第二章 ファーストディベート

理由ある反抗

 時刻は午後3時半過ぎ。

 6時限目が終わり、帰りのホームルームがもうすぐ始まる。


 予定通り、本日は帰りのホームルームの後に『新入生研修』というものがあるらしい。倉井の説明によれば、研修といってもそれほど難しいものではないらしく、要は上級生と外部からの社会人ゲストが討論しているところを見学しに行くのだ。


 後で見学した感想についてレポートを提出しなければならないが――――まぁ、適当にメモをとって、それを基に無難な文章を書いておけば問題ないだろう。


「ロリこん達が今日は研修みたいだね」


 サダが机の横から声をかけてきた。教室内でそのあだ名を使うんじゃない。


「ああ、出席番号の早い順に男女混合だってさ」


「それじゃ、俺は最後辺りってことかぁ」


「早い順に男女それぞれ3等分だから、まぁ多分そうなるだろうな……んっ?」


 そこまで口にした私はハッとした。

 出席番号は苗字の頭文字から、あいうえお順に振られている。私は河芝の『か』なので比較的早く、サダは山本の『や』なので最後辺りという訳だ。


 それでは『女市』という苗字ではどうだろうか?


 恐らく、頭文字が『お』である女市弥生子は出席番号が早いので最初のグループ、つまり、本日私と同じグループで参加する可能性が高いのではないだろうか?


 同じ学校の同じ学年というだけでなく、クラスまで同じだった私と女市弥生子。更には今回の新入生研修まで一緒となると、これはもう2人は大いなる運命によって引き寄せられているといっても過言ではなかろう……。そんな調子に乗った考えもチラリと頭をかすめたが、贔屓目に見ても過言である。


 まず、運命云々を語るには私以外の男子が多過ぎるのだ。これでは私以外にも運命の男が何人もいることになってしまうだろう。それに、彼女は女子からも人気なのだ。私を含めて、男女共に全員が女市弥生子に好意を持っていても不思議ではない。


 運命とは数字や確立で論じられるようなものでは無いのかもしれないが、それでも事象を客観視する上では参考となる。


 それに、だ。


 必ずしも憧れの人と一緒に居ても良いことばかりでは無いだろう? もしも研修中に私が恥をかけば、私の株が暴落することにさえなりかねないのだ。因みに私の株式は一般公開されていないので、暴落すると言ってもこれは比喩である。


 私がスーパーコンピュータ京並みの処理速度を誇る自身の灰色脳細胞を使って高度な推測と考察を行っていると、倉井が教室に入ってきてホームルームが始まった。


「それじゃ、頑張ってね」


 そう言うとサダは自分の席に戻っていく。別に頑張るほどのものでもなかろうに。


 ホームルームの最後で倉井は出席番号の早い男女7名ずつの名前を呼び、本日行われる新入生研修に参加するようにと伝えた。


 その中には予想通り、私と女市弥生子の名前が含まれていた。





 ここは校舎南側2階にある会議室。

 窓際に設置された見学席に、女子が前列、男子が後列の2列になって座っている。


 首には全員が初日に貰ったIDカードをぶら下げており、新入生研修というよりはまるで新入社員研修のような雰囲気だ。我々が座っている見学席さえもがパイプ椅子ではなく、ちゃんとした固定の椅子になっていることから、学校がこの行事に随分と力を入れていることが窺える。


 因みに――――私の席の前にはなんと、女市弥生子が座っている。

 所謂、過去最大級の大接近というやつだ。


 黒髪のサラサラロングヘアーが今まさに間近にあり、その色や艶は近くで見るといっそう引き立つ。鼻から息を吸い込むと良い香りがしてきそうな気がして、ついつい過呼吸気味になってしまう。ありがとう『か』で始まる苗字にしてくれたご先祖様……。


 そんなこの上なく恵まれた環境を満喫していると、倉井が会議室に入ってきた。

 倉井が見学席の端に座ると、すぐにまた数人の生徒達が入ってくる。


 IDカードはストラップの色で学年が分かるようになっており、1年生が『緑』、2年生が『黄』、3年生が『赤』だ。そして今入ってきた生徒達が『赤』なので、つまりは3年生ということである。


(――ん?)


 その時、女市弥生子の視線が明確に反応したことを、私は見逃さなかった。


(なんだ、一体どうしたんだ?)


