第一章 女市弥生子について

女市弥生子について

「おーい、体育館はあっちみたいだよロリこん」


 冒頭から酷い呼ばれようであるが、念のために言っておくと私はロリコンではない。私の名前は河芝かわしば剋近かつちか。この『剋』という字の中に含まれるロとリ、そして『近』という字がこんと読むこともできるため、この男は私をロリこんと呼んでいる。


 重ねて申し上げるが、ロリこんというのはこの男が呼ぶあだ名であって、私の好みでも性的趣向でもない。むしろ私の好みは年上の黒髪サラサラロングヘアーが似合うお姉さまであり、時折優しく叱ってくれるような綺麗系である。


 さて、私をロリこん呼ばわりしたこの男は、小学校の時からの腐れ縁であり、名を山本やまもと定重さだしげという。あだ名はサダだ。


 常に笑っているように見えるめでたい糸目が特徴的であり、男の癖に水も滴りそうなほどに若々しい肌には隠れ女性ファンもいるらしい。性格に関して述べると、私に対するいたずら心は満載の癖に、時折、妙なお節介を焼いてくるおかしな奴である。


 この男にロリこんと呼ばれ始めた中学生の頃、私も対抗して定食だの、うな重だのと、色々あだ名を考案してみたが、どれも周囲にはまったく定着しなかった。この男のあだ名は既にサダで定着していたが、それまで河芝としか呼ばれていなかった私は、あっさりと周囲にロリこんというあだ名で認識されてしまったのだ。


 あまりに理不尽な話ではあるが、このふざけたあだ名で呼ばれるようになった頃からは、不思議と友達の幅が増え、クラスメイトの女子や後輩女子からもモテるようになった。


 まぁ、モテるといってもただ気軽に話をするようになっただけで、告白なんてものは中学校の卒業式を含めて1度たりとも受けたことはない。それでも、女子と気軽に話せるようになったことは事実である。ロリこんという酷い呼び名が周囲の油断を誘ったのか、それとも後輩女子達にまで変な勘違いをさせてしまったかは定かではない。


 しかし、残念なことに現実の私が欲しているのは綺麗系のお姉さまだ。


 如何に素晴らしい『供給』があろうと、それが『需要』と噛み合っていなくては空回りするのが経済の基本なのである。


「おいサダ、高校に入ってまでその名で呼ぶな。中学生までは冗談で通っても、高校生ともなれば本当に立場が危うくなるだろうが」


「馬鹿だなぁ。少しくらい恥ずかしいあだ名の方が、絶対好感持たれるって」


「それにしても限度がある。日本ならともかく、国によっては社会的に抹殺されかねないニックネームだぞ」


「流石世界の河芝、既にグローバルな展開を想定しているのか」


「茶化すな。俺があれこれ考えているのは主に国内経済についてだ」


「経済ね、本当に意思は固まったのか……」


 そう言ってサダは表情を柔らかくして私の横顔を眺める。サダの感慨に浸った親か兄のような表情が無性に気に食わないので、私はさっさと歩を早めた。


 本日は入学式。

 ここ東野商業高校は、エスカレーター式に進学可能な私立学園の一部だ。


 歴史は随分と古く、大昔は普通校だったらしい。商業高校としての特色を強めたのは明治時代の専門学校令とかいう勅令以降のことらしく、財界や政界にはここの出身者も多く、歴史ある名門といえば名門らしい。


 因みに私やサダは自宅近くの公立中学校出身だ。この学校には少し前に入試を受けて、サダは余裕で、私はギリギリで入学することができた。


 私がなぜ苦労してまでこの学校に入ったかというと、この高校とその上にある大学は経済に関する専門性が高く、そしてなによりも私の祖父の出身高校であったからだ。この学校で勉強すれば大好きだったじいちゃんが何を目指していたのかが分るかもしれない。そんな思いが、私をこの学校に導いたのであった。


「今年もまだ咲き始めだな」


「なんだい、桜のこと?」


 入学式が行われる体育館へ向かう途中、私は学校の外周をとり囲んでいる咲き始めの桜の木々が気になった。


「ああ。桜が咲いたら1年生というが、中学に入る時も桜は咲いていなかった気がする」


「そうだっけ? あんまり覚えてないなぁ」


 サダは気のない返事をするが、私は構わず言葉を続けた。


「咲き始めの桜というのは、なんだかもどかしくないか? まぁ――かといっていざ満開になってしまえば散る時のことを考えてしまうし、葉桜になれば季節が過ぎたことを知って、そこはかとなく寂しくなってしまうものだが」


「詩人だねぇ。月曜日を思って週末を楽しめないサラリーマンのようなものかい?」


「入学早々、夢も希望もない例えだな。それに月曜日を思って憂鬱になるのは高校新入生である私だって同じことだ」


「なんだい。それって今を楽しめてないってことじゃないの?」


「…………」


 時々、こいつは妙に心に引っかかるようなことを言う。

 私は返事もせずに、咲きかけの桜に心を泳がせ続けた……。


 そうして暫くの間ぼんやりと歩いていると、突如として、私は木々の合間に清楚な黒髪が揺れていることに気がつく。


(なんだ……あれは……?)


