ヘリコプター・ベン

 立ち上がった私はノートを眺めながら、これから何を質問すべきかを考えていた。


「えーっと……」


 私は討論中の発言が書かれたページを見ながら、頭をフル回転させるが。


(まずい。手を上げてはみたものの、質問が浮かばないぞ……)


「どうした、言ってみろ?」


 畜生め、倉井が急かしてくる。

 半ばパニックになりかけた時、ノートに書いておいたある部分が私の目に入った。

 それは先ほど、おっさんと三年生が討論していた時に気づいた箇所。


(そうだ……確かここは咄嗟に反論したいと思ったんだ……)


「えーっとですね」


 私は恐れからゲスト側に目を向けることも出来ず、ノートを見つめながら質問を始めた。


「先程討論中に、サブプライム問題についてのご説明があったのですが、サブプライム問題についてもう少し詳しく聞かせて頂けないでしょうか?」


 おっさんは虚空を見つめながら、思い出すようにして答えた。


「あぁ……そういえばそんなことも言ったな。よしいいだろう」


 おっさんは再び腕を組むような姿勢で肘をついて、身を乗り出しながら話し始めた。


「世の中には信用が高い人と信用が低い人がいる。信用の高い人に住宅向けのお金を貸すのがプライムローン、信用の低い人にお金を貸すのがサブプライムローンだ。信用の高い人はお金をちゃんと返してくれるから、貸したお金につける利子が低くていいんだよ。逆に信用の低い人はお金をちゃんと返してくれないことがある。だから返してくれない人が多少いても大丈夫なように、利子が高く設定されているんだよ。――ここまでは分かる?」


「はい、なんとか」


「ほぅ……。では続けよう。サブプライム問題というのは、その信用の低い人達が沢山お金を返さなかったことが原因で起こったんだ。彼らは自分の収入が低いのに、無理してお金を借りてマイホームを買った。当然お金を返してもらえないと、銀行とかが困っちゃうよね? サブプライム問題とは、アメリカのお金を返さない人達が世界中に迷惑を掛けたことを指すんだ。だから身の丈を超えた消費や、そういう人達に頼った景気誘導をするのは駄目なんだよ」


 ここまでのおっさんの説明を聞いて私は確信した。


(やはりか……。このおっさん、サブプライム問題の本質を履き違えている)


「失礼ですが――」


 私はそう言うと、鼻から大きく深呼吸をした。


「サブプライムがお金を返してくれない人達を考慮して金利を高く設定しているのなら、金融側のリスクと、高い金利を得るというリターンが釣り合っているということではないでしょうか? お金をどれだけ信用度の低い人が貸してくれと頼んでも、金融側が貸さなければ最初から成立しない訳ですし……」


 私の発言に、おっさん達が怪訝そうな顔をする。


「……ん、どういうことかね?」


「すみません、えっと…………お金を返さなかった人も確かに悪いと思いますが、お金を返せなくなりそうな人にお金を貸した、金融の側も悪いのではないかと……。それに――」


 私は再び鼻から大きく息を吸い込んだ。


 面倒くさい。

 もう隠すのはやめだ。

 私は――――私の意見を主張する。


「それに、そもそもサブプライム問題が世界中に波及した原因は、金融が貸したお金を債務者から回収する権利、即ち債権が不良債権化しつつあることを知っていたにも関わらず、優良債権のように見せかけて世界中にばら撒いたことにあります。ただ売ったのではありません。分割し、信用度の高い証券に抱き合わせて売りさばいたのです」


 突如饒舌になった私の口調に、場の空気がスッと変わるのを感じた。おっさん達も、周りの生徒達も、そして担任の倉井も皆が虚をつかれたようにポカンとしている。


 自分が何かとんでもなくズレたことを言っているような疎外感があったが、最後まで言い切るように踏ん張った。


「貸したお金が返ってこない――――ただそれだけなら1つの金融機関と、1つの借り手の間にある問題です。しかし、目の前のリスクや損失を一部の金融機関が受け入れたくないばかりに、他人や国際市場に擦り付けてしまえば、世界中の問題になってしまいます。こうして世界中にばら撒かれた優良債権に見せかけた不良債権の存在が発覚し、世界中の金融機関が損失の規模も分らずに疑心暗鬼になってしまいました。お金は経済における血液であるとも言われますが、猜疑心からその血液の流れが止まってしまったのです。そうして、この連鎖的ショックは、150年続いた大企業リーマンブラザーズをも破綻へと導きました。これが後に言う『リーマンショック』です」


