10. 口どけ
10
「じゃあ、あなたは
「あたし、穂花……?」少女は、失った記憶を手繰り寄せようとしているのか、困惑気味に首を傾げた。アタッシュケースから出てきた父のハンカチを顔に押し付け、匂いを嗅ぎ続ける姿は、飼い主を求める子犬のようだ。
植物遺伝子工学の第一人者である愛咲誠一。その男が、迫り来る死の
橘エミリは先ほどから、無表情のまま、テーブルの上に照射されたままのホログラムモニタを覗き込み、軽やかな動きの指先でキーボードを叩いていた。調べているのは、愛咲穂花のことである。
「駄目……」エミリは顔を上げて首を横に振った。「全く出てこない。出て来るのは表面的なプロフィールだけで、所属や経歴、家族構成の事はなにも……」
「残念……」みつほが肩を落とした。
「でもよ、あの愛咲っておっさん、すげえ有名な研究者なんじゃねーのか?」平太が首を竦めて聞いた。
「そう」エミリは小さく頷いた。「でも、それは飽くまでも学会の中での話。有名だからといって、必ずしも本人が情報を公に発信しているとは限らない」
「そんなもんかよ」大鎚平太は口をへの字に曲げた。
「なんかさ、オイラ思うんだけど、最近のネットってさ、知られちゃまずい不都合な真相を隠すために、無駄な大量の情報が流されてるようにも感じちゃうよね」神代達也が、軽い口調で言い放った。カウンタの椅子に寄りかかったまま、両手を頭の後ろで組んで、にこやかに笑っている。「欲しい情報ほど、すぐに埋もれて消えちゃう感じ」
「そうかもしれないわね……」エミリは軽く頷いた。
しばらくの沈黙。
この間、黙ってみんなの様子を見守っていた袴田千草が口を開いた。
「あの、もしかしたら……、ですけど、ご本人が情報を消されたとは考えられないでしょうか……?」
「どうして?」隣に座るみつほが聞いた。
「いえ、これといった理由はないんですけど、手紙を読む限り、博士ご自身は、暗殺されるかもしれないって勘付かれていたようですし、もしかしたらと思って……」
「うん……」みつほは頷いたが、あまり腑に落ちた表情はしなかった。
再び、しばらくの沈黙。
皆が皆、それぞれの考察を巡らしている様子だ。
「でもまあ、とりあえずはこの子の名前も分かったことだし、いいんじゃないかな」
「でもよ、一輝。この先お前、どうすんだよ?」カウンタに背を向けて腰掛けている平太が声を上げた。
「どうするって?」
「この子、ずっとここで暮らすのか?」
「それは……」一輝は、はっとした表情で目を見開いた。平太に指摘されるまで、そこまで思慮していなかった自分に、今更ながらに気がついたのだ。一輝は、困った様子で口ごもり、そのままの表情をカウンタの奥の兄に向け、上目づかいで見遣った。
弟の一輝の、暗に了承を求めるようなしぼんだ表情を受け止めた歩は、鼻から勢いよくため息を吐き出し、すぐに答えた。「親父もまあ駄目とは言わないだろうし、うちは構わないが……。そう簡単な話でもないだろう、この一件は」
確かにそうだ。
この子の名前がわかったところで、なにも解決はしていない。
飛行機事故のことも、
愛咲誠一のことも、
そして、テーブルの上でぼんやりと光る種のことも……。
一同の真剣な視線が少女に集まる。
穂花は、誰かが口を開く度にその方を向き、不安そうな視線を送る。周囲が自分の今後の話をしているのを自覚しているのだろう。飼い主を決める会議の場に置かれた、捨て犬のようだった。
歩はがっしりとした両腕を組み、少女を見つめながら話を続けた。
「第一に、このアタッシュケースの中身。これが果たして何なのか? 第二に、この子は一体何者なのか? そして、今わかっている限り、恐らく今後、どちらも得体の知れない何者かに追われる可能性は捨てきれない。その状況で、この子やその種みたいなものをここに匿うということは、それなりのリスクと危険を考えなければいけないな」