 桜色の背景を泳ぐ黒――――。

 不意に目に飛び込んできたその現実離れした光景に、私は思わず息を呑んだ。


 入学式早々。

 時間が、風が、世界が。

 一瞬、止まったような錯覚さえ覚えた。


(まてまて――あれは――そこにあるあれはまさしく――――)


 私が動揺したのも無理はない。

 最初に申し上げた通り私はロリコンなどでは決してなく、理想の女性のタイプは年上の黒髪サラサラロングヘアーが似合うお姉さまであり、時折優しく叱ってくれるような綺麗系である。


 自分が良いと思うポイントを都合よく列挙したものがいわゆる理想のタイプと呼ばれるものだが、今私の眼前に見える『あれ』はまさしく理想のタイプの女性そのものだったのだ。


 黒髪で気品のあるサラサラロングヘアーに、年上と思われる極めて落ちついた雰囲気。優しくしかってくれそうな端整な顔立ちと、透き通った美しくも白い肌。背景を飾る初々しい桜に似合う、綺麗系というか綺麗そのものである全身のシルエット。


 目の前にある非現実的な存在をたった一言で語るのは非常に困難なことであるが、それでもあえて述べようとするならばそれは『完成された美人』である。まるで彼女とその周りだけが別の次元になったかのように、絵画かイラストから切りとられて出て来たかのように、とにかく何もかもが『完璧』なのだ。


 私の鼓動は速くなり、なにか得体の知れない焦燥感が内側より湧きだしてくる。


 あれは一体なんなのか?

 あの存在は現実のものなのか?


 まるでUFOの着地シーンを肉眼で確認してしまった時のように(見たことはないが)目の前の光景よりも自分の目や頭を疑いながら色々と考えていると、一瞬の白昼夢であったかのように彼女は建物の影に隠れて見えなくなってしまった。


 彼女が消えた先は、私達が現在向かっている体育館の裏手である。学校が指定しているブレザータイプの制服を着ていたし、やはりこの学校の生徒だろうか?


 暫しの間、歩みを止めて彼女が消えた先を食い入るように見ていると、前方からサダの声がした。私はその声でようやく我に返る。


「おーい、何やってるのさロリこんっ。体育館入り口はこっちだぞぉー」


 無邪気な笑顔と大声を撒き散らしながら、サダはこちらに向けて元気いっぱいにブンブンと手を振っている。


 近くを歩いている女子生徒達がサダの呼び声を聞いた後で、私の顔を見ながらなにやらひそひそと話をしているのが目に入った。


「くっ、だからその呼び方はやめろって!」





 場所は変わり、ここは東野商業高校体育館。

 先ほど、我々新入生を迎える入学式が始まったばかりである。


 事前にもらっていた入学式の案内なるパンフレットによると、この入学式はおおよそ5つの段階に分かれているらしい。パンフレットに書かれている予定なんてものは、学生にとってはその行事が終わるまで後どれくらいなのかという目安でしかないのだが、現在の進行状況はその2段階目、教師代表である教頭からの挨拶が行われている最中である。


 教頭はこの学校の歴史を語った後で、皆さんがその新しい1ページに加わるのだ……とか、大体そういうことを話していた気がする。そうして我々が普段交わす、『おはよう』や『こんにちは』とは比較にならないほど長い教頭の挨拶が終わると、次は新入生代表の挨拶へと移った。


 さて、ここで疑問なのだが、この『新入生代表』とは一体どうやって選出されているのであろうか?


 少なくとも私の元には、代表者を決めるための投票券など届いてはいないし、あなたが代表になりませんか? という一声もなかった。もし、入試時の成績上位者が代表に選ばれるのなら、少しばかり成績が振るわない私には縁遠い話だろう。


 恐らくこの学校は小中高大とエスカレータ式に進学できるシステムがあるので、付属中学校の元生徒会長辺りが選ばれているのだと思うが、見ず知らずの誰かを私は代表と認めた覚えはない。例え私が仏のような寛容な心で認めてあげたとしても、それは新入生代表(仮)か、暫定的新入生代表と呼ぶべきではなかろうか?