 視界の端、三年生達の一番向こう側で、ずっとやる気がなさそうに目を伏せていたイケメン先輩が、チラリと私の方を一瞥したような気がした。


 私は自分の意志が揺るがないよう、恐れを振り切るよう、なおも言葉を吐き出し続ける。


「この経済危機の本質は、儲け主義の金融機関や複雑化した証券システム、そしてそれらの嘘を見抜けずに高く評価していた格付け会社にもあります。自分達さえ儲ければ、自分達さえ損をしなければ世界経済がどうなってもいい――――そんな心根を持つ人間が本当に世界を狂わせてしまった。アメリカの低所得層には、アメリカで懸命に働き続ければいずれは自分の家を持てるようになる、そんな夢を抱いている人が沢山います。そんな彼らに金融がお金を貸すと言うのなら、やっと夢が適うのだと思って飛びつきたくもなるでしょう。そんなごく普通にマイホームを夢見た彼らと、悪意に作為を重ねて自分達のミスを隠し、利益を追求した金融機関。どちらに問題があるのかは明白ではないでしょうか?」


 会議室の中はシーンとしている。


 自分が非常に浮いた存在のような気がして、なにか冷たいものが体の芯を貫いていくような感覚さえ覚えた。


 緊張で口の中が乾く。

 しかし、今更後になど引けない……。


「私が気になったのは、サブプライム問題だけではありません」


 そういうと私は、おっさんを直視して言った。


「諸悪の根源が『日銀』である、とは一体どういう意味でしょうか?」


 会議室は水を打ったように静まり返っている。

 しばらくして、おっさんがハッとしたように口を開いた。


「な、なんだ……日銀の話か、はははっ……」


 おっさんはまた余裕ありげな笑い声を出すと、しぱしぱと瞬きを何度かして答えた。微かにその声は震えている。


「えーっとだな……そうだな……。数年前の政権交代まで、我が国が極度の円高にあったということは知っているかね?」


「はい、ニュースで聞いたのを覚えています」


「ニュース……そうか、きみはニュースをよく見るんだね。うんうん、そういうことだったのか……」


 おっさんは独り言のようにそういうと、何か自分の中のプランが決まったように、先ほどまで見られた狼狽を消して、自信ありげに話し始めた。


「円高が進むとどうなるか分るかね?」


「……輸出企業が不利になり、輸入品が安くなります」


「その通りだ。我が国は輸出国であり貿易黒字国だった。今までそうであったし、一時的に赤字に行くことがあっても、またすぐに貿易黒字を維持するだろう。なぜか分るかね?」


「日本の輸出企業が強いからでしょうか?」


「分かってるじゃないか。自動車など輸出企業が我が国の武器なのだよ。ならば我が国が取るべき成長戦略の構図は実に単純明快だ。外国から買って失うお金より、外国に売って得られるお金が多ければ黒字になる。つまり稼げるということだ」


「その理論は……一応分ります」


「ならば逆に私が質問しよう。円高と円安、一体どちらが必要かね?」


「…………」


 おかしい。


 ただ話を聞いていただけだったのだが、気づけばおっさんの方がずっと優位に立っているような空気になってしまった。


(しまった――――サブプライムの話だけをもっと掘り下げておくべきだったか? そもそも私は、円高を賛美するような発言はしていないぞ。このおっさん、こちらの質問を遠ざけて、自分が得意な話題だけを利用してきたっ……)


 いつの間にか後手に回ったことを意識すると、途端に焦りや恐怖心が自分の中に湧き上がって来る。さて、どうやって真意を示すべきか……。


「分りません……しかし」


「分らないぃっ? そんなはずはないだろうっ! 君は理解出来ているはずだっ!」


 今までになく強い口調で問い質すおっさんのプレッシャーに、手足が震えてくる。まるでパワハラでも受けているような気分である。


(先に喧嘩を売るような言い方をしたのは私だ……ここで簡単に引き下がれば、ここにいるすべての生徒がおっさん達に屈服したことになる……。駄目だ、駄目だっ。そうさせない為に上げた……この右手だっ……)


 私は僅かに震える右手を握り締めた。


(震えている場合じゃないっ!)