そう言われた一輝は、懐で歩の顔を見る穂花の顔に視線を下ろした。涙に潤んだ純朴そうな瞳は、相変わらず赤く腫れている。少女はこちらの視線に気付いて、充血した目で見上げてきた。一輝は、彼女の視線を受け止め、しばらく見つめ合った。そのまま表情を曇らせてしばらく黙り込んでいたが、ふいに、なにかを決意した様子で力強く言い放った。
「俺が、守るよ……」
一同は少し驚いた様子で顔を上げ、一輝を見る。
「危険なのはわかるけど、でも、だからといってこのままこの子を放って置く訳にもいかないし……、だから、俺が責任を持って、何があっても守るよ」一輝は、力強い視線でもう一度兄の顔を見上げた。「兄さん……、いいでしょ?」
「まあ、どうせお前はそう言うだろうと思ってたよ」歩は少しだけ口を斜めにして微笑んだ。「それでいいと思う」
「あの……、わ、私にも協力させください……」黙って様子を見ていた千草が、どもりながら口を開いた。「これもきっとなにかの縁だと思うんです……。だから、もしも私に出来ることがあったら言ってください。なんでもします」
「千草……」一輝は、テーブルを挟んで向かいに座る千草を見て顔を明るくした。「ありがとう」
「まあイッちゃんにかかれば、必然的にこうなるよね」達也もどこか嬉しげに言う。「オッケー。オイラもなんだかよくわからないけど協力するよ。なんか楽しそうだし、こういう出会いこそ、運命とか自然の流れっていうやつなんじゃない? ねえ、歩さん」
「え?」歩は、普段、神社の説法で使っている話を達也に出され、苦笑いする。「ま、まあ、そうだな……」
「もちろん私だって協力するからね」みつほは照れ臭そうに目を細めながら一輝を見て言う。
「協力っていうかさ、みんなで行った筑紫山で起こった出来事なんだから、どうせなら全員でやろうぜ」平太は椅子から立ち上がって、全員に声をかけた。「うおお、なんかわかんねーけどテンション上がってきたー」
「平ちゃんも、たまにはいいこと言うね」達也は、意地悪そうに口を曲げて横目で平太を見た。「でも、相変わらず単純だね」
「うるせえよっ」
今しがた、不安な顔で俯いていた穂花だったが、周りの言葉に絆されたのか、少しだけ笑みを浮かべて言った。「みんな、ありがとう……」
すると、エミリだけは、周囲の様子を他所に、無表情のまま無言で立ち上がった。
「あの、エミリさんは……」千草は不安そうな表情で、立ち上がったエミリを見上げる。
「あとは、問題はこのアタッシュケースなんじゃない?」周りの流れを断ち切り、千草の問いかけを聞き流すように、エミリは淡々と言った。
彼女は、嫌な時は嫌だとはっきり意思表示をする。同級生の彼らは、それをよく知っていた。けれども今はそれがない。つまり、穂花の件については了解した、ということだろう。その場の全員が、口には出さないけれど、そう理解し、少しだけ微笑んだ。
エミリは、一輝に抱えられた穂花の前に歩み寄った。ロングブーツを履いた細くて長くて白い足を、曲げづらそうにしながら、少女の視線の高さに目線を合わせるように屈み込んだ。
「あなた、他に思い出したことはない?」
エミリは、
氷のように冷淡なエミリの視線に絡みつかれた穂花は、天敵に追い込まれた草食動物のようにたじろいだ。怯えた顔を一輝の胸に寄せ、両手をいっぱいに伸ばして、彼の体に必死にしがみついた。
一輝は、穂花のつめ先が背中に食い込むのを感じ、彼女がどれだけ怖がっているのかが分かったので優しく声をかけた。「怖がらなくても大丈夫だって。このお姉さんは、格好こそ変だけど、穂花のことを取って食ったりしないからさ」
「人を化け物みたいに言わないで」エミリは一輝を見上げて睨みつけた。「この服は私の正装なの。あなたの一方的な見方を、この子に押し付けないで欲しいわ」