 アインシュタイン並みにニューロンネットワークの発達した私の脳がいつも通り無駄な思考連鎖を続けていると、生徒代表と思われる人物が壇上上手から現れた。


 さてさて我らが新入生代表様の面でも拝んでやろうではないか……。


 そう訝しげに顔を上げた瞬間――――私の目はリトラクタブルヘッドライトのごとく大きく見開かれ、そして輝いた。


 なんと黒髪サラサラロングヘアーが似合うお姉さまで、時折優しく叱ってくれるような綺麗系がそこを歩いているではないか。いや、時折優しく叱ってくれるかまでは定かではないが……とにかくさっき見かけた理想の女性がそこにいるのだ。


 王者のマントのように黒髪をなびかせながら、凛とした姿勢で彼女は壇上中央に立つ。マイクの位置を少し調整し、原稿と思われる紙を置く。その所作の1つ1つは美しく、なにやら手馴れているようにさえ見えた。


 まるで建国式でも始まるかのようなドキドキとワクワクの入り混じった緊張感を私が抱く中、彼女はそっと挨拶を始めた。


「初めまして。先生および東野商業高校関係者の皆様。新入生代表を勤めさせて頂きます、女市おんないち弥生子やえこと申します」


 彼女の自己紹介を聞いた私は、その名前を必死に心の中でリピートする。


「この度は、私達新入生一同を暖かくお迎え頂き、誠にありがとうございます――」


 私はこの美しく落ちついた声に陶酔しながらも、周囲の生徒や教師が彼女を見ながら感心したような素振りを見せていることから、この生徒が学校側にとっても生徒達にとっても特別な存在なのかもしれないと考察していた。


 そりゃそうだろう。


 この完璧な容姿や美しくも抑揚のついた声、視線の送り方、原稿を用意しながらもそれを殆ど見ない自信と余裕に満ちた立ち振る舞い。どれもが洗練されていて常人の近寄れる雰囲気ではない。


 先ほど新入生代表についてあれこれ不満を述べていた阿呆は一体どこの誰か? あそこに在られるあの御方を我々下賎の衆の代表と呼ぶとは、なんとも光栄であると同時に厚かましいことであろうか。


 まるで飼い主を見つけた犬のように私が興奮していると、早くも彼女の挨拶が終わってしまった。素晴らしい時間とは過ぎるのが早いものである。再び壇上上手に戻っていく彼女を名残惜しく見送ると、私は再び入学式のパンフレットを広げてある情報を探した。


(――あった)


 そこには新入生代表 女市おんないち弥生子やえこ 東野付属中学校卒と記されていた。


 変わった苗字に、変わった名前である。なぜだろうか? この『おんないち』という苗字には見覚えがある気もする……。名前の方は、やよいこではなく『やえこ』と読むらしい。


 私は今後、彼女の姿を見かけることが出来るかもしれないという期待だけで、これから始まる学園生活に対するモチベーションが腹の底から高まってくるのを覚えた。


 女市弥生子の挨拶により素晴らしいものとなった建国式――――もとい入学式は閉会し、その後各クラスの担任が紹介された。私がお世話になるA組の担任は、倉井とかいう30前後に見える女性教師らしい。





 入学式が終わると、生徒達はそれぞれのクラスへと向かうことになる。


 A組へ向かう途中、私はパンフレットに書かれた校内地図を眺めていた。パンフレットを見る限りでは、この学校の校舎は上から見ると『工』という字の形になっているらしい。


 北側。つまり工の字の上部1階が1年生、2階が2年生、3階が3年生の各教室。

 南側。つまり工の字の下部1階が職員室や保健室、2階が理科室や家庭科室などの専門教室、3階が生徒会室や文化系部活動の部室に当てられているようである。


 工の字の真ん中は渡り廊下とトイレであり、1階には全学年の下駄箱が集中している。各学年の教室は150メートルはあるであろう長い廊下に沿って1列に並んでおり、AからNまでの合計14クラスもあるらしい。


 私がお世話になるA組の教室は長い廊下の端、最も東側にあるようだ。


 私はA組の教室に辿り着く。教室の中へ入るとそれぞれの机の上に、名前と出席番号が書かれた紙が貼られていた。


(席順はひとまず出席番号順ということか)


 私の席は窓際の最も後ろであり、一時的とはいえ気楽に授業を受けるには申し分のない特等席である。その特等席からクラスを見渡すと、サダが私の席の右斜め前2つ向こうに座っていた。こちらに気づくと手を振ってきたので、私も右手を軽く上げてそれに応える。


