06. 間違いない

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「いっちゃん、そんな冗談いってる場合じゃないってえ。早くみんなの後を追わないと……」

 達也は、呆れ顔で肩を竦めて笑い飛ばそうとした。しかし、青ざめた一輝の顔と震える指先をまじまじと見た途端、みるみると顔色が変わった。そして、なにかを確信したようにこちらへ駆け寄ってきた。

「え……、ほんと? いっちゃん」


 そう聞かれた一輝は、ただただ黙って震えながら達也を見つめて、個室内を指差すだけだった。


 さすがの達也も真剣な表情になって、素早い動きで頭を下げて便器の裏側を確認した。


 そして、顔を便器に近づけたまま、小さな目を大きく見開いて「これ、本物じゃん……」と小声で呟いた。


 爆発物の存在を確認した達也は、即座に個室を出て必死の形相で叫んだ。


「いっちゃん、廊下に出て声をあげて! 一人でも多くを避難させないと!」


「避難って……、処理は?!」一輝は、半ばパニックになったように声を張り上げた。


「オイラたちにそんなことできるわけないじゃん! いいから早く! あと七分しかないよ! 間に合わないって!」


 達也は、そう言い終わるや否や、一輝を押しのけるようにして駆け出し、トイレを猛烈な勢いで飛び出していった。その場に残された一輝は、タイルで足を滑らせながらも、達也の後を追うようにして駆け出した。


 廊下に出た一輝は、制服の袖をまくって腕時計に目をやった。


「十三時十分……」刻まれた時刻を口に出して確認してから、一輝は、はち切れんばかりに叫び声を上げた。


 

「トイレ内に爆発物を発見! みなさん、大至急逃げてください!!」



 どんなフレーズがいいのか、どこで叫べばいいのか、みんな信じてくれるのか。


 一輝は考えた。迷った。とにかく焦っていた。


 放送室を探したほうがいいかとも考えたが、そんな時間はない。とにかく懸命に館内を駆け回り、喉が枯れ果てるまで叫び続けた。



「みんな逃げて!!」



 始めは、大声をあげて廊下を叫び回る二人の新入隊員を、多くの隊員や職員たちは奇妙な目でじろりと睨むばかりだった。しかし、彼らの必死の形相に、ひとり、ふたりと、事態の重大さに気づき出す。一輝と達也の、恐怖と焦りに引きつった表情と声色は、昼食後の眠気に襲われつつある職員たちの尻に、着実に火を点けていく。


 幸い、本部棟全フロアに、一輝と達也の声が届くまでには、そう時間はかからなかった。そして、全館は、あっという間にパニック状態に陥った。


 悲鳴、怒号、罵声、慌てふためく無数の靴音。


 瞬く間に、一階フロアは人の海。狭苦しい低い天井には、逃げ惑う人たちの熱気が充満していた。


 多くの戦闘職ではない職員は、恐怖心と猜疑心に火をつけられ、冷静な判断力を失い、怒涛のように出口に殺到した。出口は東西南北四箇所にあるものの、慌てふためく大勢の人間を吐き出すには役不足なくらい狭かった。


 しかし、そこはさすがに軍事基地である。館内に居合わせたベテラン軍人たちが、一輝と達也の誘導に加わってくれた。そのおかげもあり、徐々にパニックは収まったものの、とにかく人数が多かった。


 中央事務棟は全七階建。基地機能の多くが集約していることもあり、上階からは、大勢の職員たちが、転がり落ちるように外を目指して駆け降りてくる。その人の勢いは、待っても待っても途切れそうになかった。


