2099年3月21日 (第1期開始)

01. 遺言カプセル

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 二○九九年三月二十一日 夜二十時。


 繊細なシルクスクリーンのように澄み渡った今宵の空は薄紫色。雲ひとつない夜空に浮かぶのは、真昼の光と見紛う満月だけだった。宇宙の完璧さを誇張するような月の真円が、神々しい光を解き放ち、幻想的な夜更けを演出している。いつもはそこにあるはずの小さな星たちも、今は光に霞んでまったく見えない。


 気温は十二度。ここ数日では一番の冷え込みだった。


 筑紫町ちくしちょうは、都会から北に約二百キロメートル離れた、人口十万人にも満たない小都市。町の大半は田園で、道路に街灯の類は一切なく、夜は車が無ければ出歩くことさえままならない田舎町である。けれども、今夜に限っては、仰々しい満月の光が降り注ぎ、古き良き、雄大な田園風景を絢爛けんらんな様子に照らし上げていた。


 この町には、住人たち自慢のシンボルがあった。それは、小さなこの町を懐に抱える筑紫山ちくしやまである。


 筑紫山は、標高約千二百メートルの独立峰。国内でも有数の、高い純度を誇る一級河川の水源を抱えている。山頂から絶え間なく湧き出す清流は、水質がよく水量も豊富で、国の重要保護資源にも指定されている。

 

 その下流である筑紫町は、山からの豊富な水量を生活用水に活用する他、地域の稲作農業にも利用しており、今でも米作りが盛んに行われていた。戦争による放射能汚染が広がり、世界中に食糧危機が広がりつつある中、この地で収穫されるお米の存在は、地域住民の拠り所であり、誇りでもあった。

 

 そんな筑紫山も、普段は寡黙で素朴な姿。けれども、今宵ばかりは装いが違う。透き通った空気をまっすぐに透過した満月の光をバックライトにして、滑らかな斜面と美しい山肌をくっきりと夜空に浮かべ、荘厳そうごんな佇まいで悠然と聳えている。



 高嶋たかしまみつほは、先月、22歳の誕生日を迎えたばかりの女子大生。四年間、一度も休まず皆勤で通い切った<軍立 筑紫士官大学校>の卒業を間近に控えた身である。来月からは、地元の軍隊基地に配属されることが決まっている。

 

 今晩は、士官大学の同期生たちと、夜遅い外出の約束をしている日でもあった。

 

 士官大学を卒業し、軍事の道を目指す者たちの間では、既に恒例行事になりつつある<遺言カプセル>。それを埋めに行く約束の日が、今日なのである。

 彼女は、その<遺言カプセル>という縁起の悪いネーミングセンスに嫌気がさすと同時に、外のあまりの寒さに外出するのがかなり億劫になっていた。なにしろ、この寒い中、自宅から三十分以上も自転車で走った先が待ち合わせの場所なのだ。


(行きたくないなあ……)みつほは、大きくため息を吐いた。 


 行くのをやめてしまおうかとも本気で思った。けれども、私はこれから軍隊に入る身。今から怠け癖をつけるわけにはいかない。そう決意したみつほは、意を決して自分の部屋を飛び出した。