(腐れ縁とはよくいったものだ、また同じクラスか……)


 パンフレットを広げて私が時間を潰していると、担任の教師が教室に入ってきた。先ほど体育館で紹介されていた倉井とかいう、行き遅れ直前に見える女性教師である。


「よし、お前達いきなり迷子になったりしてないな? さっそくだが出席を取るぞぉー」


 まるで体育教師のように面倒見よさげな声でそう言うと、倉井は出席番号順に生徒の名前を呼び始めた。


 出席番号は、あいうえお順につけられている。

 私の苗字は河芝なので、比較的早く名前が呼ばれた。


「河芝剋近」


「はい」


 私の名前はなんと読むのかと時々尋ねられることがあるが、倉井は私を含めて生徒達の名前を間違うこともなくスラスラと呼んでいる。意外と前準備のいい先生なのだろうか。


 ふむふむ。一見すると嫁に行き遅れてそうにも見えるが、よく見るとこの教師も結構な美人である。確かに、昨今の晩婚率の上昇から察すれば、たかだか30前後で行き遅れと呼ぶのは少々拙速に過ぎるのかもしれない。


 そんなことを考えていると、倉井はサダの名前を呼んだ。


「山本定重」


「はい」


 知っている名前が聞こえると、今まで聞き流していた他人の点呼にも反応してしまう。実は私のこの反応は当たり前のことであって、人間は印象深い情報やサインを拾うと無意識レベルで反応してしまうものらしい。


 皆さんも好きな音楽のフレーズが聞こえたり、昔嗅いだことのある匂いがしたりすると反応してしまうだろう? 何気なく眺めていても沢山の人ごみの中から知人を見つけたり、大量に陳列された本やCDの中から興味のあるものだけを、瞬時に見つけることだって可能なはずだ。そう、例えそれが自分にとって興味のない、無関係な沢山のノイズの中に紛れていたとしてもだ。


 因みにこれを選択的注意とか選択的無意識とか呼ぶらしい。情報過多の現代社会において、我々は非常に便利な機能を有しているといえるだろう。


 しかし、こうも考えられないだろうか?


 無意識レベルでさえ、自分の知らない情報はノイズとなり、自分の知っている情報にばかり反応してしまうとなると、人がまったく知らないことに興味を持ったり、知らないことから何かを学んだりするのは、土台からして困難ということになる。


 実は人の個性や才能、そして運命や自由意志なんてものまでが、そうやってよく分からない無意識のうちに、日々決定づけられているのかもしれないのである。


 そんな、どうでもいいような――――いやいや、どうでもよくないようなことを考えながら、女子に移った点呼が終わるのをまっていると、再び私の無意識は否応なく反応してしまうことになる。


「女市弥生子」


「はい」


 反応したのは無意識だけではなかった。ぼんやりまったりと外を眺めていた私は、顔や体ごと女子の方へと向いてしまう。聞き間違えかとも思ったが、すぐに聞き間違えではないことが視線の先から理解された。


 間違いない。

 同じ教室の中に、黒髪サラサラロングヘアーが似合うお姉さまで、時折優しく叱ってくれるような綺麗系がいる。いや、時折優しく叱ってくれるかまでは定かではないし、そもそもお姉さまではなく同級生である。


 とにかく、女市弥生子。

 確かに彼女がいる。


 その事実を認識した途端、私の中に強い高揚感と緊張感が生じ、まるでチョークを引いたエンジンのように鼓動は速くなった。


(ど、どういうことだ? いや、どうもこうもない、彼女は新入生代表だったのだ。つまり私と同じ1年生。この教室にいてなんら不思議はない。しかし……こういうことはあるのか? 本当にあっていいのか?)


 こうして私の精神が、猫じゃらしを追いかける子猫のように混乱と興奮の間を右往左往しているうちに、いつの間にかクラス全員の点呼が終わっていた。


「よーし、全員いるみたいだな」


 点呼を終えた倉井が、黒板に向かって自分の名前を書き始めた。


「私がA組の担任になった、倉井くらい法子のりこだ。『ほうこ』じゃなくって『のりこ』だからなっ。世界史を教えているが、たまに経済を教える時もある。まぁ、みんな1年間よろしく頼む」


