02. 純白のそよ風

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 静まり返ったテーブルに、少しずつ周囲の喧騒が乗り上げるように戻ってきた。


 気がつけば、食堂は満席だった。廊下には、席待ちの行列ができているかもしれない。


 一輝は、仕方なく冷めかけたオムライスを口に運ぶが、今朝からあまり食欲がなかったことを思い出した。スプーンを持った手が止まる。


 代わりに、食堂の中を見回し、士官学校の同窓生を探してみることにした。けれども、食堂に見知った顔は一人もおらず、見知らぬ顔ばかり。多くは現役の先輩隊員や職員だろうか。一部には、自分たちと同じ入隊式の制服を来た、見たことのない新規隊員も混ざっていた。


 それもそのはず、今年、北部中央基地に配属された新規隊員は三百名。その内、士官幹部候補生は一輝たちを含めてたったの25名だと、入隊式の最中に報告が上がったのを思い出す。大きな町のように広い基地内には、今いる場所の他にも複数の食堂や購買があるのだから、同窓生を探そうとするほうが無理な話である。ほとんどは、寮に向かうか、それとも配属先の部隊で、すでに厳しい洗礼を受けて怒鳴り散らされているかもしれない。


 一輝は、視点の定まらない虚ろな表情をしたまま、そんなことをぼんやりと考えた。


 国防軍に入隊する新規隊員は、大きく二分されている。


 一つは、士官学校の卒業生。四年間、軍事的な専門知識の習得と心身の鍛錬を積んだ士官幹部候補生である。もう一つは、一般的な大学を卒業後、または就職した一般企業を退職して入隊を希望する一般志願兵である。


 一輝たち七人(と、例外の荒田守)は、言うまでもなく士官候補生である。しかし、彼らのような士官幹部候補生は、新入隊員の約二割に過ぎず、多くの隊員は一般志願兵である。その理由は、士官学校卒業生全体の人数が、あまりに少ないからだった。


 実際、毎年多くの若者たちが士官幹部候補生を目指し、士官学校に入学する。けれども、その中から卒業に至る人数は、入学した人数の半分にも満たないと言われている。士官学校での四年間に渡る過酷な訓練、厳しい上下関係、緻密に組まれた学習スケジュール、執拗なまでの生活管理は、現代の温室育ちの若者には地獄でしかなく、多くは、一年もたずに退学してしまうか逃げ出してしまうのである。中には、初日で辞退し、この場を去ってしまう者もいた。一輝は、同級生の中から、そういうメンバを数名は見たことがある。


 一輝も、彼らも、何度怒鳴られただろう。


 何度殴られただろう。


 睡眠時間なんて、ほとんどなかったように思う。


 楽しい記憶なんてほとんどない。


 あるのは、痛み、苦しみ、涙、嘔吐。


 そんなものばかりで、辞めるかどうかを悩む暇などなかった気がする。


 そういう意味では、弱音も吐かず、馴れ合いもせず、なんとか卒業まで到達した一輝たち同窓生七名は、今期卒業生の中でも非常に異質な存在として、周囲からは暗に評価されていた。


 でも、考えてみれば当たり前だ。


 これから、国を守る立場になるのだ。多少の辛さや苦労で簡単に根を上げているような人間には、軍人なんて務まらない。それに、戦争なんて、止められやしない。


 彼らはそれがわかっていた。だからこそ、入隊式を終えた今も、配属先さえ知らされていない自分たちの状況に、焦りや不安の感情を覚えているのであろう。


 一般的に仕官幹部候補生は、入隊後は軍事のプロフェッショナル、即戦力として、即座に実戦場に投入されることも少なくない。将来的には、尉官や佐官など、軍規や戒律を保つために重要な、上層を担う士官としての活躍を前提とされている。入隊時初期は、准士官のとして、最下位である一等准尉を国防長官から任命されることになっている。


 一方で、外部から経験なく入隊してくる一般志願兵の多くは、十代後半から二十代前半の若者で構成されているが、中には三十代中盤の志願者もおり、年代層は幅広い。入隊時の知識や体力面にばらつきもあるため、入隊後に適性検査や技能訓練を行い、その結果によって、兵士としての最下位である二等兵や一等兵が任命される。中には、上等兵に任命される人間もいる。


