03. 黒鉄の幻影

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 加田かだ草介そうすけは、故郷に戻る飛行機の中にいた。


 座っているのは、機首に向かって左の窓際で、一人掛けのファーストクラスだった。パウンドケーキのように柔らかい、過剰な座り心地を演出するシート。彼はそこに、全身を委ねている。細身のホワイトジーンズを履いた両足を組んで、ゆとりある足元のスペースに投げ出している。靴は脱いでいた。


 つい先ほどまで、機体は高高度を飛行をしていた。座席から離れた小さな窓には、青紫の夜空が映し出されており、その中央には、真円の黄色い月。眼下には、月光にまんべんなく染め上げられた金色の雲の絨毯が広がっていた。


 加田は、幻想的な景色を横目にしながら、帰国後のことに思いを馳せていた。


 今は、残念なことに、機体は高度を下げて雲の中を飛んでいた。窓枠の中では、灰色の雲が、右から左に、猛烈なスピードで流れてっている。


 夕食に出てきた赤ワインの最後のひと口を、グラスをあげて飲み干した。少し眠気を感じる。酔いが回っているせいか、いつもなら気になる機内の低いホワイトノイズが、全くと言っていいほど気にならない。むしろ、今はそれさえもが心地よく感じる。


 加田は、いつになく気分がよかった。


 空港到着まで、一時間位だろうか。


 機体の高度が下がる度に、重力が微細に変化する。


 まるでジェットコースタが急降下する時のような浮遊感。


 着陸準備を始めているのだろう。


 ファーストクラスは全部で十二席あった。座席はすべてボックスタイプで、背もたれを倒すと、シートがベッドにもなる可変型。一メートル程のベージュのパーティションで区切られている為、他の客席にいる乗客の姿は、席からは見えない。ここ一時間は、話し声も聞こえなければ、誰かが立ち上がる姿も見ていないので、恐らく皆、眠っているのだろう。機内はそれくらい静かだった。客室乗務員の姿も見当たらない。


 室内には客室灯がうっすらと点灯していて、仄暗い。加田は頭上の読書灯をつけ、ミニデスクの上に置いてあった、金属製のプレート型端末を軽く叩いた。スリープ状態だった端末が起動し、目の前に照射されたホログラムモニタの緑が加田の顔をぼんやりと照らし上げた。


 モニタには外国語のテキストが表示されている。タイトルタブには「A.G.I.T」の文字。このファイルは、加田が十年以上の歳月を費やし作成した、とある企画書であった。


 何度、この企画書に目を通しただろうか。何人が、この企画書に関与しただろうか。加田は、暗く鈍重な過去に思いを巡らそうとしたが、めまいを感じて咄嗟に思考とシャットアウトする。


 ここまでくれば、データはほとんど必要ない。すべての内容は既に頭に焼き付いていた。


 (後は、やるだけだ)加田は、心の中で言い放った。


 作戦遂行に必要なデータは、既に、関係各所に送信済み。計画は、既に実行段階に移っている。当然、情報漏洩の防御策は完璧だった。今は、端末さえあれば、いつでも、世界のどこにいても、ネットワークにアクセスすることが出来る。反面、データを盗まれる可能性もある。だが、それだけは絶対に避けなければいけなかった。


 加田は、躰をシートにさらに深く沈めて、組んでいた足を元に戻した。今にも眠ってしまいそうだ。シートを軽くリクライニングさせ、両手を頭の上で組み、目を閉じる。


 つくづく便利な世の中になったな、と思う。


 現代社会は、ほんの十数年前の人間が我が目で見れば、信じられないくらい便利な社会になった。だが、社会が豊かになればなるほど、貧しさは増し、多くのものが失われている。加田は、いつもそれを考えていた。


 世界に蔓延するテクノロジィは、既に、大多数の人間にとっては、無くてはならないものになった。同時に、その仕組みを理解することが困難なほど複雑になった。道具を使う手段が単純でも、メカニズムは、開発に関わる少数の人間以外、もうほとんど誰にも分からない。誰もが、日常的に接し、触れ、使っているモノの仕組みを知らないし、疑わない。それがあることが当たり前だと思っている。大抵はその程度の認識で十分に済ますことが出来る。だがその豊かな状況は、人を脆弱にした。利便性は、人間が本来備えていたはずの、考える力と疑う心を奪っていったように感じる。


 何を考えなくても生きていける。それは、上昇し、成長し、増幅し、夢や希望を持って前へ進んでいた時代には、きっと素晴らしい事だったろう。考えることが必要なければ、前に進むことだけに集中できるからだ。だが、社会は既に、成熟し切って定常化を越え、すでに後退し始めている。その中で、過去の人類の道のりを振り返ってみると、何も考えずに済むという事は、もしかしたら、自分ではない誰かに、あらゆる思考や判断を預けることでもあったのではないか。そう思えた。