 しかし、そう思って握り締められた右手は、すぐに拳ごと大きく震え出そうとしている。


(くそっ! 偉そうなことを言っておいて、なんて私の心根は弱いんだっ。落ち着け、落ち着けっ、落ち着いてくれっ……)


 混乱する私に向けて、おっさんは更に畳み掛けてくる。


「通貨を安くして、どんどん輸出品を売る! 安い労働力を使って、どんどん価格競争力を上げる! 他に何があるっ!?」


 経験不足ゆえの怯えだろうか。

 おっさんの目を見ることが出来ない。

 怖くて、おっさんの目を見ることが出来ない……。


 ノートばかりに目が行ってしまう。

 ノートを見てもどうしようもないのは分っている。

 それは分っている。


 だが、怖くてしょうがないのだ。おっさんを直視することが怖い。義務教育を終えて、高校生になったばかりの私を本気で論破しようとする大人達が怖い……。


(くっ、駄目だ駄目だっ。論破されようと、言いくるめられようと、恥をかこうと。相手の目を見て、胸を張るんだっ――)


 例え何一つ言えなくなっても、ボロボロに打ち負けても、負け様というものがきっとあるはずだ。私は恐怖からノートに落とした視線を、必死で上げようとした。


 視線を上げる、ただそれだけの行為さえもが果てしなく困難なことに思える。

 だが上げるのだ、自分が屈服していないことだけは証明しなくてはならない。


(何も言えなくてもいい……とにかく顔を上げるんだっ!)


 ようやく思いが体に通じたのか、少しずつだが視線が上がっていく。


 なんとか視線がノートとおっさんの間の辺りに来た時――――私はある『異変』に気がついた。先程まで私の目の前にあったつややかな後ろ髪はなく、代わりに黒く美しい二つの瞳がある。それは。


 女市弥生子。


 そう、女市弥生子が振り返り、私の顔を直視している。

 いや、直視どころではない。

 お互いの目と目が合っている。


 張り詰めた空気の中。

 今、私と女市弥生子が見つめ合っているのだ。


 私は自分にかかっているプレッシャーさえも忘れ、ただその吸い込まれるような深く美しい瞳に見入ってしまった。時間にすれば2、3秒くらいのことだったと思う。だが、確かにその瞬間に私は、さっきまで自分を苦しめていた思いの殆どを忘れていた。


 意表をつかれた私は、再びそっとノートに目線を戻してしまう。


 しかし、気分は悪くない。

 体が軽くなったような気がした。

 もう焦りの殆どが吹き飛んでいる。震えもない……。


(落ち着け――――迂回すれば活路が見出せるはずだ)


 私は再び鼻で深呼吸をし、口の乾きを潤すように唾液を飲み込んだ。


(大丈夫だ、まだやれる)


 そう実感した私は再び口を開いた。


「――私が分らないと言ったのには理由があります」


「なんだ、理由? ほぅ、聞かせてもらおうか」


「通貨安によって確かに輸出企業の業績は改善されました。しかし、国全体の貿易収支が改善されたとは言い難いからです」


「そ、それは時間の問題だろう。日本企業の価格競争力が高くなった影響が、企業や各地の消費者マインドを改善させるまでには多少時間がかかるはずだ。事実、2015年度以降の貿易収支はかなり盛り返したとも聞くじゃないか」


「2015年度? それは輸出というより、原油安による輸入負担の軽減効果が大きいのではないでしょうか?」


「……ぐっ……」


「過剰な通貨安政策に否定的な理由を述べるならば、他にも理由はあります。サブプライム問題やリーマンショック以降、行き先を失ったマネーが物へと向かい、エネルギー資源や希少金属を中心とした物価を押し上げてしまい、世界中が商品価格上昇の影響で苦しむことになりました。あの時、我が国に物価上昇による悪影響がどの程度押し寄せたでしょうか? 当時は円高だったからこそ、我が国は印象に残らない程度の軽傷で済んだのですよ」


「商品価格上昇による悪影響だと? 馬鹿を言っちゃいかんよ。我が国はデフレ克服の最中にあっただろう?」


「例の大災害以降の復興特需や、原発停止による火力発電の稼働率上昇から我が国ではエネルギー資源に対する需要が高まりました。もし当時、強い円安に触れていたらどうなっていたでしょうか? 今以上に各電力会社の発電コストは高まり、ガソリン代の高騰によって、運送業や一次産業にまで負担が拡大していたことでしょう。それこそ、輸出企業の利益を帳消しにして余りある程に」