 ずっと落ちついた仕草しか見せていなかったからなんだか珍しい気がして、私はすぐにその視線の先を追った。


 彼女の視線の先は――――恐らくあの3年生男子。

 明るい栗色のシャープショートに、美しく整った顔立ち、そして理想的な高身長。

 俗にいう、イケメンって奴である。


(ぐぬぬ……やはり女市弥生子といえども年頃の女子。ああいうイケメン先輩に憧れるということなのかっ?)


 卑屈な思いが、ジリジリと自分の中から滲み出る。


 そんな場違いな葛藤を私が抱いていると、今度はスーツを着たおっさん達が入って来た。おっさんの一人はイケメン先輩に挨拶をしている。ひょっとしたらイケメン先輩は3年生の中でも少し特別な存在なのだろうか?


 おっさん達は3年生と向かい合う形で席に着いた。それを確認すると、倉井が立ち上がってしゃべり出す。


「えーゲストの皆さま、本日もお忙しい中、東野高校討論会においで頂きありがとうございます。今日は新入生研修を兼ねておりますので、生徒同士ではなく、ゲストの皆さんと生徒達との間で議論して頂ければと思います」


 倉井の話から察すると、普段は生徒同士で討論を行うらしい。

 倉井は周囲を見渡しながら、議題を告げる。


「本日の議題はズバリ、我が国、つまり『日本の成長戦略』についてです」


 いきなり、倉井の口から物凄い議題が飛び出した。少なくとも普通の高校生が日常生活を送る上では、頭をかすめもしない題材であろう。


 私は慌ててノートを広げて、議題、日本の成長戦略について、と記した。ノートを取らなければ、いざレポートを書く時に、何がどういう流れで話し合われていたのかが正確に書けない。ふふっ、我ながらなかなか良い反応だと思った。


 隣の男子も私に倣って、慌ててノートを開き始めている。では、前に座っている女市弥生子はどうか? というと、やはり当然のようにノートを取っていた。


(うんうん、流石だ)


 感心しながらも、彼女がどのようなノートの取り方をしているのかが気になり、少し首を伸ばして肩越しに覗き込んでみる。すると、何とも美しく整った文字がノートに並んでいた。


(――ん? 並んでいる?)


 おいおい待て待てなんてことだ、議題どころか既に10行以上の何かが書かれているではないか。


(何だ? あのノートに並んだ名前は? ひょっとして出席者の名前なのか?)


 私はおっさん達に視線を移す。確かにおっさん達もIDカードをぶら下げている。おっさん達のストラップの色はゲストの白、因みに教員は黒である。


 おっさん達のIDに書かれた名前は、目を凝らせば見えないこともないが、角度によっては光が反射していてよく分からない。これを全て短時間で視認するのは不可能だろう。


 つまり――――そこから導かれる結論は1つである。


 女市弥生子は予め参加者リストを確認していた。もしくはおっさん達の顔と名前を既に知っていたので入って来た瞬間にスラスラと書けたのだ。


 導かれた結論が2つになってしまったが、どちらも似たような結論だから問題ない。つまりは、彼女の事前準備が万全だったということである。完璧ともいえる女市弥生子という人物は、こうした地道な積み重ねの上に存在しているのかもしれない。そう思うと、ますます彼女の後姿が凛々しく見えた。


 生徒達がノートを取る様子を見て軽く頷くと、倉井は再び話し出した。


「現在、世界経済は非常に厳しい局面を迎えております。アメリカ型資本主義経済破綻の可能性さえ噂されたサブプライム問題。そして、それに次ぐリーマンショック。ギリシャに端を発し、スペイン、更にはEU第三の経済規模を誇るイタリアにまで飛び火した欧州債務危機問題。そんな世界中が疑心暗鬼に陥っている中で、我が国も大規模自然災害に見舞われ、エネルギーコストの上昇などから多大な貿易赤字を出すに至りました。昨今では相次ぐ国際テロ、中東紛争と難民問題、そして中国経済の減速……今や世界中が閉塞感に苦しんでいます」


 倉井の口から出てくる言葉を、生徒達は必死にノートに取っている。


 しかし、私はこの時点で内容をノートに取る必要性を感じなかった。不思議に思って横を覗いてみると、他の生徒は倉井の発言の一字一句を書き取ろうとしている。私はポカンとしてしまったが、女市弥生子を見ると彼女もペンを動かしている様子はない。私はそれを見て少し安心した。


