02. 花宮神社

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 みつほは境内を見回した。


 目の前は、車数十台が停められそうな円形の広場で、周囲は高い背丈の竹やぶに囲まれている。一面に敷かれた白砂が、月の光をかすかに湛え、闇夜に薄っすらと浮かび上がっているように見えた。


 右手の奥には、喜多川一家の住居を兼ねた社務所が建っている。正面には、古びた朱色の小さな鳥居があり、その先には、本殿に向かう上り階段が、漆黒の闇に消え入るようにひっそりと伸びている。


 社務所にはオレンジ色の明かりがついていた。玄関前には、一人佇む人間のシルエットも見える。


 みつほは、シルエットに目をこらしながら社務所に近づいていく。白砂を踏みしめる荒い音が足元に響く。


 社務所は、木造の二階建てで、かなり古い。所々、白い塗装が剥げて外壁が腐食しているところもあるが、今時珍しい瓦屋根が和の趣を感じさせる古風な社務所だ。


 建物中央の正面玄関は、檜枠の上半分にガラスが張られた両開きのスライドドア。中の待合室兼案内所のスペースでは、木屑を固めたペレットを燃やして暖を取る、大きなペレットストーブが焚かれている。石油も電気も使わず、森の木々だけで暖をとれるので、空気も汚さず省エネルギィなのだと、光剣一輝が自慢していたのを思い出す。


 玄関に向かって左側は、お札やお守りを販売する授与所と事務所のスペースで、結構広い。今は夜なので、授与所のガラス窓は閉められているが、奥の事務所は明かりがついている。宮司の喜多川弥之助がまだ起きているのだろうか。


 玄関に向かって右側は、広めの食堂兼休憩スペースである。中には、木製のキッチンカウンタが備え付けてあり、その前には大きめの木製テーブルが三つ並べられている。カウンタの奥は厨房で、大小さまざまな調理、料理ができるように工夫されていた。この食堂、普段は喜多川一家の食卓用スペースになっているが、行事や祭りごとがあると、このスペースを使って大勢の人が集まり、暖かい食事を囲んで、談笑し、語らい合うのである。


 社務所の前までたどり着くと、シルエットが次第に明確になる。


 その正体は、同級生のひとり、袴田千草はかまだちぐさだった。


 千草は、白砂の音でみつほの気配に気づき、ゆっくりとこちらを振り向いた。


「あ、みつほさんが来ましたよ」千草は、メガネをかけた人懐こい童顔を綻ばせて、手招きをした。「みつほさん、こちらです」


 今夜の千草は、上下全身、白のストライプが入った真紅のジャージ姿だった。足にはくたびれた運動靴。肩くらいまでの短めの髪は、お下げの三つ編みで丁寧にまとめられている。子供の頃からのトレードマークである、顔の淵からはみ出るくらい大きな赤縁メガネの奥では、くりっとした純朴な目を瞬きさせている。身長はそれほど高く無いので、その姿はまるで、童顔も相まって、先生の目を盗んで外出し、これから深夜の肝試しに向かう林間学校の高校生の様に見えなくもない。


「お待たせー。ごめんね、ちょっと遅くなっちゃったかな」みつほは舌を出して、肩を竦めた。「あれ、他のみんなは?」


 みつほは周囲を見回したが、薄闇の中に、他のメンバーは見当たらない。


 しかし、よく目を凝らして周囲をじっくりと観察してみると、千草の真横に、氷で作った水晶玉のような目玉が二つ浮かんで、こちらをまじまじと見つめている。その目はまるで、暗闇の奥底に身を潜めた黒豹が瞬きするのを堪えながら、虎視眈々と獲物を狙っているような鋭い眼光を湛えていた。


「ひいっ」自転車を漕ぎ疲れたせいもあるのか、みつほは、声にならない声をあげて息を吸い込んだ。「幽霊……!」


 一瞬の静寂。


「誰が幽霊よ」


 すぐに、聞き覚えのある、冷たく無感情な声が耳に入った。否、目の前の目玉がしゃべったのだ。


 みつほはもう一度、よく目をこらして目玉を見つめてみた。すると、暗い空間の中から、じわりと人型の輪郭が浮かび上がってくる。


 その目玉の主人あるじは、橘エミリだった。


 闇よりも黒いロングコートを着ているせいで、遠くから見ているだけでは、彼女の姿を確認することが出来なかったのだ。無理もない。エミリは、黒の厚底ロングブーツで足を隠し、頭にも黒いフードを被り、顔の鼻の上まで真っ黒なマフラを巻いているのだ。唯一露出している、雪の様な真っ白な肌と目だけが月の光に照らされていたのだ。


 みつほは、何度かエミリの姿を、つま先からつむじの上まで、舐める様に眺め回した。


「なに……? ジロジロ見て」橘エミリは、小声で言い放つと、大きな瞳でみつほを睨んだ。


 もちろん表情は見えない。声も、マフラに遮られてくぐもっている。機嫌が悪い訳ではない。彼女はいつもこうなのだ。よく言えば、大人しい。悪く言えば、不気味。存在感が無い。否。存在感が一切無い、という強烈な存在感。それが橘エミリなのである。


「エミリ……?」みつほは、二つの瞳をしげしげと見つめながら首を傾げた。


「そうよ」


「だよね」みつほは引きつった笑いを浮かべた。


 橘エミリは、いつも特徴的な服装をしている。みつほは、彼女がそういう服装を始めるまで詳しく知らなかったが、ゴシックロリィタというファッションらしい。


 しかも、彼女の髪の毛は、女性なら誰もが羨む程に綺麗なのだ。


 腰まではあろうかという真っ黒なロングヘアは、寸分のほつれやもつれ、たわみもきしみも一切無く、足元に向かって真っ直ぐ伸びている。触らずとも分かるシルクの様なキューティクルは、暗闇の中でさえ、玉の様な光を湛えてなまめかしく輝くのである。


