イケメン先輩は私のIDを眺めている。
「おや……漢字まで一緒だ。実はきみのその苗字と同じ人がね、僕が尊敬する人なんだよ」
白川先輩は、何も答えない私に向けてそう言った。
私は目を瞑って、ため息をつく。色々とどうしようかとも迷ったが、ここにきて『隠すこと』が愚かしく思えてきた。
何故か?
それは女市弥生子の存在があったからだ。
私がこの学校に無理してでも入学した理由は、大好きだったじいちゃんがこの学校の出身者であり、ここでなら金融や経済について徹底して勉強できると考えていたからだ。
しかし、お恥ずかしい話であるが、ここ1週間、私は学校や勉強のことなんかよりも、ずっと女市弥生子のことばかりを考え、彼女のことばかりを調べてしまっていた。私の目に映る彼女は常に完璧だった。自分の生まれを何一つ隠さず背負って、それに恥じない完璧な人間として生活している。
私にはそれが無理だった。自分があまりに隙だらけで、不完全で、未熟な人間であるかを自覚していたからだ。
だが、彼女は違った。
絶え間なく完璧に積み上げて現在ここにいる。更に上を目指すかのようにこの学校で新入生として生活している。この1週間を見る限りでは完璧な努力と完璧な立ち回りを続けている。きっとこの先も完璧であり続けるのだろう……。
(あまりに眩しい……)
私はまぶたの裏に見た眩しさから目を開き、そして眼前の彼女を見据えた。現実の女市弥生子は今、すぐ傍で私のことを見つめている。大きな目を見開いて、目が合っても物怖じ一つせずに、吸い込まれるような黒い瞳で私を直視している。
(なんて完璧な黒なんだ……)
それを見た私は、自分でもよく分からないことを心の中で呟いていた。
1週間前、咲きかけの桜越しに見えたあの完璧な姿は、今、更に輝きを増して目の前にある。それは私ごときが理想と呼ぶことさえおこがましい程に美しく、そして太陽のように眩しい……。
私は目を閉じていても開いていても眩しく映る女市弥生子から視線を外し、照らされることを観念したかのようにこう言った。
「河芝元日銀総裁は――――私の祖父です」
私が口を開くと、会議室に静寂が訪れた。
ほんの一瞬のことなのだが、私にとっては非常に長く感じられた。私の非日常的な言葉を理解するのに、少しばかりの時間が必要なのは分る。だか、この微妙な間は非常に辛い。最初にイケメン先輩が、節分イベントに乱入してしまった鳩のような顔で尋ねてきた。
「……マジ?」
私は答えた。
「マジです」
ゲストや3年生の殆どが一気にざわつき始め、反対に1年生達はきょとんとしている。
「……う、うそでしょぉ?」
倉井も分かりやすいリアクションで驚いている。
女市弥生子は――――というと、その目を更に大きく見開いていた。表情には驚きも混じっているが、これはなんと言えばいいのだろうか? そう、多分これは好奇心だ。物心がつく前の子供のような純粋な目、太陽黒点のように眩しさの中に潜む深い黒、ブラックホールのように吸い込まれてしまいそうな黒。本当に、なんて完璧な黒なのだろうか。
「驚いた……女市大臣の孫だけじゃなく、あの河芝総裁の孫までこの学校に来ていたなんて」
興奮気味にそう言うイケメン先輩の表情は、喜びに満ちている。
そんなイケメン先輩の表情を見ていると、私もどこか油断してしまったのだろう、我慢していた言葉を、つい不意に漏らしてしまった。
「先輩……労働者が経営者側と対等でないのは、やっぱりおかしいと思います……」
非常に小さな声で言ったのだが、イケメン先輩の耳には届いていたらしい。
イケメン先輩は少しだけ真顔になり。
「……へぇ……」
とだけ言って、また直ぐに笑顔に戻った。
「だって、労働者がいなければ……会社は……」
そこまで言うと、イケメン先輩は人差し指を私の口元に立てて制止した。
「言いたいことは沢山あると思うけど、今日の討論はここまでだ。機会があったらちゃんと相手になる。今日はね、ほら」
そう言って、イケメン先輩は周囲を見渡す。
すると……。
「河芝くん! 河芝元総裁について聞かせてくれないかっ?」
「女市さん! 河芝くんとの関係は? 二人がこの学校に入ったのは偶然かね?」
「二人共、どうしてこの学校に? やっぱりお祖父さんの卒業高校だから?」
「白川くん、知っていたのかね? だから君まで再び討論に――」
まるでマスコミのようにおっさん達が席を立ち、私や女市に群がり始めている。
「ねっ? 女市に取り付こうと考えていたゲスト達が、今は君にまで取り付こうとしている。こんな状況で討論は無理だ」
そう言った後、イケメン先輩は倉井の方へ向かった。そしてイケメン先輩は倉井に一言二言囁いた後で直ぐに席に戻っていく。その直後、倉井が間を空けずに皆に挨拶をしてから新入生研修は一先ず終了となった。
ゲストや3年生から先に退室するものだと思ったが、1年生が先に会議室を出て、そのまま直ぐに帰宅することになった。恐らく、私や女市弥生子がゲストに絡まれないようにとの配慮があったのだろう。
こうして、新入生研修は無事(?)に終わったのだが、この出来事が私の高校生活の方向性を決定づける要因になっていたとは……。
その時はまだ知る由もなかった。
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