 私が倉井の言葉をノートに取る必要性を感じなかったのは、今倉井が述べている内容は既にネットやニュース番組や新聞などで報じられてきた『基本的な出来事』だったからだ。


 はっきり言えば、いまさらノートに書き写すまでもない事なのだ。恐らく女市弥生子も、同じような理由でノートを取らないのだろう。私は彼女に不思議なシンパシーを覚えた。


 倉井は話を続ける。


「我が国のお家芸であるものづくりさえ、途上国の技術向上や低価格競争に後れを取り始めています。我が国の産業がどうすれば再び力を取り戻すのか? どうすれば景気は好転するのか? 様々な角度で論じて頂ければと思います。それでは、学生側から意見をどうぞ」


 倉井はそう言うと、再び見学席の端に座った。


 3年生達は資料を取り出して、言葉を軽く交し合っている。

 例のイケメン先輩は――――というと、一番奥の席で視線を下ろして、殆ど参加していないように見えた。


(なんだよイケメン先輩、やる気ないのか?)


 私がそう思っていると、三年生の真ん中辺りに座っているメガネ系男子が話し始めた。


「まず、我々は倉井先生のおっしゃった前提に疑問があります。本当に日本の景気が悪いのかというと、必ずしもそうとは言えないのではないでしょうか?」


 いきなり出た3年生の前提を覆す発言にも、おっさん達は余裕の表情で耳を傾けている。


「多くの国内輸出産業は過去最高益を更新する状況にあります。我が国の失業率も海外に比べれば極めて低く、就職氷河期は遠い過去となりました。そんな状況にも関わらず景気が悪い悪いと皆が言っていれば、いつまで経っても国民は消費のタイミングが分からず、景気も悪いままなのではないでしょうか? 今こそ我々は前を向いて、ものづくり立国として積極的に挑んでいくべきだと思います」


 男子は軽く頭を下げて着席した。

 どうやら3年生側の最初の意見が終わったらしい。


 おっさん達の殆どは、やれやれという表情を浮かべながら話し合う様子もない。3年生達のように、書類を用意してきている訳でもなさそうだ。


 つまり、事前準備など不要。

 学生レベルの意見など、軽く論破出来ると思っているのだろう。

 それを裏付けるように、おっさんの中の一人が、腕を組むような形で机に肘をついて徐に話し始めた。


「君はさっき、先生の話をちゃんと聞いていたのかね? サブプライム問題やリーマンショック直後から輸出産業は低迷しただろう。確かに今でこそ、現政権によって再び収益が改善している。だがそれは何故だろうか? 答えは政府日銀が積極的に『通貨安政策』を打ってきたからだ。その間に日本のものづくりはどれ程変化してきたというのだ? 変わったのはものづくりではない、為替相場の方だ。大事なのはものづくりではない、マネーの方なのだ」


 確かに、輸出産業が過去最高益を更新し出したのは為替環境が大きく変化してからだった。おっさんの言っている事は私の記憶とも一致する。


「それと失業率に関してだが……日本の企業には一人のエリート経営者や営業マンに莫大な報酬を払う風習がないからね。良くも悪くも総中流主義というか……だから企業も国もどうでもいい人材を雇い続ける余裕があるんだよ。エリート人材が低賃金で我慢しているからね」


 嘲笑したようなイントネーションで話すおっさんに同調するかのように、他のゲストからも軽い笑い声が聞こえる。


(何なんだ、この変な雰囲気は……?)


 私は場の雰囲気に違和感を覚えて眉をしかめる。


「アメリカのように資本主義色の強い国程、100人の無能より、1人のエリートの確保を優先する。理由は簡単、駄目な人材の代わりなんか失業率が高まれば高まる程逆に幾らでも沸いてくるだろう? しかしエリートの数には限りがあるから、たった一人の人材が株価を含めた企業価値にまで影響が出てくるのだ。別にアメリカと日本のどちらが良いとは言わないよ。しかしまぁ、それが君達の言う失業率の内訳ってところだね。日本と他国では、同じ失業率でも数字の中身が全然違うということだ」


 他のおっさんも、コミカルにうんうんと頷いている。


「景気が悪い悪いとみんなが言えば、消費が伸びなくなるという考えは分からんでもない。しかしだね、景気が良い良いという声に乗せられて馬鹿みたいに消費する人達というのは、未来に備えることが出来ない愚かな人達なんだよ。そういう人達がいずれ自分の身の丈を越えた借金をしたりして、結局は真面目にやっている人達に迷惑をかけることになる。君達はそんな事態を招くかもしれない、偽景気を扇動してもいいというのかね?」


(……うぅむ……)


 私は味がいいのに店員の態度が悪い飲食店で食事をする時のように唸った。確かにおっさんの言うことには説得力がある。ただし、すごーく個人的かつ感情的な印象を言わせて貰えば、おっさんの上から目線の言い方が気に入らない。これではまるで圧迫面接ではないか。


 さて、このおっさんの返しに対して、先輩達は一体どう答えるのだろうか? そう思い3年生側の様子を見てみると、何やらざわざわとお互い話し合っている。用意した原稿を見直したり、小声で相談したりしているようだが、とても余裕のある様子には見えない。


 イケメン先輩は――――というと、虚空を眺めてなにか考えごとはしているようだが、3年生の話し合いには依然として参加していなかった。


(おいおい、まさか……もう手詰まりか?)