 つまり、考えを捨てるということは、躰も心も、誰かに支配される隙を与えることでもあったのではないか。


 人は、長きの発展によって、自由を手に入れたはずだった。けれどもいつの間にか、その自由そのものによっていつの間にか支配され、拘束され、不自由になった。


 現に今、社会はあらゆる支配と管理体制が敷かれ、人々は、決して自由とは言えない。


 そのもっともたるものが戦争だろう。


 言論は統制され、人権は蹂躙じゅうりんされ、行動と思想さえもが監視される。


 更には、望んでもいない戦場に駆り出され、屍となり消えていく。


 これが、果たして自由なのだろうか。


 これが、本当に、人間に与えられた生命の歩むべき道なのだろうか。


 これが、人類の欲した自由なのだろうか。


 もちろん、多くの、考えることのなくなった人々は、自分が自由であり、すべて自分の意思によってのみ判断し、自由を謳歌し生きていると心の底から感じている。しかし、その行動や思想、選択や判断は、長い年月をかけて奪われていった思考の隙間に入り込んだ、誰かに作られ、気づかぬ間に埋め込まれたプログラムによるものでは、本当にないのか。誰かの意図によって作り出された、幻想、幻影を追いかけているに過ぎ無いのではないのか……。


 生きることは、考えることだ。


 考えることによってのみ、自由は獲得される。


 考えなければ、それは仮に生きていても、屍となんら変わりがないのだ。


 だが、考え過ぎた人類は、結局、支配される道を選び、不自由になった。


 矛盾。


「皮肉なものだな……」


 加田は、静かな空間に、自分の独り言が思いの外大きく響いた事に驚き、少しだけ口元を緩めた。


 そこまで考え、ふと我に返った加田は、意図的に、頭の中に三つの疑問を思い浮かべてみる。大した理由はない。今の自分は、果たして自由であるのか。それを確認したかったのだ。


 今、自分を乗せている飛行機は、なぜ空を飛べるのか。


 自分はなぜ、今、空を飛んでいるのか。


 自分はなぜ、今、生きているのか。


 頭の中に訪れる、一瞬の静寂。


 少し息を止めて考えてみた。


 残念ながら、三つ目の疑問には、すぐに適切な答えを見つけることが出来なかった。


 結局のところ人は、楽なものに絡め取られ、自らが作り出した鎖に繋がれ、与えられたものを貪りながら生きて行くことしか出来ないのだろうか。だが、それが、果たして自由と言えるのだろうか。誰にも支配されず、誰にも干渉されずに生きていく術はないのか。自分の生に、真の自由はあるのか。


 加田は、常に考えてきた。疑ってきた。問いかけてきた。戦ってきた。


 すべて、あの日から……。


 そうして導き出したひとつの答えが<A.G.I.T>だった。


(自由がなければ、勝ち取るだけだ)


 彼は、止めどない思考にブレーキをかけ、ゆっくりと目を開けた。


 端末は既にスリープ状態になって、ホログラムモニタは霧消していた。機内は相変わらずノイズで満たされ、窓の景色も変わらない。


 加田は、この飛行機に乗ってから、ずっと気になっていることを思い出した。


 それは、広い通路を挟んだ隣の席に座っている男のことだ。今はパーティションで遮られているが、搭乗した直後の着席時にその顔を見た。


 男は恐らく五十代。彫りの深い顔をしていたが、加田と同じ国の生まれだった。グレーのスーツ姿で、銀色の小さなアタッシュケースを大切そうに抱えながら座席に座る姿を覚えている。


 会ったことはないが、どこかで見たことがある。


 加田は、すぐに男の名前を思い出した。

 

 愛咲誠一。


 植物の遺伝子研究の第一人者で、主に農業や医療の分野での成果を数多く残していると聞いたことがある。その他、生物工学やエネルギィ工学にも造形が深く、近年では、植物分野の実績を活かし、環境汚染や資源問題にも取り組んでいるらしい。


(しかし、なぜ愛咲誠一がこの飛行機に…… )加田は、スマートな躰を前傾にして、愛咲の座る席に視線を送った。


 パーティションの影から、革靴を履いた足元だけがわずかに見えた。


 加田は、愛咲が八年ほど前に、国内での研究を離れ、海外に拠点を構えていることを知っていた。だから、彼の搭乗は予想外だったのだ。


 また、愛咲は一人ではなかった。


 綺麗なブロンズのアールストレートヘアの女性と共に搭乗してきたのだ。


 その女性は、目鼻立ちのはっきりしたハーフらしき顔で、化粧室に立ち上がる度に、つい視線を送ってしまうほどの華麗な令嬢だった。


 しかし、愛咲に娘がいるという話は聞いた事がない。


(助手か、通訳か……。配偶者にしては年齢が離れすぎている……)