「そ、そんなに怒らなくても……」一輝は全身の毛穴から脂汗が浮き出るのを感じた。
「橘だったら本当に食いそうだけどな」と、隣の達也に小声で耳打ちする平太。言われた達也は当然、黙って失笑、苦笑いしかできない。
「教えて。名前以外に、なにか思い出したことはない?」エミリは優し気な調子で続ける。
穂花はエミリをじっと見つめてしばらく間を置いたが、ゆっくりと無言で首を横に振った。
「どんな些細なことでもいいの。あなたのお母さんのことでも、生まれ育った場所のことでも、なんでもいいのよ」
穂花は再び、困った表情で首を横に振った。そして、今度はエミリに聞いた。
「私のお父さん、死んだの……?」
「……死んだわ」エミリは一瞬ためらったが、表情一つ変えず、穂花を見つめたまま答えた。「人はいつか必ず死ぬの。私も、あなたも、例外じゃない。だから、悲しむ必要はないわ。それに、あなたのお父さんは、最後にあなたという立派な存在をここに残した。それが事実。きっと、とても素晴らしいお父さんだったと思う。あなたは生きているの。私なんて……」
一輝は、エミリの言わんとしていることがよくわからなかった。
最後のひと言は、周りには聞こえないほどか細い声だった。けれども、一輝だけはそれを聞き逃していなかった。彼女が言わんとしていることの意味がよくわからなかったが、エミリは、最後のひと言を口にした時、一瞬だけ穂花から視線を外し、戸惑うように黒目を泳がせた。
エミリはすぐに穂花を見つめなおし、両手で穂花の手を優しく握りしめ、ゆっくり淡々とした口調で続けた。「だから、あなたのお父さんの思いを遂げるためにも教えて欲しいの。あなたは誰? どこから来たの? そして、どうしてあの空の上から降りてくることができたの?」
今度は、エミリの視線は研ぎ澄まされた刃物のように鋭かった。穂花を一瞬たりとも捉えて離さない。
「おいおい、橘、いくらなんでも急にたくさん問い詰め過ぎ……」平太が後ろから非難するような声を上げようとしたが、隣の達也が、しっ、と人差し指を口の前に置いて制した。
「な、なんだよ達也……」
平太が達也を睨んだ時、一台の車が、猛烈なスピードで神社の境内に駆け込んできた。
エミリと穂花以外、全員の視線が広場に釘付けになる。
四つのタイヤに巻き上げられた広場の白砂が、あっという間に
一同が唖然とする中、少しずつ消えていく砂埃の中からは、車を降りた、士官学校の正装を着込んだ海馬巧が現れた。彼は自分で巻き起こした砂煙に不快な表情をしながら、食堂のドアを開いた。
「悪い、遅くなった」巧は、頬の片隅に、かすかな申し訳なさをトッピングした顔で言った。
時刻は十一時を過ぎていた。
巧は、食堂に足を踏み入れるなり、立ち止まって目を見開いた。
食堂に勢ぞろいした同級生と、その家族が一名。ほぼ全員が唖然とした表情で巧を見据える中、目の前では、ブロンドの少女と見つめ合う、ゴスロリファッションのエミリ。彼女は巧のことが視界に入っていないのか、こちらを一切見ようともしない。瞬き一つせずに、大きく黒目がちな二重の瞳で少女をじっと見つめている。
「な、なんだ、なにやってんだお前ら」そういいながら、後手にドアをゆっくりと締める巧。視線は、少女とエミリに釘付けになっている。
「タクちゃん、こっち」達也は先ほど同様、立てた人差し指を口元にかざしながら小声で言い、巧を自分の隣のカウンタ席に招き寄せた。
巧は、見つめ合う二人に視線を送ったまま、みつほと千草の座る中央のテーブルを迂回してゆっくりとカウンタに腰掛けた。
その状態のまま、静かな数十秒が過ぎただろうか。
ある瞬間を境にして、エミリに鋭く見つめられた穂花は、眠気に襲われたような表情で虚ろに目を細めた。
「あたし、本当に覚えてないの……。ぜんぜん思い出せないの。お父さんのことも、お母さんのことも……」穂花は、古臭いロボットのように棒読みで言った。