 暫くすると、メガネ系男子が立ち上がり、言葉を選ぶようにして話し始めた。


「それでも我が国の内需を発展させるには、そうした消費意欲の高い層を活性化させる必要があると思います。倹約に倹約を重ねて、誰もお金を使わなければ景気は停滞したままになります。例えばリーマンショックによる景気低迷後も、アメリカの強い内需はお金をすぐに使おうとする消費意欲の強い層によって粘り強さを保ちました。私達の国にも、そういう勢いが必要なのではないでしょうか?」


 早くも打つ手がなくなったように見えた3年生側だったが、リーマンショック後も強かったアメリカ内需を例に出して、上手に切り返したように見えた。他の3年生達も、言葉が続くにつれて説得力のある反論だと自信が持てたのか、少し落ち着いた雰囲気に見える。


 しかし、おっさん達には動揺が見られない。

 静かに、そして軽く嘲笑するかのようにして、おっさんの中の一人が口を開いた。


「君達はサブプライム問題の中身を理解しているのかね? サブプライム問題は低所得層がマイホームなどという、身の丈を越えた買い物を借金して購入した挙句、支払えなくなってしまったことが一番の問題なんだ。アメリカ国民の消費意欲が高いのは確かに認める。しかし、それ故にアメリカは貿易赤字国なのだよ。議題を思い出しなさい。まさかアメリカのような輸入赤字大国へと我が国を導きたいのかね? それが君達の成長戦略かね?」


 おっさんの畳み掛けからして、ひょっとしたらこの討論の勝敗はもう決しているのかもしれない。その証拠に、先程まで落ち着き始めていた3年生達が、再び狼狽してしまっている。しかも、今度は焦るというよりは萎縮傾向が強い。


 しかしこの時、私はおっさんの発言のある一部分に反論したい気持ちが生まれていた。


(あれ……なんか違わないかそれ?)


 私は気になったことを、小さくノートに書き取った。


 3年生側の様子を見ると、各々がまるで叱られた後のように伏し目がちになっている。もう、対抗手段がないのだろうか? そんな中でメガネ系男子が、振り絞るようにして声を出した。


「では……どうすれば我が国の経済発展が為されるのでしょうか?」


 3年生側の、まるでおっさん達に教えを請うような、敗北宣言のような返しを聞いて、イケメン先輩は奥で頬杖と深い溜め息をついた。


 反対におっさんは、相手の口調から自分の勝利を確信したのだろう。3年生側の質問に対して満足げな表情で答えた。


「はっはっはっ。それを考えて論じるのが討論な訳だが――――まぁ、そちら側の見通しが楽観的過ぎたのだから、もう君達にこれ以上の意見は望めないのかもしれないねぇ」


(なんだよその言い方……もう少し言いようがあるだろうに……)


「まぁいいだろう。この国の成長戦略というものはだな――」


 おっさんは得意げに身を起こして語り始めた。


「まず、政府の大規模な財政出動が必要だ。景気が悪い時には公共事業で民間に仕事を与える。そうして仕事やお金を与えることの有効性はニューディール政策によって証明されている。民間が弱くなっている時こそ公的な事業を推し進めることが不可欠だ」


 ワンマンショーを聞きながら、ダンシングフラワーの如く他のおっさん達も頷く。


「インフラの整備によって経済活動がスムーズになることも我が国の高度成長期において実績がある。今は公共工事を進めて景気を下支えして、景気が好転した時にうまく行くよう準備すべきなんだ。まぁ、こういうことを言うと、政府が抱える借金の額が膨大だと言い出す無知な輩も多いが、日本国債の殆どは日本国内で消化されている。外国に借金ばかりしている他の先進国と一緒にすること自体がおかしいんだよ」


 国債の話まで出てきて、3年生側は討論――――いや、おっさんの語りについていけないようであった。


 正直私も独学で得た知識程度では、ところどころ話の真偽が不明確になりつつある。場の雰囲気もあり、分からない事が積み重なるにつれて、私の中にも苛立ちと恐れが蓄積しつつあった……。


 例えばもし、自分が3年生側にいたとして、なにか知っていることを例に出して反論したとしても、ただただ不完全な知識をこきおろされるような気がするのだ。どんな学生の言葉も、社会人の経験の前には通用しない気がするのだ。


(こりゃ、力の差があり過ぎるんじゃないのか……?)


