09. スズメとミミズとじいさん

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 巧は基地内の更衣室で普段着に着替え、自宅から乗ってきた母親のステーションワゴンで基地を後にした。


 車内のデジタル時計は十時半。今頃、花宮神社には同級生たちが集まっている頃だ

ろう。約束の時間は過ぎている。巧も、すぐにそちらへ向かわなければいけないのは分かっていたが、あまり気が進まなかった。涙で腫れた目を、同級生たちに見られたくなかったのだ。


 助手席に放り投げたバッグから、L字型のアルミフレームで出来た携帯型端末を取り出す。フレーム下辺に施された透明な丸ボタンに親指をかざすと、フレームの内側から音もなく緑色のレーザーが照射され、長方形のモニタが表示された。巧は、画面上に表示されたメニュを視線入力で操作する。メールを立ち上げ、集合に遅れる旨を伝える文章をタイプし、光剣一輝宛てに送信した。


 端末の名称は『オムニス』。十年前ほど前、世界最大の軍産複合企業であるフィディス社が軍事用に開発したレーザホログラムと脳認識操作技術の総称である。オムニスの主な特徴は、物理モニタを一切使用せずに、照射されたレーザホログラムと簡素なタッチウェアによって、使用者の網膜と指先から、脳の認識や意識、判断等をスキャニングすること。それらの情報を統合解析することで、ほぼ手先を使わない電子端末操作を実現したものである。


 元々は軍事技術であったオムニスは、瞬く間に民間にも普及し、あらゆる産業に革命を起こした。今までの物理モニタや物理キーボード等の操作が完全になくなったわけではないものの、民間企業レベルで使用されるソフトウェアや電子端末はもちろんのこと、個人の携帯電話やパソコン、家電製品などにも使用されるほどに普及している。そして、この技術が使用される端末は、すべて『オムニス』という商標がつけられ、世界中で親しまれている。


 巧は、基地のゲートを潜ると、戦闘機の発着による騒音が届かない距離の所まで走らせた。幅広の農道を見つけると、左の前輪があぜに乗り上げるように車を停めた。車体が助手席側に僅かに傾く。

 車外に出た。外の空気は乾いていて、土の匂いがした。筑紫山が吹き下ろす、心地の良い風が髪を撫でる。


 巧は空を仰いで思い切り深呼吸した。


 空は雲ひとつない晴天だった。日差しはとても暖かい。顔を下ろして筑紫山に目をやると、頂上に僅かな残雪を残した山肌が、青空の中空に、線で描かれたようにくっきりと浮かんでいた。周囲は見渡す限り、どこまで行っても田んぼの田園風景。どこもかしこも、稲穂を刈り取られた秋の面影を残したままの姿だった。見ているこちらが寒々しくなるような、赤裸々な姿を見せている。太陽にほだされた冷たい表土が、温かみのある土の香りを放ち、畦草の湿った香りを衣装にまとって鼻元まで上がってくる。決して、不快な匂いではない。どちらかというと、巧はこの田んぼ特有の土の香りが好きだった。


 農道は、乱雑なアスファルトで舗装され、田んぼよりも二メートルほど高いところを通っていた。巧は、田んぼに向かって緩やかに下る土手の斜面に腰を下ろして、そのまま頭の後ろで両手を組み仰向けに寝転んだ。背中が少し湿って気持ち悪かったけれど、そんなことは、今はどうでもよかった。


 正面に来た青空は、目が痛くなるほど眩しかった。今にも掠れて消えてしまいそうな薄い雲が低空を漂っていて、かなりの速度で右から左に流されていく。人もいなければ、車も通らない。農閑期のせいだ。トラクタや軽トラックもまったく見かけない。辺りはとても静かだった。むしろ、あまりに静か過ぎて耳が痛い。基地の中で聞いた戦闘機の甲高いジェットエンジンの轟音が、耳の中にまだ残っている。あれから、まだそれほど時間が経っていなかった。


 巧は、目を瞑って、応接室での会話を思い出した。


 航空身体検査の不適合という事実を受け止める間も無く、新しい部隊への配属打診と、そこのリーダに選任されるという大きな話が、降って湧いたようだった。大隈との面談は僅か十五分ほどでしかなかったが、あまりに急な展開を、頭が消化しきれていないのを感じていた。


 大隈からは、決断は急がなくていいと言われた。応接室を出た後、教官、否、司令のニーナからは、面談の内容を誰にも口外するなと釘を刺された。


 もちろん今の巧には、大隈からの誘いを断る理由はなかった。だが、やはり空軍への配属も諦めきれない。この話を断った場合、自分はどこの部隊に配属されるのか。そんな悶々とした思いが、心の中で渦を巻いていた。