「あなたの国のことは?」エミリはゆっくりと聞く。
「分からない。でもね、お父さん、出発する前にすごく喜んでいて、私もすごく嬉しくて……」
「なにを喜んでいたの?」
「覚えてない……」
「お父さんは誰に会いに、この国に来たの?」
「……お父さん、クマさんに会いに行くって言ってた」
「クマさん……?」エミリは少しだけ眉を上げて聞き返した。
「でも、飛行機が突然爆発して、お父さん、すごく怒った顔で私に逃げろって」
「どうして怒っていたの?」
「わからない……。でもね、お父さん、慌ててあたしの口をあのハンカチで塞いだの。すぐに隣に背の高い男の人が走ってきて、私を抱っこして……、空に……」
そこまで言うと、穂花は虚ろだった目を完全に閉じて、頭を下げ、気を失ったように眠ってしまった。エミリは、生気を失ったような穂花の顔を見ながら小さくため息をつき、無言で立ち上がった。
「え、ちょっと、エミリ! 今、穂花ちゃんになにしたの?」みつほは血相を変えて、半ばテーブルの上に身を乗り出しながら高い声を上げた。
けれどもエミリは、叫ぶみつほを横目で一瞥するだけで答えたない。
「ねえってば!」
「ブレイン・ハック……、でしょ、エミりん」エミリが答える代わりに、達也が言った。神妙な面持ちの中に、どこかニヤけた表情だった。
「そうよ」エミリは小さく頷いた。
「ぶ、ぶれい……。なによそれ」みつほは血相を変えたまま眉間にしわを寄せ、二人を交互に見据える。
「もしかして、ニーナ教官が心理学の授業で補足としておっしゃっていた、あれ……、ですか?」千草が、背中を縮こめながら恐る恐る聞いた。
「そうそう、それ。さっすがチイちゃん」達也は千草にウィンクして微笑み、右手を銃の形にして撃ち抜くジェスチャをした。
「ああ、あれか……」一輝は納得したように頷いた。
「だからなによ、それ」みつほは達也を睨みつけた。
「そんな授業、やったか?」平太は首をひねる。
「あの時、みっちゃんは風邪ひいて欠席。授業には出てなかったんじゃなかったっけ」
「……確か、あの日はみつほは休みだったね」思い出しながら一輝が答えた。
「相手の心拍や脈、発汗量なんかを測りながら、網膜と瞳孔を通じて、自分の意思で相手の脳神経を操作する、心理捜査に使う超高等テクニック……、だっけか」巧が口を開いた。足元に置いていたカバンのポケットから携帯端末を取り出し、みつほに向けて掲げ見せる。「この携帯電話にも使われてるオムニスの脳認識機能を、生身の人間が再現するって教わったけどな」
「はあ? なによそれ……、全然意味わかんないんだけど」みつほは苦笑いしながら顔をしかめる。「そんなこと、できるわけないじゃない。できたとしても、なんでそんなこと、エミリができるのよ?」
「そんなん、授業でやったか……?」平太は首をひねる。
「平ちゃん、あの時、後ろの席で居眠りしてたでしょ」達也が白けた顔で平太を見て苦笑した。
「え、そうだっけか……」平太は照れたように頭を掻く。「照れるなあ……」
「オイラ褒めてないよ……」
「まあ、要は催眠術みたいなもんだろ?」
「ちょっと違うけど、オイラたちみたいな普通の人間には簡単にできない技術であることは確かかな……」
「エミリ、お前いつの間にそんな技を覚えたんだ」巧が疑わしそうな表情で問う。
「さあ」エミリは話をはぐらかすように肩をすくめた。「私も実際にやってみたのは初めて。この子がまだ子供だからできるかもしれないと思っただけよ。でも、この子の記憶は本当に失われているみたいね。少しはなにか思い出させることができるかと思ったけど……、なにか得体の知れない強い力で、強制的に記憶が封じ込められているような感じがする」
「すげーな橘! お前、超能力者みたいじゃねーか」平太は関心した様子で声を上げた。