 つまり、士官幹部候補生と一般志願兵の間には、体力、知識、経験、階級など、それだけ入隊時から大きな隔たりと区別があるのである。ただし、今日の入隊式に限っては、皆同じ制服を着用しているためほとんど見分けがつかない。


 一輝たちから少し離れた後ろのテーブルにも、見慣れぬ新入隊員が八名座わって食事を取っていた。年齢は二十代から三十代後半と幅広い。全員がそれぞれ、今日この場で出会いましたという雰囲気で、互いの腹の中を探るような、どこかぎこちない会話を広げていた。


 一輝は聞くともなく、耳に入り込んできた話に意識を集中していた。



「なあ、オタクはなんで軍隊に入ろうと思ったんだ?」


「仕事が他になかったんだよ」


「俺も」


「別にやりたいこともなかったし……」


「他と比べて給料はかなりもらえるしいいんじゃないか」


「それに軍隊っつても、俺たちの国はどこからか攻撃されるわけでもないから待機ば

かりでヒマだって聞くよな」


「でもなあ、夜勤もあるし、訓練も相当ハードらしいぞ」


「海外に派兵された奴らの中でには戦死者も結構出てるって言うしな」


「それは士官幹部のお偉いさんたちと、同盟軍の連中だろ」


「俺たちは戦地に行くことなんてないよ、素人だし」


「だといいけど……」


「そんなことより、休みの日はどこいけばいいんだ、こんな田舎で」


「市街まで出れば遊ぶところあるんじゃねーか?」


 そんな気だるい会話が延々と続いていた。



「……るぎくん……」


「みつ……くん」


 つい、背後の話に聞き入ってしまった一輝は、自分の名前を呼ぶ旧友の声に気がつかなかった。


「光剣くん」左隣に座る橘エミリが横目で諭すように名前を呼んでいた。


 一輝ははっとして我に返り、目線を彼女に向ける。


「手が止まってるわよ」エミリは、スプーンを持ったまま硬直した片手に視線を下ろしていた。


「あ、ああ……」一輝は、生返事を返した。


 手元に目をやると、半分以上食べ残ったオムライスが、白いプラスティック製の皿の上で、早く食べてくれと言わんばかりにこちらを見上げている。一輝は急かされるように右手を動かし何口か食べたが、やはり食が進まない。いつもは濃く感じるほどの味付けも、今日は味気なく感じてしまうくらいだった。


「一輝さん……、どうかしたんですか?」顔を上げると、正面に座る千草も、心配そうな表情でこちらを見つめていた。


「いや、ちょっとね……」一輝は答えず話を流そうとしたが、真面目な顔でこちらを見つめる千草をみて、考え直した。「後ろの会話が聞こえてきちゃってさ……。なんかショックだなって……。みんな身体を張って命を賭けて戦っているはずなのに、拍子抜けしたっていうか」


「一般志願兵」エミリが小声で呟いた。


 さっきまで黙って外を眺めていた巧が、エミリの発した言葉に反応して、横目で彼女を盗み見た。


「分かってると思うけど、隊員になる全員が、私たちのように明確な目的を持って官学校を出ているわけじゃないわ。そういうものよ」エミリは顔半分だけで後ろを振り向き、話題の先の八名を白けた目で見つめる。


「まあね。わかってはいるんだけど……、でも、実際にああいう会話を聞いちゃうと、なんだかなぁって、さ」一輝は再び、急ぎ足でオムライスを口に運ぶ。


「へえ、一般志願兵って中央基地にも配属されるんだ。駐屯地とかだけだと思ってた」達也は感心した様子で言う。


「人手はいつでも足りないらしいし、配属先は幾らでもあるもの……」みつほが突っ伏したまま、情けなくしおれた顔だけを上げて答えた。顎は、両の手の甲に乗せられている。ちょっと見ると、生首のようだ。「それに、今は都会だって就職難だって言うし、そもそも国全体に仕事がほとんどないんだから、志願して軍隊に入ってくる人は増えてるって聞いたことあるわよ」