 巧はもう一つ、ニーナから聞かれたことで、気になったことを思い出す。

 


『あなた、三日前の筑紫山で起こった飛行機墜落事故について、知っていることはない?』



 ニーナは、眉をひそめて、小声で囁くように言った。


 巧は、予想外の質問に心臓が高鳴るのを感じたが、なんとか無表情を装って、『なにも知らない』と答えることができた。だが、相手は心理学や諜報学に精通した軍部の指導教官である。果たして、どこまで隠し切れただろうか……。


 今思えば、隠す必要もなかったのかもしれない。あの場で見たことを、素直に、正直に話せばよかったのかもしれない。巧は少しだけ後悔した。


 そんなことに思いを巡らしていると、暖かな日差しに照らされて、つい眠気を催してしまった。一瞬、一輝たちとの約束が頭をぎったが、たまには自分を甘やかしてやろうと思い、睡魔に躰を預けるようにして、意識を断った。



 それから、どれくらいの時間が経っただろうか。


 虚ろな意識の中、凛とした鈴の音が響いたような気がして目が覚めた。


 閉じた瞼の裏が明るい。


 視界が真っ白だ。 


 すると、真っ白な視界が、少しだけ暗くなった。


 気配。


 誰かが上からこちらを覗き込んでいる。


 巧は、突如湧き上がった不思議な気配に、目を見開いた。


 すると、頭上側から首を伸ばして顔を覗き込んでいる人物と目があった。


「ほほ。お若いの、そんなところでなにをしとるんじゃ」


 声をかけられ焦った巧は、慌てて上半身を起こして振り返った。自分が急な斜面で寝ていたことを忘れていたせいで、後ろに転がりそうになった。巧は、すばやく両手を後ろについてかろうじて体制を整え、相手を見上げた。見れば、その人物は、七十はとうに過ぎているであろう、年老いた老人であった。


「あ……、いや……」巧は、滲みる日差しを取り払うように、何度か瞬きを繰り返した。


 茶色い毛糸の帽子をかぶった頭から、わずかに見え隠れしている伸びきった艶のない白髪。ベージュのセーターに紺のチェック模様のちゃんちゃんこを羽織り、足元には土管のように真っ直ぐな汚れたジーパンと履き潰した運動靴。背丈は、巧の半分もないくらいの小柄で、少し円形に曲がった腰に両手を回し組んでいる。顔全体に深いシワが刻み込まれているが、血色の良さそうな顔は健康的だ。つぶらな瞳を細め、干からびた笑顔をこちらに向けている。


 巧は、軽い眠りに落ちていたとはいえ、周囲の気配には注意を払っていたつもりだった。けれども、老人は、気配どころか、足音さえもなくこちらに近づいてきたみたいだった。


 寝ぼけまなこで呆気にとられていた巧を気にもとめず、老人は再び口を開いた。


「なにをしとると聞いておる」


 巧は背筋を伸ばして深呼吸してから、躰全体で老人に向き直った。


「あの、この田んぼの方ですか? すみません、お邪魔して。ちょっとうたた寝を……」巧は、畦で寝転んでいることに対して相手が怒っているのかと思い、慌てて立ち上がろうとする。


「ああ、よいよい。わしゃ、この田んぼの持ち主でも借り主でもないわい」老人はしわがれた声で巧を制すると、よっこらせとその場に座り込んだ。「散歩をしていたら、たまたま、お前さんの姿が目に入ってのう」


「そうでしたか……」巧はわざとらしくかしこまった口調で答える。


「こんな時期に田んぼに来るのは、わしのような偏屈者か、土の中をついばみに来る鳥たちくらいなもんじゃが……」そう言うと老人は、鼻と口の間に蓄えた、大ぶりの筆のような白ひげを右手の先でつまみながら、意味ありげに巧の顔を覗き込んだ。


「お前さん、軍人か」


 老人の表情は、ほがらかな笑顔のまま変わらないものの、視線の中に一瞬だけ鋭いものを感じた。巧は、平静を装いながら答えた。


「はい……。でも、入隊は来月からです」


「そうかそうか、ほっほ」老人は顔を上げて笑い出した。


 巧は相手の意図が分からず困惑したが、怪訝な表情にならないよう穏やかに聞いた。「あの、あなたは、この近所の方ですか?」


「わしゃ、ただの通りすがりじゃよ」


 あまり答えになっていない返事だな、と巧は思った。散歩をしていたにしても、今いる場所は、近隣の民家まで車で二十分はかかるほど距離の離れた田園区画である。足腰が丈夫そうとはいえ、この老体では、ここまで歩くのは難しいのではないか、と巧は思った。