けれども巧は、エミリの返答に不納得そうな顔をして、息を漏らした。「なーんか、納得いかねえな……」
「ああ、もう私なんだか訳がわからな過ぎて頭痛がしてきたわ……」みつほは、あまりに現実離れした会話についていくことができず、テーブルに肘をつき、両手で頭を抱えた。
「同感だ……」カウンタの奥で立ち尽くしていた歩が、みつほに向かって苦笑いする。
「今後は、エミりんを怒らせたら、オイラたちもハックされちゃうかもよ」達也は、場の状況を楽しむように微笑んだ。
「じゃあよ、一回で分からないなら、その子が目を覚ましたら、また何度もやってみればいいんじゃねーのか?」平太が言う。
「だめだよ。確かブレイン・ハックって、かける方もかけられる方もかなりの負担がかかるんでしょ」一輝は、眠りに落ちた穂花を両手で抱き直しながら、エミリを見上げる。
「そうね。その子の様子を見れば分かるように、特に子供相手には危険だと思うわ。それに、多分何度やっても結果は同じ」エミリが淡々と答える。「なにか余程、強いショックや大きな恐怖を経験したのかもしれない」
「そりゃまあ、墜落事故だしなあ……」平太が頷いた。
「オムニス端末だって、目と脳神経に負担をかけるっていう理由で、未成年の使用を禁止してるくらいだしね」達也が言う。
「そうなのか……」と平太。
「そんなことより、穂花ちゃん、大丈夫なの?」みつほは気を取り直して顔を上げ、誰ともなく聞く。
「大丈夫よ。少し眠れば、すぐに目を覚ますわ」エミリが答える。
「ならいいけど……」みつほが不安そうに答えると、エミリは穂花が眠ったまま握り締めているハンカチをそっと取り出しアタッシュケースに近づいた。
「エミリ、なにするの?」一輝が聞く。
エミリはその声を無視したまま、アタッシュケースにそっと手を添え、蓋を開けた。冷蔵型のケースは、エミリの冷たい手で触られたことに驚いたのか、プシュという音を上げて、圧縮されていたエアを吐き出した。テーブルの上に、真白な冷気の
エミリは、何かに取り憑かれたような無表情で顎を引いた。黒目がちの大きな瞳で、光を放つ種を凝視する。墨を落としたような漆黒の黒目には、小さな淡い光の粒が細やかに映り込み、怪しいほどに綺麗で、一輝はつい、彼女の瞳に引き込まれそうなほどに見つめている自分に気がついた。
そんな一輝の思いを他所に、彼女は黙ってシャーレに手を伸ばした。そして、掴み上げたシャーレをそっと、左手の手のひらに乗せる。
「エ……、エミリ?」「エミリさん?」みつほと千草が、不審な動きを見せたエミリの名を呼んだ。
しかし、不穏な空気を醸し出す周囲を気にもとめず、エミリはシャーレの蓋を開けた。流れるような手つきで蓋をテーブルに置き、白い手先きで相崎誠一のハンカチをつまむ。そして、そのハンカチでシャーレを覆い隠し、直後、眠るような薄明りを放つ
あまりに突然で一瞬の出来事に、エミリを囲んだ全員はは唖然とした表情で目を見開いた。
「ちょ、ちょっと!」
「お前、なにやってんだよ!」
「おおーーい!」
「食べたんですか!?」
立ち上がり、唖然とし、目を見開き、閉口し、息を飲み。
皆それぞれの反応を示して、驚嘆の声を上げた。
そんな中、当の本人橘エミリは、平然とした顔で目を細めた。口の中に運んだ物体が、舌の上で淡雪のように溶け消えていくのを感じた後、固唾を飲み込むように口をすぼめてから、ゆっくりと周囲を見回した。その表情には、焦りや動揺、罪悪感の欠片もなく、さも当然と言わんばかりに毅然としていた。
「なに?」エミリは軽く首を傾げた。
「いやいやいやいや……、なに? じゃねーだろうよ!」椅子から立ち上がった平太は、大げさなくらいに両手を振り上げエミリを咎めた。
「毒でも入ってたらどうするの?!」青ざめた顔でみつほが声を上げる。