「なんだか、温度差、感じちゃいますね……」千草が表情を曇らせた。


「志願兵と私たちはそもそも部隊が違うのだから、関係のない事よ」エミリが吐き捨てるように小声で言った。「関わることもないし」


「ん、なんで関わることないってわかるの、エミリん」達也は、エミリの言葉尻を拾って呟いた。


「別に……」エミリは、視線を逸らして話をはぐらかした。


 周囲の喧騒は収まらない。


 それどころか、人の熱気が増していくばかりだった。


「にしてもよ、あんなこと偉そうに言ってる奴らの方が、簡単に死んだり逃げ出したりするんだよな」平太が面白くなさげに口を尖らせた。


「ちょっと平太。それは言い過ぎでしょ。聞こえたらどうするの」みつほが再び顔を上げて、小声で平太を咎める。「そんなことより、今は私たちの心配しないと……」


「それもそうだね……」一輝は肩を竦めて頷いた。オムライスはもうほとんど食べ終わったものの、胃が少しだけ痛む。



 その時、会計台の方から数名の影が近づいてくるのを視界の端に感じた一輝は、厨房に目を向けた。送った視線のすぐ先には、見慣れた顔の三人が料理を乗せたトレーを抱え、こちらを見ながら立っていた。彼らは、数少ない士官学校の同期生である。


 一輝は彼ら三人が苦手だったので、気づかないふりで少し目を伏せ目がちにして食事と続けようとした。すると、先頭に立っていた目つきの悪い男が声をかけてくる。


 彼の名前は、確か、岸だ。


「よお」ガムをくちゃくちゃと噛みながら、薄ら笑いを浮かべて岸が近づいてきた。「お前らホント、いっつも気持ち悪いくらい一緒にいるよな」


 岸の発言を聞き、テーブルの七人は一斉にそちらを睨んだ。


「別にいいでしょ。あんた達に関係ない」いの一番に反応したのはみつほだった。彼女は、横目で岸らを睨みながら、即座に応戦する構えだ。


「おーおー、相変わらず高嶋さんは怖いねぇ」男は、歪んだ顔をさらににやけさせ、みつほを小馬鹿にするような口調でからかった。


「岸やん、久しぶりじゃん。どうしたの?」彼らに一番近い、通路側の席に座っていた達也が気安い口調で返事をする。けれども、目は笑っていない。


 問われた岸は、いやらしく口元を上げて言い放つ。「一番奥でふてくされてる海馬に用があんだよ」


 名前を呼ばれた巧は、頬杖をついた姿勢を崩さずに、彼らの姿を横目で一瞥したが、すぐに視線を窓の外に向けてしまった。


「やっぱり、へそ曲げてやがる」


「ひゃははは」

 岸の後ろに立つ男二人が、巧を指差し、品のない笑い声を上げた。


「おい、海馬。お前、案の定、航空身体検査、引っかかったらしいな」背の低い丸顔の男が、ねっとりした口調をなすりつけるように言う。彼の名は田辺と言う。


「あ?」巧は切れ長の目をさらに細めて、三人を軽く睨みつけた。フチなしメガネのレンズが鋭く光った。


「エリートパイロット候補だった有名人のかいばさんも、病気と軍の規律には逆らえなかったってか?」もう一人、長身な男が口走しった。この男は佐々木だ。


「ぶはははは」佐々木が言い終わるのと同時に、三人が一斉に品のない高笑いを上げる。


 一輝は、所属クラスの違った彼ら三人のことを詳しくは知らなかったが、彼らの、決して品行方正とは言えない態度や行いは同期生の間で有名だったことはもちろん、複数の指導教官の間でも問題視はされていた。けれども、彼らの誰かが、軍のお偉いさんの孫かひ孫かだそうで、そう簡単には処分できないらしいと、どこかで小耳に挟んだことがある。どこにもよくある依怙贔屓えこひいきの典型だろう。


 また、戦闘機部隊配属希望者として、巧は彼らとよく特別訓練や専門授業を受けていたので、彼らの話は小耳に挟んでいた。もちろん一輝は、自分から彼らに近づき関わろうとは思わないし、巧とも仲が良くないことは明白だった。


(よりによって、なんでこいつらが来るんだよ……)とはいえ一輝は、心の中で小さな不満を垂れ下げるくらいしかできなかった。


「ちょっとあんた達ねえ!」巧よりも先にみつほが怒号を上げて立ち上がった。「さっきから一体なんなのよ。巧くんのこと馬鹿にするために来たんだったら許さないわよ」


 みつほが大声を上げたことで、周囲の視線が一斉に集まり、さっきまで騒がしかった食堂が、水を打ったようにように静まり返った。


「みつほさん、やめた方が……」眉間にしわを寄せて囁いた千草は、みつほの裾を必死に引っ張り、制止しようとした。顔はみつほをじっと凝視し、首は激しく小刻みに横に振られている。