 見学している1年生達を見てみると、おっさんの話をポカンとした表情で聞いている。


(討論内容の分からないギャラリー達も、皆がおっさん側の優勢を認めてしまっている……なんとかならないのか……?)


 生徒側に敗北ムードが漂っている中、私は目の前にいる女市弥生子がどういう思いでこの様子を見ているのかと気になった。まるで助けを求めるようにして視線を向けると、彼女は相変わらず静かにノートを取っている。


(落ち着いている……)


 彼女が一体どんなことを書いているのかと思い、再び首を伸ばしてノートを覗き見た瞬間――――私は自分が、大きく遅れを取っていることに気がついた。彼女のノートには、討論の流れと共に、その中で自分では判断がつき難かったと思われる箇所に『?』マークが入っていたのだ。


 そう、女市弥生子にとって目先の論議の勝敗は重要ではなく、内容を後で検証、吟味することにこそ意味があったのだ。いや、彼女が何を考えてノートを取っているのかなんて私の推測でしかない。しかし、彼女のノートを見た瞬間に、自分が非常に勿体無い時間の過し方をしていることに気がついたのは確かであった。


(今、この議論の内容が分かるかどうかは大した問題じゃないんだ……)


 私は慌ててノートを取り始める。


 私は最初のうち、討論の内容が理解出来たことから、自分が独学で得てきた知識は世の中にも十分に通じると感じていた。しかし、おっさん達が躊躇いなく3年生側を論破していく様子を見ているうちに、やはり自分が勉強してきたことなんか世の中には何一つ通用しないのではないか? という疑念を抱くようになってしまった。


 こうして自信と不安の間でブレまくる私であったが、女市弥生子の静かで勤勉な姿勢を見ることによって再び落ち着きを得ることが出来たのだ。こうして客観的に話の流れを思い出しながらノートに書き記していくと、少しずつ気持ちも楽になってくる。女市弥生子に感謝だ。


 因みに、おっさんのトークは今も続いている。


「産業競争力をマネーの観点で考えていけば、労働者の賃金がまだ高すぎる。100円ショップの商品を日本で作ればとてもやっていけないだろう? もっと労働者の賃金を削って、企業の価格競争力を高めていくべきだ」


 このままおっさんのワンマンショーが続くと思ったが、ここでメガネ系男子が横槍を入れた。


「しかしっ……賃金が安くなると、技術者の日本離れが更に進むのではないでしょうか?」


「ん? なんだ、まさかまだこの国がものづくりでやっていけると思っているのかね? もうそんな時代は終わりだ。どうせ賃金が高くなればなるほどに、企業は工場を海外に作るようになってしまうからな。そもそも、末端の技術者にまで知識や技術を与えすぎるから裏切られた時に厄介なことになるのだ。最初から生産ラインの歯車として、必要最低限の技術しか与えなければいいんだよ」


「しかし……モノづくりを捨ててしまったら日本はっ……」


「経営と投資をしっかりしていくんだ。労働者は資本主義の構造上、使い捨てにされる宿命を背負っている。それが嫌なら自分で経営責任を背負って起業すべきだ。そう……私達のようにな!」


 その言葉を聞いたおっさん達は皆、深く頷いて自分達の立場に酔っているようだった。実際に自ら責任を背負って起業している大人達にそう言われてしまえば、学生である我々には何も言い返すことは出来ない。


「先程も言った通り、価格競争力を高めて輸出を増やしていかなければ、経済大国として強くはなれない。その為には更なる円安誘導が必要だ。日銀はようやく異次元緩和政策を実施しているが、まだまだ手ぬるい」


 スラスラとペンを走らせ続け、ようやく冷静に客観視していた私であったが、おっさんの一言を聞いて急に手が止まってしまった。


 ある一言が、再び私の心を乱したのだ。


「そう、諸悪の根源は日銀だった。なんだあの旧体制の日銀は……。今でこそやっとまともにはなっては来たが、抜本的な改善には日銀が更なる――」


 そこまで言った辺りで、倉井が口を開いた。


「時間です」


 倉井の言葉を聞いて、おっさんはやれやれといった感じで頷いて座席にもたれかかった。


「そうかそうか、折角口が回り始めたところだったんだが……」


 一番しゃべっていたおっさんは、まだしゃべり足りないようにさえ見える。


「非常に白熱した議論、3年生のみんな、そしてゲストの皆さんありがとうございました。通常の生徒同士の討論とは違い、今回は新入生研修をかねておりますので前半戦だけで終了となります」


 再び心を乱された私は、心の中で倉井の言葉に対して悪態をつく。


(何が白熱した議論だ……白々しい。こんなもの、ただの学生いびりじゃないか!)