「それじゃあちょっと、行ってきまーす」

 みつほは、夕食の片付けをしている台所の母親に、わざとらしい声を投げた。玄関の上がり框に腰を下ろし、履き古した馴染みのスニーカを履く。


「あんまり遅くならずに帰ってくるのよー」数秒遅れて、母の声だけが返ってきた。

「分かってまーす」みつほは、口を尖らせて答えた。


 すると、二階から、ドタバタと階段を駆け下りる耳障りな音が聞こえてきた。妹の秋穂あきほが、母とのやりとりを耳にしたのだ。


(めんどくさいやつがくるぞ……)みつほは、再びため息をついた。


 靴を履き終え、階段を振り返ると、お風呂上がりの妹が、濡れしきった長い黒髪もそのままに、ピンクの花柄模様のパジャマ姿で階段を駆け下りてきた。


「お姉ちゃん、自分だけずるい」秋保は、頬を膨らませてみつほを睨んだ。「どこいくの?」


「筑紫山に、遺言カプセルを埋めに行くのよ。あ、先に言っておくけど、あんたは連れて行けないからね」


「ふーんだ、いいもーん」秋穂は更に頬を膨らませて、不満そうに言った。


「なにその顔。フグのモノマネ?」みつほは真顔で指摘しながら、玄関の扉に近づいた。「私、待ち合わせに遅れそうで急いでるんだから、あんたに構ってる暇、ないの」


「あー!」みつほの話を無視した秋保は、姉の顔を指差して大声をあげた。「お姉ちゃん、お化粧なんかしてる!」


「しー!」みつほは顔をしかめて、生意気な妹の減らず口を片手で塞いだ。「お母さんに聞こえるでしょ」


「みんなって、誰よお」秋保は、みつほの手を振り払って、姉の顔を覗き込むように顔を近づける。


「誰って……、学校の友達よ」


「どうせまたバカイッキとかアホヘイタが一緒なんでしょ」


「あんたねぇ……」みつほは生ぬるいため息を吐いて肩を落とした。「いくらなんでも、私の同級生に向かってその呼び方はないでしょお」


「なんであんな弱っちい男のことがいいのかねえ、私、ぜんっぜん、分かんない」


「べ、別に、そんなんじゃないわよ、バカね!」


「へへーん、図星だあ! ずーぼし、すーぼし!」秋保は、左右の足を交互に振り上げ、まるで相撲取りの土俵入りのようなダンスを踊ってみせた。「私、イッキともヘータとも言ってないのに、騙されたー」


「うるさいわね!」みつほは、小声で叫んで妹を睨みつけた。「それから、その、ジャングル奥地の部族の踊りみたいな動き、やめなさい」


 すると、二人の騒ぐ声に気がついたのか、再び、台所から母の声が飛んできた。

「みつほお。あんた、もう外は暗いんだから、お化粧なんかしたって意味ないと思うわよー」子供をからかう、癪にさわる声だった。


「もう。あんたの声大きいから、お母さんに聞こえちゃったじゃないの」


「イーだ」秋穂は舌を出し、アカンベーをして二階に駆け戻っていった。


「なんなのよ一体……」みつほは、鬱積うっせきした苛立ちを吐き出すために、風速数百メートルのため息をついて立ち上がった。「まだ家も出てないのに、何回ため息つけばいいのよ、私は……」


 下駄箱の上には、昨日の晩から準備していた緑色の紙袋。中には、遺言カプセルに入れるための品々が入っている。


 ふと、下駄箱の上に目をやると、昨日までは無かったはずの陶器製の白い花瓶が一つ、置かれていた。花瓶の表面は、天井に取り付けられた裸電球の光をそのまま映し出すほど滑らかで、中には、薄紅色うすべにいろ椿つばきの花が一輪、生けられていた。


 母が庭の木から切って持ってきたのだろうか……。みつほは少しだけ考えた。


 三月も下旬になり、見頃を迎えた庭の椿だったが、こうして一輪だけで見ると、どこか寂しげで、少し可哀想な姿に見えてしまう。

「よおしっ」みつほは、下腹部に力を入れて声を出した。


 勢い良く玄関の引き戸を開けると、ひんやりとした外気が全身を貫通して、玄関の奥まで駆け抜けて行く。

「ひゃあ、寒いなぁ」みつほは、思わず声を上げてしまった。「なんでこういう時に限ってこんなに冷えるのよぉ……」


 引き戸を後ろ手に閉め、自転車のカゴに紙袋を入れて、颯爽《さっそう》とペダルを漕ぎだした。


 吐き出す息は常に真っ白で、すぐに夜空の闇に吸い込まれて消えていく。


 カーキ色のトレンチコートを着込み、パンツは厚手の黒いスキニー。手にはピンクと緑のツートンミトン。頭には真っ赤なニット帽。完全防備だったはずなのに、ペダルを漕ぐ度に、鋭い冷気が、露出した部分に突き刺さる。