 二人とも、夕食後は一度も席を立っていない。恐らく今は眠っているのだろう。


 愛咲誠一という名前に加え、もうひとつ思い出したことがある。それは、三年程前、インターネット上に出回り話題になった怪文のことだ。その怪文は、各国の言語で翻訳されており、世界中のネットユーザの知るところとなったのである。


 加田は、その怪文をコピーし保存していたことを思い出した。端末を叩くと、再び、淡い緑色のホログラムモニタが、目の前に照射された。手早いタッチでファイルを開く。



 古の時より継がれし千年花

 世相乱れ 人心零落おちぶれ 

 満ちたりし月の光 太陽を越えし時

 その花 地上に咲き誇らん

 取り取り輝く花弁の雫 人心塗り消し従えて

 深根 猛りし有象 無に枯らし

 緑脈 この世の理 転換す

 万物流転し 自ずから脈付き

 輪廻の想い 砂粒さりゅう

 再び神のたもとへ花と舞い散り やがて戻らん



 当初、この怪文を知った加田は、ただの子供染みた言葉遊びか、オカルト風味のくだらない暗号文だろうと思い、さして気にすることもなかった。なぜなら千年花など、それこそ、自ら考えず、行動できない弱い人間たちが、自らの弱さを言い訳するために縋り付くために作り出した拠り所、幻想、偶像に過ぎないと確信していたからだ。


 案の定、その怪文は短い期間で話題性も薄まり、ネットの情報の渦に埋もれていった。もう、そんなことを覚えている人間は誰もいないだろう。だが、一年程前、海外のニュースサイトの見出しを読み、加田は驚愕した。



『世界植物遺伝子研究所 愛咲誠一氏 幻の千年花を発見?! 遺伝子ゲノム解析開始か』



 まさかとは思った。


 だがその記事を掲載したサイトは、ジョークサイトでもなければ、エイプリルフールでもない。歴史ある世界的な科学誌が主催しているサイトで、信頼性も厚い。


 記事の内容は愛咲本人の公式な発表ではなかった為、推測が多く含まれている記事だった。けれども、詳しく内容を読む限り、それがどうやら事実らしいということだけはわかった。


 その記事を見つけた当時、彼は、半信半疑で、他に似たような記事があるかもしれないと思い、至る所を検索し、情報を探した。しかし、千年花の発見に関する情報は、やはり一切見つからなかった。未だに、真新しい情報も出てきていない。当時のその記事さえも、今は削除されている。


 加田は落胆した。


 今回の計画を立案した加田にとって、愛咲の研究分野は、直接的な関係は無いにせよ、興味があったのだ。もしもそんなにすごい花や遺伝子研究がこの世にあるのなら、是非とも知りたいと思っていた。


 なぜ、『千年花』という花が幻の花と言われているのか。


 なぜ、『千年花』は、人々の間で語り継がれるようになったのか。


 そこここで嘯かれる神の力とは一体なにか。


 加田草介は、これまで、宗教や観念論に興味を持ったことは無い。だが、今回ばかりは、なにか大きな運命的なものを感じていた。


 理由はひとつ。


 すぐ隣に、偶然にも愛咲誠一が座っているからである。


 彼は、もう一度千年花のことについて調べてみたくなり、端末をネットワークに接続しようと試みた。しかし、何度リクエストを出しても、エラーメッセージが表示出されてしまう。端末に問題はない。ホログラムの画面表示にも不具合はない。幾つか、他の方法も試みたが、やはり繋がらない。どうやらネットワーク自体がアクセス出来ない状態になっているようだ。


 飛行中の回線接続とはいえ、こんなことは初めてのことだった。


 次の瞬間、加田は、窓の外に異様な気配を感じた。外から伝わる空気の振動が、微弱に変化したのだ。


 加田が窓に目をやった瞬間から、機内で感じていた低音のノイズが、徐々に外から伝わる甲高いノイズに侵食されていく。


 事態の異常さに、いち早く勘付いた加田は、シートから立ち上がり、窓に食いつくように顔を近づけた。


 しかし、猛烈なスピードで流れる雲の流れはかなり厚く、なにも見えない。


 それでも、そのまま雲間に目を凝らしていると、雲のグレーを侵食するように、何かの黒い影がじんわりと浮かび上がってきた。


 不鮮明な黒い影は、少しずつ、はっきりと見えるようになる。


 次の瞬間、雲が切れ間を見せた。


 加田は、影の姿をはっきりと視界に認め、思わず息を飲んだ。


 影は、飛行機の窓から漏れる微かな光を、鈍く輝く、黒鉄の体躯に反射させながら、少しずつ接近してくる。


 それはまるで、暗い海の底から現れた巨大なサメ……。


 影の正体は、軍事用の爆撃機だった。

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