 そんな苛立つ私を他所に、倉井は新入生達に向かって言う。


「ここにおられるゲストの方々は、公務員だったり企業経営者だったりと様々だ。いずれはみんなも、ゲストの方々に胸をお借りする時が来るだろうから気を引き締めておくようにな」


 おいおい、何ということだ。


 こんな不快な思いを外野としてではなく、いずれは当事者として経験しなければならないらしい。それに倉井の奴、さっき何と言った? 今日は前半戦だけ? 通常はこれに後半戦まであるというのか?


「折角だから、研修中の1年生から感想でも聞いてみようかな。質問でもいいぞ」


 そう言って倉井は1年生を見渡し、出席番号の早い女子を指した。指された女子は少しおどけてみせた後、立ち上がってそろそろと話し出した。


「あの……こんなに難しい議論をするとは知らずに、びっくりしました。……えっと、これからちゃんと勉強して、少しでも内容が分かるようになりたいです」


 そう言って恥ずかしそうに座る女子を見て、おっさん達はうんうんと頷いている。

 女子が座ると、次に男子が指された。指された男子は照れくさそうに話す。


「えっと、ゲストの皆さんが、凄く色んなことを知っているようでなんだか憧れました!」


 おっさん達からは、余裕のある笑い声が聞こえてきた。その後も倉井は、別の女子と男子を一人ずつ指して感想を聞いていた。


 はっきり言えば、1年生の殆どは討論の内容なんて理解出来ていないのだろう。しかし、どっちが有利でどっちが不利だったかくらいは雰囲気で感じ取れたはずである。そうして感じ取ったゲスト側の優勢を肯定するような感想を誰かが言う。すると、安心して他の生徒もゲストを賞賛し始める。ゲスト側を褒めておけば、間違いはないだろうと考える……。


 今述べられている感想なんて、全部がその延長だ。皆が同じようなことを言い、無難に切り抜け、角が立たないよう、目立たないように自分の役割を済ます。


(茶番だ……茶番だ……何もかもが茶番だっ……!)


 私の中で感情が高ぶり、色んな思考や発想が無秩序に連鎖している。


 こんな時、いつも私の中で様々な意見や発想が生まれるのだが、大抵の場合はそれがリアルタイムで整合性を持った言葉として発せられることはなく、顔をパプリカのように真っ赤にさせるだけで自滅してしまう。


 私にとって激情と連想はセットであり、冷静と言葉の対極にあるのだ。


(本当にいいのか? このままで……こんな出来レースのまま終わらせてっ……。こんなんじゃ、これからこの国の経済に向き合っていかなきゃいけない私達が、先人に倣え、右に倣えのまま社会に出て行くことになるかも知れないんだぞ? それじゃ…………それじゃ私達は一体何なんだっ?)


 生徒達の迎合的な感想は、今も続いている。


(無難に学生生活を終えて……社会に出てもお世辞を言って……ゴマをすってただただ世渡りして行くのか? そうして、ここにいるおっさん達が言っていることを、まるで自分の言葉のように主張し、代弁していくというのか? そんなんでいいのかっ……? そんなオウムのような自分達で……コピー品のような自分達でっ……)


「おーい。他にも質問とかあったらしてもいいんだぞぉー」


 数名に感想を聞き終わった倉井が、我々に向けて呼びかける。


 普通ならば誰も手を上げないで終わるのかもしれない。きっと、倉井もそれが当たり前だと思っているのだろう。目の前で起こった議論の中身なんて、入学したての高校1年生には分からないのが当然だからだ。


「うん、まぁ誰もいないな…………おっ?」


 しかし。

 倉井は突如、意外そうな表情をする。


「お前は――――確か河芝か? なんだ、言ってみろ」


 倉井が私の方を指した。


 そう。

 私は挙手していた。

 考えなどない。

 ただ、このまま終わることだけは避けたかったのだ。

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