「ほう、どう許さないんだ?」岸らは、いやらしい薄ら笑いを浮かべてみつほの顔を覗き込むように躰を曲げた。「俺たちは海馬を祝福しにきてやっただけだぜ? 普段からあれだけでかい口きいてた『かいばさま』ともあろうものが、心臓病で落第だなんて、こんなにめでてえ事はないじゃねえか。それによ、お前が落第したおかげで、俺たち三人、晴れて揃ってパイロット候補生になることができたんだ。感謝してるんだよホントに。もしもお前がパイロット候補生になってたら、俺たち三人の誰かが、落第してたかもしれねえんだからな」


 再び、三人は下品極まりない高笑いを上げた。


「いい加減にしなさいよ!」みつほは、振り上げた片足を勢いよく振り下ろして地団駄を踏んだ。はっきりとした鋭い口調で言い放つ。「前々から、いつか言おうと思ってたけど、私ね、あんた達みたいなねちっこい男が大嫌いなのよ!」


「みつほさん……」千草は、半ばみつほに追いすがるようにして捕まっていた。顔はすでに、恥ずかしさからか、諦めからか、床に向けられ俯いていた。


 テーブルから離れた入り口付近にも、こちらから発生した静寂と緊張は伝播し、無数の視線が徐々に集まってくる。


 一輝は、周りからの注目度合いが高まる度、半身に痛々しい質量を感じた。


「そりゃどうも」岸は目を見開き、ふざけた顔で口をへの字に曲げる。「まあ、お前にそんなこと言われても、こっちは痛くも痒くもねえけどな」


 三人は、引き下がることなく、執拗に嘲笑を浮かべる。


 その様子を見かねた達也までが、いよいよ立ち上がった。


「岸やん、やめなときなって。ここ、食堂だよ」達也の顔には、いつもの楽天的な軽い笑顔が浮かんではいるものの、しかし目だけは笑っていない。両手を軽く広げて三人をなだめるように、ゆっくりとした口調で言う。「パイロット志望者同士に何があったかは知らないけど、それ以上続けるなら、オイラも黙ってないよ」


 そういう達也に呼応するように、平太が三人に睨みを利かせて無言で立ち上がる。平太なりに格好つけているのだろうが、手の甲で、口端に着いたマヨネーズを拭う仕草は滑稽だった。


「関係ない奴は黙ってろ」佐々木、一歩前に出て平太と達也に凄む。


「おい神代、大鎚、お前らやろうってのか?」丸顔の田辺も、拳を低く握って威勢良く前にしゃしゃり出てくる。


「三人ともやめろって!」さすがの一輝も、平太の仕草に心の中で笑っている場合ではない。慌てて立ち上がって、みつほと達也、平太の三人を見回し、睨み、制した。「入隊初日に何考えてるんだよ……」


「ほっとけ、そんな奴ら……」巧は、憎らしげな表情で岸らを一瞥すると、今度は呆れ顔で肩を竦めて、再び窓の外に視線を戻してしまった。けれども、巧の背けた表情には、どこか沸き立つ怒りを感じ取らずにはいられない。一輝はそう感じた。


 その時である。


 一触即発の状況にざわめき立っていた食堂の喧騒が、突如として色を変えた。


 窓際に集中していた多くの視線が、ドミノ倒しのように、少しずつ入り口周辺に移り出していく。


 静寂は喧騒に。喧騒は、どよめきに変わっていく。


 時刻は十二時四十分。


 一同が待ちわびていた救いの女神は、予定より二十分も早く舞い降りた。


 いよいよ迎えが来たのだ。


 七人が、高まるそれぞれの思いを胸に、緊張と固唾を思い切り嚥下したに違いない。


 純白の衣に身を包んだ女神の姿は、場に張り詰めた陰湿な熱気を冷ますかのように清々しい。まるで、この地に吹き始めた、初春のそよ風のように爽やかだった。


 女神が一歩、また一歩と食堂の奥に足を踏み入れる。


 その度に、どよめき立つ周囲は、時を止められたかのように静まり返っていく。


 純白のそよ風は、柔軟な身のこなしで、硬直した大勢の隙間を縫うように、すべるように通り抜けていく。


 先の細いヒールがタイルをノックする硬質な音。


 コツコツと鳴り響く。


 完熟した麦畑のように滑らかな金色こんじき毛髪もうはつが、上品な歩様に揺れ動く。なびかれた毛先の辿った軌跡には、春を思わせる、気品漂う柑橘系のシャンプーの香り。うなじに引かれたオーデの放つローズの色香いろか。それらが螺旋らせんに入り乱れ、香りのグラデーションとなって、四方に拡散、八方に充満していく。


