08. 舞い降りるもの

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 巧は、大きな機体破片の下敷きになっている男性を発見していた。


 白髪混じりの男性だった。


 後頭部を中心に、全身から多量の出血をしている。一気は始め、周囲に広がる黒い液体がオイルかなにかかと思った。しかし、液面にオレンジ色の炎が写り込むことによって、それが赤黒いもの……、血液だということがすぐにわかった。


 一輝は、自分の体内からも、すべての血液が吸い出されてしまうのではないかと思うくらいの、猛烈なめまいと吐き気に襲われた。


「おい! 生きてるか!?」歩が男性の側に屈み込み、大きな声をかけていた。


「まだ息はありますね」同じく、男の傍にしゃがんだ巧が、鬼気迫る表情で歩を見た。


「おい、起きろよ! おっさん! 頼むから、目え、開けろ!」平太は、泣きそうな表情で男性の頬を平手打ちしていた。


「とにかく、身体の上に乗っているものを出来るだけ動かそう」歩がこちらを振り返った。


 一輝と千草は無言で頷き、三人に加勢した。全員で一斉に機体の破片に手をかける。


「今助けるからな」


「動けえっ!」


「くっそ、これ、重いし、すげー熱いぞ」


「うおおお」


 しかし、機体はびくともしない。


 機体の破片は炎に晒されたせいで、焼け焦げる寸前のフライパンのように熱を持ってしまっていた。


「ダメだ……。熱くて触ってられねえ」平太は両手を離して、痛そうにこすり合わせる。


「くそ……、ダメか」歩は舌打ちをして、悔しそうに顔を歪めた。


 そのうちに、機体の奥から、黒いシルエットのエミリが姿を現した。


 コートの裾は泥と粉塵で汚れ、所々焦げているように見える。白い肌は煤で真っ黒に汚れていた。周囲を覆うのあまりの熱に、彼女のシルエットは蜃気楼のように揺れていた。


 彼女は、肩を落としてゆっくりとこちらに歩いてきた。


「そっちはどうだ」巧は、険しい顔でエミリを見上げた。


 けれども、エミリは彼女は目を細め、無言で首をゆっくりと横に振るだけだった。


 巧は、濁音のついた声を漏らして、小さく舌打ちをした。


「おい、起きろよ! おっさん! このまま寝てたらマジで死んじまうぞ!」平太は変わらず、懸命に声をかけ続けている。


「起きてください! 目を覚まして!」千草も、必死に声を掛ける。


 一輝は、こみ上げる胃液と感情を喉の奥に押し込めながら、ポケットにしまっていた軍手を取り出し、両手にはめた。再び、男性にのし掛かる破片に手をかける。顔が真っ赤になるほど力をかけるが、複数の大きな金属や破片に阻まれているのか、やはりまったく動かない。


 指から伝わる灼熱に耐え切れず、すかさず手を離した。


 顔が燃えるように熱い。


 額から流れ落ちる大量の汗が、目に滲みた。


 すると、周囲の声が届いたのか、男性は微かな呻き声を上げてうっすらと目を開けた。


「お、目え、開いたぞ!」平太は目を見開き、周囲に大声を投げつけた。


 しかし、男性は、目こそ開いたものの、焦点は合っていない。炎に照らされた瞳孔も大きく開き、全身が痙攣するように震えている。それでも、血と土で赤黒く染まった右腕をゆっくりかざした男性は、なにかを呟きながら空を掴む様に掌を広げる。


「おい、どうした! なにかあるのか!」平太が男性に顔を近づけ叫ぶ。


「もしかして、あれじゃないでしょうか?」千草が立ち上がり、背後を指差した。その方向には、潰れかけた小さなアタッシュケースが横たわっている。


 巧は、すぐさまアタッシュケースに駆け寄り、火の粉を払いながら拾い上げた。


 その時、男性の顔を苦々しい表情で見つめていたエミリが、独り言を呟いた。


「もしかして……、この人……」


 一輝は、それを聞き逃さなかった。エミリを見る。彼女は、淡々とした無表情で、男性の顔を見つめ続けていた。


「エミリ、知ってるの?」一輝は問いかけた。しかし、彼女は一輝の声を無視した。それほど集中している様子だった。


「あれがどうかしたのか? おい、おっさん! しっかりしろよ! おいって! ケース拾ったぞ」平太は声を掛け続ける。


「こうしていても仕方がない」歩は、覚悟を決めたように勢いよく立ち上がった。「ここに登ってくる途中、軍の車両が何台か停まっていたんだ。そこに助けを求めにいこう」


「もしかしたら、もうこちらに向かって来てくれているかもしれませんよね」千草が、ぎこちない笑顔を浮かべて同意した。


「待って」エミリが二人を制するように、強い口調で言い放った。「嫌な予感がするの」


「嫌な予感て、なんだよ」巧はアタッシュケースを抱えながら、聞く。


「説明している暇はないの。それに、この人は、もう多分助からないわ」


「見捨てろっていうのかよ」巧が食い下がる。


「じゃあ聞くけど、この酷い出血と、身動きすらさせられない状況で、私たちに一体なにができるっていうの?」エミリが珍しく声を荒げたことに周囲は動揺した。「エンジンと機体から、いつまた爆発が起きるかだって分からない。この飛行機が、どんな危険なものを積んでいたかも分からないのよ。この場にいる私たちだって、決して安全だとは言えないわ」