 エミリの姿は、大げさではなく、肌以外の全身の九割以上が黒色で塗りつぶされていることも少なくない。今日はもしかしたら九十九パーセントくらい黒なのではないだろうか、とみつほは思って吹き出しそうになった。


 彼女がこういうゴシックな服装を始めたのは、確か、高校に上がった頃だったろうか。きっかけが何だったのかは分からない。彼女は、自分の事を話すことが滅多に無いし、聞かれてもあまり答えない。だから、理由は分からないけれど、いつしか、彼女は全身黒ずくめのカラスのような格好を好むようになっていった。


「えっと……、その……、そんな格好で寒くないのかなあ、と思って」


 みつほは、もう一度エミリの全身を、舐めるように見回した。何度見ても、もう体の半分以上は闇夜に溶けてしまったのではないかと思う程、真っ黒だった。けれども、足はきちんと二本ついている。どうやら幽霊ではないらしい。


「別に……」エミリはそっけなく答えて、視線を外した。


「あの、えっと……」袴田千草は、二人の顔を交互に何度も繰り返し見ながら、少し困ったように切り出した。「きょ、今日は本当に冷えますよね……」


 千草の必死な作り笑顔が、あまりに面白く、みつほはまた吹き出しそうになった。けれども、彼女のこういう純朴で愛らしい所が、みつほは好きだった。いつも、自分でも見習わなければいけないと思いながら、実現できないままに十年が経った。


「ほーんと。こんなに寒くなるなんて思わなかった」みつほは顔をしかめて両腕を抱えた。


「一輝さんたちは先に行って、カプセルを埋める穴を掘ってくれているんです」千草は、片手でメガネを上げながら言った。


「あ、そうなんだ。私が遅くなったからだよね。ごめん」みつほは両手を合わせて謝る仕草をした。


 すると、視線を外していたエミリがこちらを向いて、淡々と言い放った。「二十時二十九分。集合時間の一分前。遅刻じゃない。私たちがここに残っているのは、全員が車に乗り切れなかったから」


「そ、そうなんだ……」みつほは、口を斜めにして苦笑した。頬が引きつっているのが、自分でもよくわかる。


 いつもの事ではあるが、エミリはあまり感情を表に出すことがない。そんなエミリを、みつほは嫌いではなかったが、時々、どうやって接すればいいのかが分からなくなることがあった。ある意味では幽霊より怖いかもしれない存在……、否、幽霊だって、彼女に睨まれたら、きっと一目散に逃げ出すに違いない。


「あれ、でも車っていうことは、歩さんも一緒なんだ」みつほは声色を明るくした。


「私、てっきりここからみんなで歩いて行くのかと思ってた」


 歩とは、喜多川歩きたがわあゆむのことで、この神社の宮司、喜多川弥之助のひとり息子である。


「あんな場所、ここから大きなカプセルを持って、歩いて行けるわけないでしょ」エミリは冷たく言い放つ。


「そうなんです」千草は苦笑しながら頷いた。「あと、実は、守さんの作ってくれたカプセルが思ったよりも大きくて……。どちらにしても、全員は乗れなかったと思います。でも、歩さん、ついさっき光剣くんたちを下ろして、今こちらに向かって走っているそうなので、もうじき来られると思いますよ」


 千草は以前から、誰に対しても丁寧な敬語で接する、一風変わった同級生である。みつほは、最初彼女と出会った時、、その過剰なくらいの丁寧なしゃべり口調に違和感があったが、今ではもうすっかり慣れてしまった。


「みんなどこまで行ってるの? 境内?」みつほは、寒さをごまかすために、足踏みをしながら聞いた。


「いえ、埋める場所は神社の境内じゃなくて、山を少し登ったところだそうですよ」千草が答える。


「あ、もしかして、いつもの場所に?」


「そうだと思います。多分、月夜見草つくよみそうの畑ところに」


「やったー、あそこ綺麗だもんねぇ。私、今シーズン、見るの初めてだから、嬉しいな」みつほは歯を見せて笑った。


 少しの間の沈黙……。


 しばらく黙っていると、急に山頂から冷たい風が吹き降りてきた。周囲の竹やぶが、風に煽られ、一斉にざざと音を立てて揺れ始める。


 風は比較的長時間、吹き続けた。


 竹と竹との隙間をくぐり抜けた風は、通り道が狭まったことでさらに勢いを増し、広場の白砂を舞い上げるくらいに強まっていく。


「風が吹くと余計に寒いね」みつほが言う。


「そうですねぇ、風が出てきましたね……」千草が真顔で答えた。


 みつほは幼い頃から暗い場所が苦手だった。


 闇はいつでも、見慣れた場所や物を、まるで化け物か怪物のような姿に変えてしまうのだ。


 そして、人間の心の隙間に入り込んできて、恐怖や不安を作り出す。たった今、ざわめき出した竹やぶも、闇に生命を吹き込まれて動き出した悪魔か魔物に見えてくる。


 今にも自分に襲いかかってくるのではないか。


 そんな、あるはずもない妄想が頭をよぎって、みつほは少し不安になってしまった。


 でも、今は友人と一緒だ。


 ちょっと変わった二人だけど、一緒なら怖くなんかない。


 でも、こんなことで怖がっている自分は、果たして今後、軍の中で戦っていけるのだろうか、と考えてしまう自分もいた。


 その直後、背後から車のエンジン音が聞こえてきた。喜多川歩の運転する軽の四駆が、白砂を巻き上げながら広場に入ってきたのだ。そのうち、社務所全体が眩しいヘッドライトで照らされた。


「歩さん、戻ってきましたね」千草が、目を細めながら言った。

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