「そういう一面もあるかもしれないがっ――」


「現在の為替レートを不当とは思いません。ですが通貨価値にはそれぞれ適正ラインがあるのです。現状を更に大きく変える必要は見られません!」


「ふん――――君はまるで分っていない。円安になり輸出産業が伸びれば、輸出産業で働く多くの国民が恩恵を得る。トリクルダウンって奴だ。折角政府が円高阻止の為にやることをやっていたのに、なんだったんだあの旧日銀の腰の重さは」


 日銀という単語に、私の心は再び乱される。


「くっ……。輸出輸出と何度言っても日本の輸出依存度はかなり低い! 現に円安は貿易赤字を一時的に拡大させたじゃないですかっ!」


「一時的にだ! 円安に振れれば製造業の雇用も増す! 大規模な為替介入を行った政府はともかく、当時の日銀はなにもしなかった! FRBさえ雇用に責任を持つというのに、日銀は――」


「失礼ですが! それ程までに、旧日銀に何を望まれていたのでしょうかっ!」


「ははっ、知れたことだ。何度も言っている通り、円安を誘導するんだよ。FRBも様々な手を尽くして当時はドル安を誘導していただろう? それがアメリカの貿易赤字解消に、アメリカの経済成長に不可欠だと考えていたからだ。FRBが実施していた政策なのに、なぜ日本も同じことをやらなかった? 総裁が変わり、異次元緩和を行うまでの間ずっと!」


「……それは……」


 それには複合的な理由があると考えた。しかし、それをどう説明したらいいのか。私が説明の仕方について考えていると、おっさんは馬鹿にするような表情を浮かべる。


「んんー、どうしたぁ? ああそうか……そういうことか……」


 おっさんは口元を緩めながら自信ありげに言い放った。


「ひょっとして君はFRBを知らないのかね? 方針どころか、FRBが何なのかさえ分らないから何も答えられなくなったのではないかね?」


 ここが勝機と思ったのだろう。

 おっさんは周りの顔を見回しながら言った。


「はっはっはっ、こりゃ参ったね、これでは話が通じない!」


 他のゲストのおっさん達もまた、同調するようにして笑った。


 今までの会話からして、私がFRBについて知らないはずがないだろう? 恐らくは、相手を貶して自分の優位を演出しようとしているのだ。場の雰囲気を無理やり有利に運ぼうとする姿勢、それを手伝う他の大人達の大人気ない連帯感。その胸糞悪い様子を見た瞬間、私の中で「カチン」と音がしたような気がした。



「――今はっ! ヘリコプターの話をしているんじゃないっっ!!」



 半ば怒鳴るようにして、咄嗟に言葉が口を出た。私の突拍子もない発言を聞いて皆がポカンとしている中、一番奥にいるイケメン先輩の口元だけがニヤリと動いた。


 ゲストのおっさん達が感情的になった私に、まるで勝利を確信したかのように次々と言葉を放ち始める。


「ヘリコプターは何の関係もないよ」

「なんだ、やはりまだ新入生では分らなかったようだね」

「FRBという飛行機メーカーがあると勘違いしちゃったんじゃないか?」

「いやいや、FBIと勘違いしたのかも知れませんな」

「はっはっはっ」


 ……失敗した。


 感情的になると出る、私の悪い癖が…………ここで出た。


 集団で馬鹿にしようとする彼らに感情的になってしまった私が、これ以上討論を仕掛けることは不可能に等しかった。荒ぶる感情から唇がプルプルと震えている。


 私は挑発に乗ってしまったのだ。更に口を開けば、出てくるのは知性の欠片もない醜い言葉くらいだろう。ここまで高まった感情を再び冷静に立て直すことは難しい。

 自分の中で、後悔と失望感が広がる。


(失敗した……失敗した……。こんな精神状態では……こんな場の空気では……もう勝ち目がない……)


 そんな考えが私を支配し始めた時だった。

 突然聞きなれない声が会議室に響いた。


「確かに、僕もおかしくてしょうがないです」


(この声は……誰だ……?)


 私は咄嗟に声のした方向へと視線を向ける。

 その声の主は――――。

 なんと、今まで無言を貫いていたイケメン先輩であった。

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