「でもよ!」


「感情で行動するなって、ニーナ教官から教わったでしょ!」エミリが、巧に向かって激しい怒号を投げつけた。「今は、戦争中なのよ……。全然、わかってない」


 その場にいる全員が押し黙り、エミリのつり上がった形相を見つめていた。


 沈黙。


 広がる炎が、あらゆるものをじわじわと飲み込む音だけが、周囲に飽和している。


 エミリの豹変に唖然とした巧は、諦めたように肩を落とし、無言で小さく頷いた。


「だから……、いいから、あなたは黙ってそのアタッシュケース、そのまましっかり持ってて」エミリはいつもの平静な口調を取り戻し、けれども鋭く刺さるような視線を巧に向けた。


 その時、苦悶の表情を浮かべた男性が、再びなにかを呟き出したことに、平太が気がついた。


「おい、待て! このおっさん、まだ何か言ってるぞ」平太は男性の口元に耳を近づけ、微かな声を聞き取ろうと地面に這いつくばる。そして、愕然とした表情で目を震わせながら、小さく言った。「逃げろって言ってる……」


「どういうことだろう……」一輝は呟いて、男性の顔を見た。けれども、男性の表情は、言葉とは裏腹に、少しだけ含み笑いをしているようにも見えた。


(気のせいかな……、この人、なんだか嬉しそうだ)一輝は思った。


 しばらく、全員が考えあぐねていると、遠くから、みつほの叫び声が聞こえて来た。



「みんな、上見て! 空!」



 みつほの姿は、炎の熱気に揺らぎ、まるで蜃気楼のように霞んで見えた。ただならぬ様相でこちらに駆け寄りながら、上空を指差している。その表情を見ただけでも、なにか異常な事態が起こっていることは、すぐにわかった。



「空から、なにか落ちてきてる!」



 みつほは、もう一度大きな声で叫んだ。


 思いがけない彼女の声に、一同は驚いた。


 そして、最悪の事態を頭に浮かべながら、ゆっくりと空に視線を上げていく。


 空はいよいよ、満天の星屑。


 美しい夜空の闇を塗りつぶすかのように、猛然と舞い上がり、揺れる黒煙。


 視界が遮れられる。


 その煙幕の隙間から、スポットライトのように差し込む柔かい月光。


 それらの狭間を、下山するロープウェイのように滑らかな動きで、ゆっくりと、真っ直ぐ、スライドしながら、なにかがこちらに向かって落ちてきている。


 その物体の落下速度は、重量の重いものではない。


 明らかに軽いもの。


 紙かビニール……、もしくは鳥の羽のような白い物体が、空中を斜めに移動している。


 風はほとんど無い。


 地面からは、むせ返すほどの熱気と臭気。


 一同は、唖然とした表情で空を眺めている。


「なんだ、あれ……」平太がしかめっ面で物体を凝視していた。「大きなホコリか?」


「んなわけねえだろ」


「飛行機?」


「いや、それにしては小さすぎる」


 その小さな白い物体は、一直線に、こちらに近づいてきている。


 全員が、たった今、目の前で起こっている事態を把握することも、消化することもできない。顔が地面と水平になるくらいの角度で喉元を上げて、空を凝視している。


 しばらくの沈黙。



「女の……子?」



 千草が呟いた。



「まさか」



「なに、これ……」



「嘘だろ……」



「夢じゃないよな」



「信じられない」



「おいおい……今日は一体なんなんだ……」 


 彼らは今、信じられない現象を目の当たりにしていた。 


 しかし、それは、夢では無い。


 紛れもない現実。



 空から舞い降りる、幼女。



 月星のやわらかい光を反射し、神々しく輝く素肌の少女。


 一糸纏わぬ背中からは、


 白く細長い、


 枝とも糸ともいえない、


 線香花火の芯のようなもの。

 

 その先、月と星に近い側には、


 少女の体の何倍もの大きな綿毛が、ふんわりと広がっている。


 

 少女は死んでいるかのように目を閉じ、


 自らの体温を寒空から守るように、両手で両足を抱えるように丸くなり、


 ゆっくり、ゆっくり、落ちてくる。

 

 その姿はまるで、


 遠い異国の地に咲く名もなき花が、


 ひとり孤独に綿毛をつけて、


 絶望の大地に舞い降り、


 希望の生命を芽吹かそうとしている。



 奇跡の光景だった。

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