「さーむーいいいー」

 それでもみつほは、声を震わせながらも、ぼんやりと青白く照らされた農道を駆け上っていく。彼女が目指す集合場所は、筑紫山の入り口だった。


 山の入り口には<花宮神社>という古びた神社がある。その神社には、小学校時代から一緒の同級生である光剣一輝みつるぎいっきが、宮司ぐうじの喜多川親子らと一緒に暮らしている。そこが、彼女の目指している集合場所だった。集合時間は二十時半。


 みつほは、間に合うかどうか不安だった為、勢い良く立ち漕ぎして、自転車を左右に激しく降りながら、傾斜の強い坂道をぐんぐんと登っていく。


 これまで、もう何度も通った慣れた道である。


 始めは両脇ににたくさんの民家や田んぼを臨んだその道も、次第に細くなり、家の数は減り、やがては田んぼさえ見えなくなる。今は三月なので、用水路を流れる水もほとんどない。やがて、鬱蒼うっそうとした森に囲まれた山道に入っていく。周囲はとても静かで、暗かった。


 ペダルの回転音、チェーンがしなる金属音、タイヤがアスファルトを蹴る一定のノイズだけが周囲に響き渡る。


 民家を過ぎた辺りからは街灯がひとつも無い。既に周囲は真っ暗で、足元のセンターラインがうっすらと見える他は、ほとんどなにも見えなかった。


 静かな暗闇の中、一人で自転車を漕いでいると、色々なことをゆっくり考える事が出来る。みつほはそう思った。


 自分の事。将来の事。軍隊で働くという事。戦争の事。


 たくさんの不安もあったが、未来の事を考えていたら、いつの間にか、さっきまであれだけ外出したくなかったはずの滅々とした気持ちも半減していた。体もいつの間にか温まってきて、少し暑いくらいだった。


 不思議だけど、いつもそうだ。


 やる気が無い時程、行動に移した方が、思いの外やる気が湧いてくる。これが、彼女が短い人生の中で習得した、高嶋流の人生訓。「考える前に行動しろ」の法則だった。


 そうこう考えている内に、自分の住む町並みを多少は見下ろせるくらいの高さの所まで登ってきた。景色を見ようと思い、自転車を止め、両足をつき、少しだけ止まった。


 古びた傷だらけのガードレールから、ほんの少しだけ首を突き出し、冷たい空気を思い切り吸い込んだ。周りの草木が、今生んだばかりの新鮮な酸素は、ほんのりと緑が薫って、とても美味しく感じた。


 眼下に広がる町並みには、田んぼや畑の土から上がってきたうっすらとした靄がかかり始めている。その靄が余りある月の光を浴びながら、白く浮かび上がり、意志を持った生命体の様にゆっくりと上昇し、広がりながら動いている。


 都会のような煌びやかで艶やかな夜景ではないけれど、彼女は、生まれ故郷のこういう素朴な景色や香りが好きだった。


「早く行かないとっ」

 再び自転車を漕ぎ出す。


 寒がりの光穂にとって今夜の冷え込みはとても辛かったが、いつの間にか、同級生たちとの夜の外出に胸が踊っている事に気が付いた。


 もしかしたら、こんな遅い時間に、光剣一輝と会えることが本当の原因なのかもしれないと思ったが、彼女はすぐにその考えをかき消して、自転車のペダルを回すことに集中した。


 二十分くらい走ったところで、山の入り口を示す大きな石造りの鳥居が見えてきた。寒くて震えていたはずの体がじんわりと汗をかき、コートを脱ぎたいと思う程に温まっていた。あれだけ憎かった寒風が、今はとても恋しく感じる。けれども、汗が冷えて風邪を引くといけないので、我慢してそのまま走った。


 鳥居の手前で自転車を降りて、境内に入る。


 入口のすぐ脇にある自転車置き場には、既に全員分の自転車が停められている。どうやら自分以外は、既に集まっているようだった。みつほも自転車を停め、カゴに入れた紙袋を両手で取り出す。


 空を見上げてみると、満月は、さっきよりも高い所まで登ってきていて、より一層、輝きを増していた。月光にかき消されていたはずの星たちも、夜が深まるに連れて力を増して、いよいよ夜空に輝き出していた。


(今夜の夜空は本当に綺麗ね……)みつほは、心の中で呟いた。

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