 無意識に周囲を見回す巧を見て、老人は続けた。


「お前のような老体が、一体どこから来たのか……、と言いたげじゃな」老人は口元を斜めにした。


「いえ、そういうわけでは……」心を読まれたような気がして、巧はかなり驚いた。


「いい若いもんが、細かいことを気にするもんじゃなかろう」


「そうですね、はは」巧は乾いた笑い声を上げた。


 数秒の沈黙の後、老人は、再び巧の顔をしげしげと覗き込むようにして聞いた。


「時にお前さん。こんな寂れた田んぼの中で、一体なにをしておったんじゃ」


 巧は、老人の質問に答える必要性をあまり感じなかったし、そういう気分でもない。それどころか、早くこの場から立ち去りたいと思った。けれども、地域の人を相手に、無下な態度をするわけにもいかない。そう思い、仕方なく、しばらく付き合うことにした。


「今、基地からの帰りなんですけど、天気が良くて暖かかったので、ここで横になって考え事をしていたんです。そしたら、つい眠くなって……」


「ほほ、そうかそうか」屈託のない笑顔で老人は続けた。「さてはお前さん……、その様子をみると、入隊前の検査か何かに引っかかって、お偉方に配属希望を断られたんじゃろう」


 巧は驚きに目を見開き、相手の顔を見据えた。まるで心の中を透かして見られたような気分だった。老人は、にんまりとした表情で巧を見つめている。


「どうしてそれを……?」巧は、少し苛立った。けれども、なるべくそれを悟られないようにゆっくりと、穏やかに聞いた。


「お前さんの顔に書いておる」老人はすぐに答えた。「この季節、この辺りでは、そういう軍の選別から落とされた若者たちをよく見かけるのじゃよ。別に珍しいことではない。夢や希望を強く持っている者ほど、己の限界や厳しい現実に直面すると、簡単に心を打ち砕かれてしまうもんじゃ」


 巧は、心の中に踏み込んでくるような、その老人の言い方が多少気に食わなかった。


 自分はまだ諦めた訳ではないし、挫折した訳でもない。それなのに……。


「それは、どういう意味ですか……」巧は気持ちを表に出さずに、ゆっくりと聞いた。


「それにしてもお前さん、よく鍛えた身体じゃのう」


 老人は質問を無視して、巧の腕や肩、太ももの筋肉を叩くように触りだした。なにかをぶつぶつと頷きながら一頻り全身を触り終えたかと思うと、今度は、こちらの目をじっと見つめてくる。巧はどうしていいか分からず、そのまま数秒の間、老人と見つめ合う他なかった。老人はすぐに深い頷きのような息を吐き、低い声でゆっくりと言った。


「お前さん……、非常に良い目をしておる。それから、よく鍛えておる」


「あ、ありがとうございます……」巧は、相手の意図が分からず、とりあえず苦笑いしながら愛想良く答えておくことにした。


「じゃがのう……」少し間を置き、老人は少し困った口調で言った。「お前さんは、バランスが非常に悪い」


「バランス……?」


 巧は、初めは不可解に感じていたこの老人を、もしかしたら退役した軍人ではないかと思い始めていた。なにか自分にアドバイスをしてくれるのではないか。そう思い、目の前の不思議な老人に、少しだけ興味が湧いてきた。


「お前さん……。なぜ軍隊に入った?」老人は聞いた。


「なぜって……」巧は一瞬、質問に答えることを躊躇した。素直に答える必要はないし、けれども、嘘をついても見破られる。そう思ったからだ。


「さしずめ、死んだ父や兄の仇……、といったところかな?」老人の顔から、笑顔が消えた。


 巧は、心底驚いた。全身が凍りついた感覚がする。大きく息を吸って、胃の中に押し込めるように呼吸する。


「当たり……、のようじゃの」老人はしかつめらしい顔で言った。


「いえ、決して俺はそういうわけじゃあ……」巧は目を逸らして呟いた。


 母親にさえ言ったことのない本音。否、自分でさえ、仇や復讐、そういった杓子定規な言葉が当てはまるのかどうかはわかっていなかった。


 それなのに、突如として目の前に現れた老人は、それを見破った。


(このじいさん……、何者だ?)