 一輝は、再び腕時計に目をやった。


 デジタルの文字盤表示は、十三時十三分。


(あと四分しかない……)周囲に、いらぬパニックを与えぬよう、心の中で呟いた。


 とにかく時間がない。


 一輝と達也は喉が擦り切れ、血が出るほどに叫び続けた。


 そして、絶え間なく上階から下りてくる職員たちを誘導し続けた。


 もしかしたら、まだこの事態に気がついていない人間もいるかもしれない。


 そう感じた一輝と達也は、思いつく限りの行動を起こした。


 非常ベルに設置された押しボタンのガラスを突き破り、ベルをけたたましく鳴らした。


 スプリンクラのセンサを破壊し、全館に水を撒き散らし、館内に異常を知らせた。


 一階に集まる人の数はどんどん増えた。


 その流れは、いつしか濁流の如く氾濫し、狭い出口に一斉に押し寄せられていく。


 十三時十四分。


(あと三分……)そう呟く一輝の心には、生まれてこのかた感じたことのない、激しい焦燥感が、雪崩なだれのように襲いかかっていた。


「いっちゃん、オイラたちもそろそろ外に逃げないと!」勢い良く押し流れる人波に抵抗しながら、達也が必死の声を上げる。


 そんな時、避難する人の濁流の中に妙な違和感を目に留めた一輝は、迫り来る人の流れをかき分けるようにして、見つけた違和感を追いかけるように逆流していく。


「いっちゃん、どこいくのって?!」達也は、出口から徐々に離れていく一輝に、激しい声を投げつけた。


「おい、君!」「どこに行くんだ!」


 誘導に加わってくれた先輩隊員たちも、一輝に向かって声を上げた。


 しかし、それでも一輝は振り返ることもなく、「達也は先に避難しててくれ」とだけ言い残し、人並みをかき分けてさらに奥へと突き進んでいった。


 すれ違う人たちの肩が、流れ星か隕石のように躰に衝突しては後方に流れ去る。しかし、一輝はそんなことには気にも留めず、ただただ目的の上流を目指して歩き続けた。


 一輝は、なにかを確信していた。


 目的の先だけをじっと凝視していた。


(あいつらだ……。間違いない)


 その違和感の正体、一輝の目標は、迫る人波をかわし、安全地帯へ逃げるように食堂の中へと入っていった。一輝も、ようやく避難者の濁流から逃れ出て、駆け足で目標を追い、食堂へ足を踏み入れた。


 十三時十五分。


 ついさっきまで大勢の人で賑わっていた食堂には、もう誰もいなかった。


 廊下の喧騒を他所に、ここだけが別空間のように静まり返っている。


 厨房からは変わらず調理の湯気や油の香りが漂ってくる。


 床には、蹴倒けたおされて散乱した無数のパイプ椅子。つい先ほどまで、規則正しく並べられていたテーブルも、今は、逃げ惑う人波に押し退けられて、ちぐはぐにばらけて、顕微鏡で観測した染色体のようだった。そして、そのテーブル上には、食べ残された料理の残骸たちが、恨めしげにこちらを睨んで佇んでいるように見えた。


 十三時十六分。 


 一輝は、いよいよ目標を追い詰めた。


 さっきまで、自分たち食事をしていた窓際の席。


 その前には、怪しげな風貌の男が二人、こちらを睨んで立っていた。



「あんたたちが仕掛けたのか、あの爆弾」



 一輝は、相手の装備に警戒しつつ、二人の顔をじっと睨んだ。


 ゆっくりとにじり寄る。


 額に浮かんだ汗の水滴が、玉になってこめかみを伝い落ちるのを感じた。


 つばの短いキャップを深々と被った二人の男は、薄汚れた緑色の作業着姿だった。どこからどう見ても、明らかに軍の関係者でないことは確かだろう。一輝に追い詰められた男たちは、まるで獰猛な爬虫類のような切れ長の目を向き、こちらを見返していた。


「なぜ分かった」白髪混じりのヒゲ面の壮年が、苦々しく口走った。酒で潰された喉特有の、しゃがれた声だった。


「この状況で、あんたたち二人だけが、逃げ惑う職員を見て、余裕な表情で笑ってたからだ」一輝は鋭く答える。


 言われた男は、顔を斜めに下げて吐き捨てるように舌打ちをした。


(警備があるはずなのに、こいつら、どこから入ってきたんだ……?)


 ほんの一瞬、無駄な思考を巡らせている隙に、男は右手を懐に突っ込みなにかを取り出した。


 拳銃だ。


 黒光りした、冷たく小さな銃口が、ゆっくりとこちらに向けられる。


 否、実際はもっと早かったのかもしれない。


 でも、生まれて初めて銃口を突きつけられた一輝にとって、相手の動きは、亀ほどにゆっくりと感じられた。



「いっちゃん!」



 次の瞬間、背後からは達也の声。


 それとほぼ同時に響いた、二発の乾いた銃声。


 痛いというよりも、熱かった。


 一輝は胸元と足に、銃弾と火薬の熱を感じたまま、膝からその場に倒れ込んだ。


 正直、何が起こったのかはよくわからなかった。


 うつ伏せで倒れた。


 わかったのは、それくらい。


 顔をつけた床は、冷蔵庫のように冷たかった。 


 そして、なぜだか躰だけは異様に熱い。


 自分の血だ……。


 生ぬるい……。


 視界が白く、遠のいていく。


 ガラスの割れる音。


 建物全体の空間が、膨大な熱を抱いて膨張していく。


 意識が消えそうだ。


 眠いかもしれない。


 昨日、あんなに寝たのに……。



「……っちゃん!」



(達也……)



 十三時十七分。


 中央事務棟は、複数の爆音に引き裂かれるかのように爆破された。

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