 高貴なオーラを放つ救いの女神は、周囲の視線と驚嘆の声を絡め取りながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。


「ニーナ教官……」


「なんでこんなところに教官が……?」


「マジかよ……」

 岸ら三人は、口々に小声で呟いた。


 新調された純白のワンピース軍服で颯爽さっそうと歩くニーナは、まさに名実ともに女神か天使のようであった。


 数秒前まで勢いづいていた岸らも、その姿に見とれ、今は嘘のように鳴りを潜めていた。そして、彼らのほうけた羨望せんぼうの表情は、少しずつ、おののきと驚愕が入り混じった、醜い歪んだ表情へと変わっていく。


 まずい場面を、まずい人物に見られてしまった。 


 表情に映し出されたのは、そんな彼らの気まずい本音だった。


 一輝たちの座る窓際の席まで到達した天使は、端正な顔立ちに微かな笑みを浮かべ、しなやかな動作で敬礼した。一輝ら七名は慌てふためき立ち上がり、整然と敬礼。床に打ち付けた足音が、一斉に揃って心地よい響きとなる。彼らが、どれだけ厳しい軍隊教育を受けてきたかが、それだけでもわかるようだった。


 敬礼を続けた彼らの表情には、ようやく生まれた新鮮な安堵と不安がかすかに浮かび始めていた。


 食堂にいる全員の視線は、ニーナの色香に引きづられるように、再び窓際に集まった。


 敬礼を終えたニーナは、わずかに首をかしげた。密集した針のように、背後から突き刺さる巨大な視線の質量を気にも止めず、飄々ひょうひょうとたったひと言。

「行きましょう」と、そよ風のような優しい声で告げた。


 ニーナは、鋭いかかとを軸にくるりと振り返ると、穏やかな表情のまま入り口に踵を返す。


 するとニーナは、かたわらで呆然と立ち尽くす岸ら三人の前で、一瞬だけ立ち止まった。しかし、彼女は彼らの顔さえも見ず、そちらに目を向けることもなく、淡々とした表情で前を見たまま警告を放った。


「他人の不幸や病を嘲笑あざわらい、つけ込み、罵る。これから国を守ろうとする国防軍の仕官候補軍人としての、あるまじき行為。非道、非倫理。あなた達三名の素行については、空軍司令将校にしっかりと報告しておきます」


 ニーナはそう言い残すと、すぐに足を進めて、その場を立ち去ろうとした。


 しかし、入り口に足を向けるニーナの後ろ姿を苦々しく見つめる岸は、「落ちぶれ同盟国の教官風情に、今更なにが出来る」と毒づいた。


 しかし、女神は、ちらりと背後に横目を送るだけで、振り返ることもなく無言で食堂を後にした。


 一輝たちも、彼ら三人の存在を気にしつつも、足早にニーナの後を追う。


 今まで無言を貫き通していたエミリも、彼らの前で一歩立ち止まった。そして、口を斜めにしてひと言呟く。


「残念ね」エミリは、食堂の入り口に視線を固定したまま言った。


「残念? なにがだ」岸はエミリの無表情を軽く睨みつけた。


「あの人、今期から特進して、今日からは司令官……。階級上は、あなた達の上官の上官ね」冷たく言いあしらうと、すぐにその場を立ち去った。


 背後で佇む田辺と佐々木の顔には、明らかに焦りの色が広がっていく。


 テーブルの奥で立ったまま黙っていた巧は、全員が食堂を出たのを見計らって立ち上がり、彼らの前に歩みでた。そして、エミリの姿を追いかける岸の肩に軽く片手を置きひと言だけ言い残す。


「悪いな。俺たちは、お前らに構っていられるほど暇じゃないんだ」

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