それでもエミリは表情を崩さず、淡々と言い放った。
「あなたたちこそ、この子の話聞いてなかったの?」
数秒の沈黙の間、全員は、それぞれ、お互いの呆れ顔を見合わせるように視線を交わし合った。
「どういうことだよ……」一輝は、腕の中で寝息を立てて眠る穂花の顔を覗き込みながら、困惑した表情で聞いた。
「忘れたの? あの夜、この子の背中に生えていた綿毛のこと」エミリは変わらず、淡々と答える。「食べさせられたのよ、この子」
「食べさせられた……?」と一輝。
「なにがだよ」巧の顔は、焦りと怒りに満ち満ちている。
「まさか……、プラント・ニューロンですか?」千草が、眼鏡の奥にある目を真剣に見開き、呟くように答えた。
「なんだそれ?」平太は眉を潜めて千草の方を向いた。
「そうかもしれないわね」エミリは千草の目を見て頷いた。
「んもー!」みつほは取り乱したように頭を横に激しく振って、目をくるくると回した。
「ブレインとかプラントとか、外人の名前みたいに次から次に難しいこと言わないで! みんな一体なんなのよお……?!」
「大丈夫だ、高嶋さん。俺もまったく分からん……」歩は、苦笑して肩をすくめた。
「俺も……」と半笑いで顔を歪ませる平太。
周囲の理解が薄いことを察知した千草は、穏やかな口調で説明を始めた。
「あの、ええと、プラント・ニューロンは、まだしっかりと確立された技術ではありませんが、主に野生の樹木に多く含まれているジベレリンとサイトカイニンという成長ホルモンを、樹木の生体からナノレベルで抽出して、人体内で遺伝子的にオーキシンに変換して、それをシナプスを通じて伝達して、体の恒常性維持機能に働きかけるように……」
「ちょ、ちょっと待ってチイちゃん……」達也が苦悶の表情を浮かべて、
千草は、達也に制されて言葉を止めた。周りを見回すと、エミリ以外の全員が目を点にして、頭から煙を出すように顔面蒼白で固まっていることに気がついた。
「あ、す、すみません!」千草は顔を真っ赤にして、ものすごいスピードで頭を上げ下げして、両手を超高速で横に振って平謝りする。「ええと、その……」
「愛咲博士が研究していた医療技術のひとつよ」慌てる千草に変わって、エミリが端的に答えた。
「医療技術?」一輝が聞いた。
「そう。植物の遺伝子を人間の体内に取り込んで、自然治癒力と免疫力を高めて病気を治療するの。まだ研究段階の部分も多く、一般的には公にされてはいないことになっているけど、学会では将来を有望視されていて、既に軍事レベルでは実現化されているとも噂されている技術のこと」
「それと、その種と、なんの関係があんだよ」巧が鋭い視線をエミリに送りつけた。
「関係はわからないわ」エミリは首を振った。「でも、常識的に考えて、人間の子供の背中から植物の綿毛のようなものが生えてきて空を飛ぶなんて……、そんなこと、通常では考えられないでしょ?」
「それは、まあそうだな……」巧は小さく頷いてから、フチなしのメガネを片手で上げた。
「それにこの子。さっき、父親からハンカチで口を塞がれたって言っていた。ケースは十二枚のシャーレが入るようにできているのに、なぜか今は十一枚しか入っていない。そう考えたら、ここにあったはずのシャーレの中身は……」エミリは、アタッシュケースの中で、唯一シャーレの入れられていなかった穴を一瞥する。「すでに飛行機の中で、なんらかの形で使われたと思っても、そんなにおかしくはないと思うけど?」
そう言われた巧は、「確かに……」と呟き、腕組みをして下を向いた。
「ということは……、穂花さんはプラントニューロンを口にして、その力であの綿毛を……?」千草は、上目がちでエミリを見て言った。
「この種がプラントニューロンかどうかは私にもわからない。けれど、これは、その技術開発に関わっていた愛咲氏が所持していたもの。これがプラントニューロンだと考えるのは、自然じゃないかしら?」
