07. 込み上げる恐怖

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 月夜見ヶ原を切り裂いた巨大な機体は、すでに見る影もなく無惨な姿になっていた。

 

 破断したジュラルミンの機体片。


 炎で熱され、溶け出しているアルミやチタンなどの骨子材。


 主翼から剥がれ落ち、転がったまま惰性で回転するジェットエンジン。


 搭乗客のものと思われる衣服やスーツケース、カバン、靴。


 そしてなによりも、周囲に飽和する異臭。人の肉と血、髪の毛が焼け焦げる臭い。これが墜落の凄惨さを一番に物語っていた。


 落下地点全体には、目を覆いたくなるような、おびただしい数の人間の屍体。遺棄されたマネキン人形のように乱雑に転がっている。多くの遺体は炎に焼かれ、炭化し、元々人間だったであろう黒い固まりとして、異臭を放っているのだ。


 墜落の衝撃で弾き飛んだ腕や足……。中には頭部のような肉塊や脳漿までが、暗赤色の血液や粘液にぬらぬらと濡れたまま、己の予期せぬ死を恨むように、憎々しげに揺らめいている。


 落下地点にたどり着いた巧と平太は、その異様な光景に顔をしかめざるを得なかった。


「酷いな……」巧が囁くように言った。


「でもよ、まだ生存者、いるかもしれねえぞ」平太は、片手を口者に当てて、野太い声で叫ぶ。「おーい、誰か生きてたら返事してくれー!」


「まだ爆発があるかもしれないから、気をつけろ」巧は言い置いて、さらに奥へ走って行った。


 すぐに、後ろから、歩、エミリ、一輝の三人が追いついてきた。


 一輝は、あまりの惨状と悪臭いに、激しい目眩を覚えた。目を塞ぎ、顔を歪める。


「これは、酷いな……」歩は、あたりを素早く見回した。


 エミリはマフラーを巻いた顔の前で右肘を曲げ、腕で鼻と口を隠しながら状況を見つめている。


 至る所から、炎の爆ぜるパチリ、バチリという不快なノイズ。


 気がつけば、周囲は、彼らの背丈よりも高い火の壁に囲まれていた。


 熱い。


 衣服に間接的に引火するのではないかと思うほど、湧き上がる熱が密集している。


 一輝は、自分の額から玉のような汗が流れ落ちていることにようやく気づいた。暑さのせいだけではない。緊張や焦燥からくる、脂汗だ。全身から吹き出す粘性のある汗が、沸騰した湯水のように皮膚を辿って地面に落ちる。土を濡らした汗の雫は、ほどなくして、蒸発して大気に還元されていく。


「手分けして生存者を探すんだ。急げば間に合うかもしれない」歩が叫び、炎の隙間に消えていく。


 エミリも無言で頷いて、歩とは正反対の方向に姿を消した。


 その場に取り残された一輝は、眼前の惨状に、まぶたを閉じて目を覆うことしかできないでいた。


 黒焦げの屍体。


 地表で煮え上がる、暗赤の血汁。


 肺を焦がすような、生々しい異臭。


 飛び散り、熱され、泡を吹く脳漿。


 恐怖に怯え、そのままの顔で固まってしまった遺体の表情。


 すべてが、生まれて初めて目にする惨劇。


 感じたこともない、底なしの恐怖。


 一輝は、胃の底が、なにかを戻し返しそうとするのを感じたが、理性を振り絞って、それを抑える。


 深呼吸。


 二回。


 吸い込んだ空気が、肺を焦げると感じるほど熱い。


 煙と臭気を吸い込み、なんどもむせ返す。


 目眩がする。


 意識を統一する。


 すべてを忘却しようと試みる。


(どうして僕はいつもこうなんだ……。いつも口ばっかりで格好つけて、いざという時に全然動けない……)


 一輝は瞑った目に力を入れて、涙をこらえながら情けない自分を心の中で責めた。

(どうしてみんな、こんな状況の中で、平気でいられるんだよ……。どうかしてるって、絶対)


 両手を拳に。力を込める。


 爪が食い込み、痛い。


 そんなことをいくらしても、どこからも力なんて湧いてこないことは分かっていても、それくらいしかできない自分が不甲斐ない。


 否、そうすることで、自分も苦しんでいるんだって言い聞かせて、なにかをした気になって、そんな自分に甘んじて、満足して、慰めながら逃げようとしているだけ。


(わかってる……)


 でも、やめられない。


 怖い。


 情けない。


 その時、ふと自分の背中に暖かいものが触れるのを感じた。


 振り返ると、すぐ後ろには、袴田千草が立っていた。


 赤縁メガネの分厚いレンズは、燃え盛る炎を反射して、白くゆらめいているように見える。その奥にある、丸くて大きい無垢な瞳は、濡れたようにしっとりと輝いていた。


 背中に感じた体温は、千草のものだった。


「一輝さん……」


 千草は、気丈に振る舞いながら微笑んでいた。けれども、額にはうろこのように汗を浮かべて、表情は硬く強張っている。


「大丈夫……ですか」千草は囁いた。


 一輝は、慌てて平静を装い、声を張った。「袴田さん、ありがとう……。僕なら大丈夫」


 情けない自分を見られたくなかった。


 そんな自分が、もっと情けない。


「袴田さんこそ、大丈夫? あそこで待っていればよかったのに……」一輝は、心の動揺が声色に出ないように、確認しながら慎重に声を放った。


「私なら大丈夫です」千草は首を斜めに傾け、柔らかく微笑んだ。「みつほさんには、あそこで待っていてもらうよう、お願いしてきました」


「わかった……」一輝は頷いた。「袴田さんは、いつも優しいよね……」


「いえ、私も、一輝さんと同じです」千草は首を横に振った。「これから戦争に行く立場なのに、普段から勇気もないし、些細なことでも怖く感じてしまって……。それが、その、自分でとても情けなくて……。だから、私にはこれくらいしかできなくって……。すみません」


「なにも謝らなくてもいいじゃないか」一輝は苦笑する。「僕こそ、ごめん。ありがとう」


「ひとりでは不安でも、みんなと一緒なら、きっと、できる気がします」


「うん」一輝は強く頷いた。


 その時、遠くから巧の叫ぶ声が、微かに聞こえてくる。


「みんな来てくれ!早く!」


 顔を見合わせ、頷き合った二人は、巧の声が聞こえる方に走り出す。


 周囲の火の壁は、夜空の星を焼かんばかりに、高く高く、渦巻いていた。

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