うらやましがりの泥棒の物語(3)

――それは悲しい泥棒がもたらした、とても優しい物語。


「出かけなくちゃ」

 たくさんのガラクタが無作為に転がっている部屋の真ん中で、手を胸の前に組んで眠っていた男が、突然起き上がった。

「こんなこんなよるおそくおそくおそく」

 鳥かごの中のオウムが喋る。同じ言葉を何度も繰り返して。

「うん、もう夜だね。でも、行かなくちゃいけない。うらやましすぎて眩暈がしそうだもの」

 そして男は、大きな白い袋を持って、夜の街へ降りていった。



 看護師の女が診察室から出て行った後も、キョウコはパソコンの前に座り続けていた。彼女は真っ赤な目で、何度も何度も、もう読んだはずの記事を読み続けていた。彼女の頭の中には、決して取れない「しみ」のように、ヒロキのブログの文章がこびりついていて消えなかった。文と文の隙間から、ヒロキのことを思い浮かべ、ヒロキの新しい彼女のことを思い浮かべ、二人がどんなデートを楽しんで、どんなセックスをしたのかを思い浮かべた。そして気が狂いそうになって、それでも目はパソコンのディスプレイから離れなかった。

 その時、かすかな風がキョウコの頬をかすめた。

 キョウコは窓のほうにゆっくりと目を向けた。鍵が閉まっていたはずの診察室の窓が開いていて、窓の前には一人の男が立っていた。とても不思議な佇まいの男だった。とにかく真っ白な服に、真っ白なニット帽。顔はどこかふっくらと丸く、年は30代ぐらいだろうか。ただ、その丸っこくてキラキラ輝いた目だけを見れば、まるで少年のようにも見える。どこかちぐはぐで、非対称な印象の男だった。

「ふう、夜の病院に入るのは大変だな」

 キョウコの壊れた頭は、その男を見てもなんの反応も示さなかった。ただ、目の前に男がいる、彼女はその事実だけを認識した。男はそんな彼女のほうにそっと近づいていった。

「本当にうらやましいなあ。そんなに夢中になれるものがあって」

 男は、首を少し傾けると彼女の顔を覗き込んだ。母親におもちゃをねだる子供のような目だった。

「うらやましくておかしくなりそうだから、もらってくね。ごめんね」

 男はそういうと、彼女の手からマウスを奪った。そして、表示されているそのブログの管理画面へ飛んだ。もちろん、管理画面の中に入り込むためにはパスワードが必要だ。男は少しだけ考えると、何も出来ずにただそこにいる彼女のうつろな目の奥を覗き込み、やがて満足そうに頷いた。そして、パスワードを入力した。

「'kyouko_love'」

 その言葉を聞いたとき、キョウコの目は突然生気を取り戻した。キョウコの頭が、今起こっている現実を認識し始めた。キョウコの目からは涙がとめどなく溢れていた。

「……どうしたの?」

 男は一旦手を止めてそうやって聞いた。彼女は誰に話しかけるでもなく、言葉をこぼしていった。ヒロキ……。なによ、なんでそんなパスワードにしてるのよ。新しい彼女が出来たんだから変えなさいよ……。ずっと思ってた。あなたに拒絶されてから、ずっと恐ろしかったの。私との日々は、ヒロキにとっては何の価値もなかったのかって、私はただの消したい過去だったのかって、そう思うのが怖かった。……違うんだよね。そんなバカみたいなパスワードをつけちゃうくらい、私のことを好きだった時もあったんだよね。……信じていいよね。あの甘くて愛おしくて切なくて楽しかった日々は、それだけは、信じてもいいんだよね。……ありがと。その事実だけで私は、自分を見失わずにいられるよ。

 男はその、涙と共にこぼれていった彼女の言葉をすべて聞きおわると、作業に戻った。彼は管理画面で、ブログの一般公開をやめて、管理者だけが見られるように設定を変えた。そしてそのあと、パスワードを変えてしまった。

 彼女はその一連の作業を、涙をぬぐいながら見ていた。

「やった。これで、このブログは僕だけのものだよ」

 男は、子供がおもちゃを買ってもらった時のようにはにかんでそう言った。彼女はそんなうらやましがりの泥棒を見て、笑った。

「さて、今日はこれくらいにしよう。僕はそろそろ帰らなくちゃ。君も帰りなよ」

 男はそういって、窓から降りて出て行った。何かがこすれる高い音がして、きっとロープか何かを使ったんだろうと彼女は思った。彼女はその姿を見送ると、突然自分が病院にいる意味が分からなくなって、診察室を出て、病院を抜け出して、家に向かった。

「ありがとう、素敵な泥棒さん。私はもう、大丈夫」

 夜道をゆっくりと歩いて帰る彼女を、三日月が淡い光で照らしていた。

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依存 ソウナ @waruiko6

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