「理にはかなっている気がしても、難しい話が多くて、ちょっとにわかには信じられないな……」年長者の歩は、神妙な面持ちで冷静に言った。
歩の言葉を境に、全員はしばらく考えるように黙り込んだ。
食堂には、かすかに聞こえる少女のひっそりとした寝息と、全員の唸り声だけが響く。
時刻は十二時。
空高くまで上り詰めた太陽が、境内を取り囲む竹やぶの区切った丸い空から日の光を注ぎ込んでいた。白砂の広場が真っ白な円状に輝き、昼の訪れを告げているようだった。
「なあ、エミリ」巧が、場に張り詰めた重い静寂を打ち破って顔を上げた。「お前が今その種みたいなものを食べたのには、なにか根拠があったのか?」
「そうだよエミりん。体、大丈夫なの?」達也が心配そうな様子でエミリの顔を覗き込む。
「根拠なんてないわ。ただの直感。体は今の所変化はないみたいだし、大丈夫。私の思い違いだったのかもしれない。種は、なんの味もしないし、口の中ですぐに溶けた」
「溶けたって、お前……」巧が顔を軽くしかめた。
「それにしても、いきなり食べ出すなんて、橘、お前マジで思い切ったよな」平太が関心した様子で言う。
「私はただ、どこかの誰かさんみたいに、うじうじ考えたり悩んだりするのが嫌なだけ」エミリは冷たい口調で言い放つ。
「どこかの誰かさん……?」誰かが呟いた。
「私は、なるべく思ったらすぐに行動するの。それに、いつまでもこのままケースに入れておくより、私たちの体の中に隠した方が、安全じゃない?」
「そういう問題じゃねえだろうよ」巧が苦笑した。
「でもよ、その種みたいなのが万が一毒だったり、危険なものだったりしたらどうすんだよ」と平太。
「その時はそれまでじゃない。人間なんてどうせいつかは死ぬんだから、今ここで死ぬのも、後で死ぬのも同じでしょ」
「お前、相変わらず極端だなあ」平太は口をへの字にした。
「私はそうは思わないわ」エミリは冷たい目で平太を見据えた。「私たちはあと数日で戦火の中に飛び込むの。戦場では、考えて立ち止まっていたらすぐに殺されるのよ。私たちに考えている暇なんて、ないんじゃない?」
「確かにそうだけどよ……」
「ねえ、光剣くん。どう思う?」エミリは急に一輝を見下ろし名指しした。
突然名前を呼ばれた一輝は驚き、彼女を見上げる。「どうって……、いきなり聞かれても……」
「あなたさっき、この子のことを、なにがあっても守るって宣言したわよね」
「確かにしたよ。それに、エミリが言うように、考えないで行動することって大事だと思う……。でも……」
「でも……?」
一輝はそう口にしながら、それがなかなかできない自分をよく理解していた。そして、今もまた、でも、と言い訳しようとしている自分を情けなく思い、口をつぐんだ。エミリの的を射た言葉は、自分に向けられた鋭い剣先のようにさえ感じられた。
エミリは、一輝に次の言葉を言わせぬよう、畳み掛けるように続けた。
「守りたいって口で言うだけなら誰にでもできる。口先で言うだけで物事済むなら、誰も苦労しない。戦争も、兵器も、軍隊も、武器も、法律も、憲法も、倫理も常識もいらない。でも、なにかを守るには絶対的な力がいるの。だってそうでしょ。敵は、私たち以上の大きな力でこちらを狙ってくるのよ。あなたには、この荒れた時代の中で、この子を守るだけの力、本当にある?」
エミリは、俯いたまま黙る一輝に冷めた視線を送った。
一輝は、心の奥を見透かし抉るようなエミリの言葉に、心が萎縮し、動揺するのを感じた。周囲も、エミリの辛辣な、けれども真っ当な問いかけに、心の中で頷き、同意し、黙ることしかできないでいた。
(こういう時だ。いつも僕は、逃げたい気持ちに晒される……。逃げちゃダメだってわかっているのに……、自分を甘やかして……、ああ!)