「誤魔化さんでもよい。目は嘘をつけん」老人は少しだけ肩を竦めて、柔らかく言い放った。「わしは、感情が悪いとは言っておらん。お主の動機を否定するつもりもない……。じゃがな、感情だけで物事は解決できん。大切なのは、理性と感情のバランスが必要じゃ。お前さんはちと、そのバランスが悪いように見えた。それだけの話。バランスが悪いというのは、つまり地に足がついておらんということじゃの」


 そう言い終えた老人は、「よっこらせ」と重そうに立ち上がると、曲がった腰をのんびりと持ち上げながら背筋を伸ばした。その場で行進するように、短い手足を交互に振り上げ、三回くらい足踏みをして見せた。そして、直立不動になって、巧を見下ろしながら言う。


「地に足がつくというのは、こういうことじゃ」


「はぁ……」巧は怪訝そうな顔で頷いた。もちろん、老人が自分に対してなにを言わんとしているのかは、まったくわからなかった。


(元軍人……、じゃねえな……)巧はそれを確信した。老人に対して過剰な期待を持って、少なからず興味を持った自分を後悔した。


「分からんか」老人は直立不動の姿勢で肩を落とし、今度は右手を上げて田んぼを指差した。「なら、あそこを見てみい」


 巧は言われるがままに振り返り、斜面の下にある田んぼを見た。今後はバランスは崩さ無い。


 しかし、変わったものはなにもない。


 あるのは、首から上を刈り取られてしまった寂しい稲穂の姿が整然と並ぶ、侘しい光景くらいなものである。稲穂の先から貧弱に伸びてきた二番穂の淡い緑が、その姿をより一層、物悲しく感じさせている。乾いてひび割れた土の表面には、収穫時にコンバインの刃で細切れにカットされた稲わらがちりばめられているだけで、やはりなにも見えない。


「あの、なにも見えませんけど……?」


 巧は、老人に背中を向けたまま答えた。とはいえ、目を凝らして田んぼを見つめてはいるものの、実はそれほど懸命に見ていない。ただでさえ色々あって、一人になりたくてここにいるはずなのに、自分は一体なにをやっているのだろうと感じ始めていた。やはり、この老人との無駄な会話を早く切り上げ、この場から立ち去りたくなっていた。


「もっとよく見てみい」老人は諦めずに指をさし続けている様子だった。


 巧は、しつこく食い下がる老人に根負けして、鼻から息を漏らす。


 仕方ない気持ちでもう一度田んぼに目をやる。すると、コンバインで踏み固められて平らになった田んぼの土の中に、少しだけこんもりと盛り上がった部分があることに気がついた。そこを凝視していると、小さな穴の中から、か細いミミズが顔を出し、頭と思える先端を、なにかを探し求める潜望鏡のようにくねくねと動かしているのが見えた。


「ミミズ……?」巧は小さな声で呟いた。


 すると、ほどなくして小さな影が視界の中にふいに飛び入ってきた。雀である。


 そのスズメは澄ました丸い目つきで、音もなく二三度跳ねてミミズに近づいた。すぐに、浅黒い小さなくちばしでミミズを咥えたかと思うと、音もなく羽ばたいて空の彼方へ飛び去ってしまった。


 巧はスズメの姿を目で追ったが、あっと言う間に見えなくなってしまった。もう一度田んぼのほうに目をやると、同じ穴から再び、新しいミミズが顔を出している。


 老人は、二匹目のミミズをじっと見つめる巧に向かって、背後から言葉を投げかけた。「雀は空を飛べるが、ミミズは空を飛べないのじゃ」


 そう言われた巧は、勢いよく背後の老人を振り返った。落ち込んだ心境と、訳のわからない老人に対する苛立ちから、咄嗟に食ってかかるように言い放ってしまった。


「俺が……、パイロットになれない俺が、ミミズだって言いたいんですか?」


「お前さんは、こりゃまた随分と感情的でせっかちんな奴じゃのう……」老人は、巧の過剰な反応に驚いたのか、目を丸くして呆れた顔で言った。「人の話は最後まで聞くもんじゃ」


「すいません……」巧は、取り乱した自分をなだめすかしながら、自分の言い放った言葉を少しだけ後悔した。


「お前さんも今、自分の目でしかと見たじゃろう。雀は空を自由自在に飛べるんじゃ。でもなあ、残念ながらミミズは空を飛べない」老人は再び繰り返した。「しかしじゃ、問題は、空飛ぶ雀は地を這うミミズがいなければ、すぐに空を飛ぶことができなくなってしまう。これを、不思議に思わんか?」