 耳に心地よい、微かにハスキーな声でそう自己紹介した倉井は、なにやら懐からプリント用紙を取り出すと教壇の上に広げた。


「みんな自分の机の中を見てくれ、プリントが入っているはずだ」


 倉井の言う通り、机の中には1枚のプリントがあった。


「それがこの学校の年間行事予定表だ」


 プリントには先ほど行われた入学式から、聞いたこともないような幾つかの行事、そして夏休みや冬休み、終業式までが事細かく書かれている。


「今日が最初の行事である入学式で、次にあるのが『新入生研修』だ。この新入生研修というのはこの学校で独自に行われている討論会の様子を見学すること。後でちゃんとレポートも提出してもらうぞー」


 討論会やらレポートやらと、随分聞きなれない言葉が倉井の口から飛びだしている。


「その次にあるのが『学年別運営委員長選挙』だが、これは全学年同時に行われる」


 どうやらこの学校には、選挙なんてものまであるようだ。アイドルといい、雑誌の人気アンケートといい、つくづくこの国は投票行為が大好きらしい。まぁ、肝心の政治選挙の投票率は、依然として低い訳だが……。


 そんなことを考えながら私がプリントに線を引いていると、倉井がなにやら足元のダンボール箱を持ち上げた。


「今からIDカードを全員に配るぞー。このIDカードは学校の行事がある度に必ず首からぶら下げてもらうことになる。自分の顔写真はもちろん、名前や役職、学年なんかがしっかり記載されているから、みんな責任もって行事にあたるように」


 そう言うと倉井は、手渡しで1人1人にIDカードを配り出した。受けとったIDカードを見てみると、首からぶら下げるための緑色のストラップがついていた。


(IDカードとは本格的だな……)


 一瞬そう思ったが、別に本格的なのはIDカードに限ったことではない。学校行事も『討論会』に『選挙』である。私は中学の頃とはまったく違う学校生活が始まることを予感した。


(選挙か……。もし選挙があるのなら、選ばれそうな生徒といえば――)


 学校行事のことを考えながらも、気づけば私の視線は女市弥生子を追いかけていた。





 入学式から数日が経った。


 初めての高校生活は今のところまずまずといった感じであり、ぼちぼちと周囲には挨拶や軽い会話を交わす程度の友達もできた。


 そんな私がこのクラスで何気なく生活をしながらも、意図的に集めてしまう情報がある。言うまでもない、それは女市弥生子という女子生徒に関する情報である。


 彼女に関する情報について、ここ数日の間に分かったことを1度整理してみよう。


 まず、彼女は付属中学校の出身者や教師達からすれば『超』がつく程の有名人らしい。容姿端麗で成績優秀、そしてあの溢れだすカリスマ的オーラがあれば当然のことだろう。


 しかし、彼女が有名である理由はそれだけではない。


 なんと、この学園出身の大物政治家、『女市おんないち源十郎げんじゅうろう元大蔵大臣』の孫にあたるらしいのだ。


 女市源十郎といえば、在任当時には数々の政策を総理大臣と連携して推し進めた有力国会議員であり、世代の違う私でも名前くらいは聞いたことがある。因みに『大蔵省』は現在存在せず、代わりにあるのが『財務省』だ。これに伴い大蔵大臣は財務大臣と呼ばれるようになっている。


 他にも幾つか分かったことがある。


 それは女市弥生子が付属中学校の出身者達からは、親しみを込めて『あねさん』と呼ばれていることだ。


 理由は簡単。

 女市という苗字を横にくっつけると、姉という字になるからである。


 近づき難い完璧な外見から受ける印象とは異なり、実は非常に面倒見がよくて誰からも慕われているようであった。女子生徒達の間ではあねさんではなく、おねぇさまと呼ぶ者も多いとか。


(お姉さまか……)


 その響きだけで、私の妄想スイッチが入りそうになる。


 確かに彼女は遠目から見ていても、いつも沢山の女子生徒に囲まれている印象を受ける。まさしくお姉さま。名は体を表すとはよく言ったものだ。


 因みに名前に含まれる漢字からあだ名をつけられた人物をもう一例だけ私は知っているが、そちらは全くの不一致であり、不適切極まりない。


 他に分かっていることといえば、彼女がA組の『学級委員長候補』であり、彼女に対抗して立候補しようとする者は皆無であるということ。そして、そのまま学級委員長になるであろう彼女は、近々行われる学年別の『運営委員長選挙』にも立候補するということだ。


 学級のリーダー。そして、学年のリーダーまでもを進んで買って出る。

 まったくもって、凄まじい向上心である。


 彼女は自らの出生や肩書きに負けるどころか、周囲の期待を上回るパフォーマンスを発揮して、上昇を続けている。それは、私にとってはあまりにも眩しい……。


 恥をかかないよう、恥にならないよう、じいちゃんのことを隠そうとしてきた私とは、正反対なのだから。

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