目の前には
身寄りもなく、記憶を失い、孤独に過ごした幼少の頃の自分を、彼女の寝顔に重ねる。
すると、達也が急に声を弾ませた。「よし、オイラも食べてみよう」
「はあ?!」みつほは、頓狂な声を上げた。「たっちゃん、なに言ってるの?」
勢いよく、飛び降りるように椅子から立ち上がった達也は、軽い足取りでエミリの横に立ち、手近なシャーレを手に取り、蓋を開けた。
その様子を見かねたのか、巧も無言で立ち上がり、達也に続く。
「おい、お前ら正気かよ」平太は、横並びに並んだ幼馴染の背中に、罵声にも似た大声を投げつけた。
「そんな訳のわからないもの食べたら、どうなるかわからないじゃない!」みつほも声を大げさに声をあげた。「私、知らないよ!」
「達也さん……、巧さん……」千草は、まん丸な目を大きく見開き、ただただ絶句していた。
彼らとは一回り以上年の離れた歩だけが、二人の様子を黙って静かに見守っていた。
一輝は、目の前に立った二人の表情を見上げた。巧はこの中でも一番背が高く、達也は巧の肩くらいまでの小柄な背丈だったが、二人ともなぜか、信じられないくらい大きく見えた。
「まあ、考えれれば考えるほどわからなくなるって、あのじいさんも言ってたしな」巧は独り言のように呟く。真剣な目つきで、シャーレを見つめていた。
「じいさんって?」達也は笑顔で巧に聞く。
「こっちの話だ」
「そっか」
二人は顔を見合わせ微笑みあった直後、似たような動きでシャーレを開き、淡く輝く小さな種を素手で掴んで口に入れた。
周囲はどうすることも出来ず、二人を黙って見守った。
一輝は、残された八つのシャーレを見つめた。
死の間際の、愛咲誠一の笑顔が、フラッシュバックのように脳裏に蘇る。
『命の花を咲かせて欲しい』
手紙の文字が、声を伴って鮮明に聞こえるようだった。
一輝は目を閉じ、頭を振り、心の中に駆け巡り始めた、逃げるための言い訳や理由付けを振り切った。
心を無にしてシャーレに手を伸ばす。
後ろから誰かに名前を呼ばれたような気がしたが、ほとんど聞こえなかった。
ゆっくりと蓋を開ける。
今、目の前にあるのは、
黒く焼け焦げた
湿り気を含んだ、酸味のある土の香りが上がってくる。
つまんだ指先からは、冷たい感触。
抱きしめた少女の躰からは、温かい体温。
どちらも、生きたものの感触。
極端なほどの温度差が、不思議と心地よかった。
種の放つ淡い光は、ついつい見とれてしまうほどに幻想的だった。
一輝は、なにも考えることなく、息を止めて、種を無心で口に運ぶ。
深茶色で、淡く輝く植物の根は、舌の上で嘘のように溶け去った。
微かな土臭さが、鼻の奥に通る。
味はない。
舌が冷たく痺れた。
全身が少しだけ震えるのを感じた。
「他のみんなはどうするの?」一輝の行動を見届けたエミリは、微かに口元を緩めてから、残った三人に聞いた。
テーブルの上に残された七つの光は、まだ見ぬ主を探し求めるかのように、ただただ静かに佇み、黙していた。
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