「……よく、分かりません」巧は軽く顔をしかめてぶっきらぼうに答えた。「雀はひとりでも自由に、好きなように空を飛んでいると思いますけど」


「果たしてそうかのう……」老人は軽い笑みを浮かべて穏やかに返した。


 すると今度は、二羽のスズメが飛来した。穴から顔を出した一匹のミミズを奪い合うようにつつき出す。二匹のスズメに咥えられ引っ張られたミミズは、身体の丁度真ん中のところでぷつんと千切れてしまった。お互いに餌を得られた二匹のスズメは、満足そうにさえずりながら、空に飛び立っていった。


「では、お前さんは、一人で飛べるかのう」老人は、飛び去ったスズメを追うように空に目をやりながら呟いた。


 巧には、老人の言わんとしていることが未だによく分からなかった。そして、やはり、望んでいたパイロットになれないお前は、空を飛べないミミズ同然だと揶揄されたような気分になってしまう。


(なにも知らないくせに……)

 つい、そう叫んでしまいそうだったが、なんとか言葉を飲み込み、違う表現を探した。


「一体、なにが言いたいんすか?」巧は田んぼの穴を見つめたまま、語気を強めて背中の老人に言い放った。「お前には空を飛ぶことはできない。そう言いたいんすよね?」


 声を荒げた巧に臆することもなく、老人はゆっくりと視線を巧に戻し、優しい口調で言う。


「そうではない。わしが言いたいのは、皆、与えられた役割が違う、ということなのじゃ。お前さんは、パイロットになって、空を飛ぶあの鳥のようになりたいのじゃろう……?」


「そりゃ、そうですよ……」巧は口を尖らせた。


「じゃが、これはお前さんに限った話ではないが、そうして地に足をつけず心を浮つかせているうちは、残念ながら無理じゃのう。なぜならお前さんは、まだまだ、あまりにもなにも無知だからじゃ……」


 巧は、老人の言っていることが少しだけ分かるような、まったく分からないような、絡み合った気持ちになり押し黙った。もしかしたら、相手の言うことが、今の自分にとって辛辣な言葉だからこそ、自分で自分の心の耳を塞いでいるのだろうか。つまり、それは、現実から目を背けて逃げているだけ?


(いや、違う。俺は、逃げてなんかいない……! 俺が無知? 冗談じゃない……!)巧は、自分に言い聞かせるように、頭のなかでがなり立てた。


 老人は、背中を向けた巧に向かって、淡々と言葉を投げかける。


「自然は完璧じゃ。すべてがきれーいに繋がっておる。それはもう、わしら人間には理解ができないほどに完璧じゃ。恐怖で鳥肌が立つほどに、な……。じゃが、だからこそどんな生き物もひとりでは、息することさえ叶わん。自然は、全体でひとつ。全体があってこそ、ひとつひとつが完璧に作用する。個々がどれだけ優れていても、それらがバラバラでは決して完璧にはなれんのじゃよ」


「言っている意味がよく分かりません」巧は覆い被せるように言った。


「今はまだ分からなくてもよい」老人は目を細めて、優しく告げた。「焦らなくてもよい。分からぬ時こそ、あまり余計なことは考えないことじゃ。考えれば考えるほど分からなくなる。それが人間……。感じるままに生きてさえいれば、お前さんにも、いつの日か必ず、わしの言っている意味がわかる時が来るじゃろうて」


 巧は田んぼを見つめたまま、両ひざを抱えるように背中を向けて、黙って聞いている。


「じゃがな、ひとつだけヒントを言うておこう」

 老人は、少しだけ深く息を吸い、しばらく間をおいてから口を開いた。

「お前さん達こそが、自然そのものなのじゃ。だから、感じたままに進みなさい。ひとつのことだけに拘ってはいかん。頑なになってはいかん。頑な心は、硬い心なのじゃ。それは、命のバランスを崩す元に他ならん。バランスが整っておらんと、終いにはここを、取り返しがつかないくらいに痛めるぞい」


 巧は、背後から心臓のある辺りを、細い指先でトンと突かれた感触を覚えた。


 続いて響く、凛とした、透き通る鈴の音。


 巧は再び、心の中を見透かされたような気分になった。


 どうしてそんなことまで……。


 巧は振り返って、少し睨んでやろうと思った。


 少しくらい、なにか言い返してやろうと思った。


 それくらい、いいだろう。


 勢いよく振り返った。


 しかし、巧の視線は空を切って掠めてしまう。


 あるのは、農道に向かって走る斜めのあぜと草だけ。


 そこにはもう、誰もいなかった。


 巧は右手で、自分の胸元を強く押さえた。


 鼓動こどうが高鳴り、鈍い痛みを感じた。


「夢か……?」

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