終末に捧げる千年花《レクイエム》~The End of the Dream~

蒼井コーマ

序章 永遠なる冬

00. 終末に捧げる千年花

00


 ~ 咲いた 咲いた ~



 彼女の最期を告げ、それらすべての時を止める一発の銃声。

 緊迫と罪悪感に苛まれ、それから、一抹のわびしさに濡れた無常な発砲音は、乾ききった喉や口腔の粘膜ように掠れながら、周囲のガラス壁へと執拗にへばりついていった。

 直後広がる、鼓膜が張り裂けそうになる錯覚を覚える、鋭く沈んだ重い静寂。

 広く、高く、冷たい深夜の空間は、張り詰めたピアノ線のように打ち震え、静かなる音を奏でた。



 ~ 夢の花 ~



 ぱたりと倒れ仰向けになり、夜の帳に冷え込む床と同化していく彼女は、ゆっくりと絶命の地へと歩き出していた。しかし、その顔には、微塵の恐怖も瑣末な後悔も一切感じない。

 むしろ逆に晴れ晴れしく、清々しく、まさか死んでいるとは思えないくらいに美しい笑顔だった。

 そう。

 たった今死んだとは思えないくらい……、

 未だに鼓動し、呼吸し、今にもこちらに話しかけてきそうなくらいの、生々しい笑顔。



 ~ 散って 散って ~



 こんなに無垢で純粋な彼女の笑顔を見るのは、初めてだったかもしれない。

 彼女が生きている時には見せたことのない、特別な表情が、今まさに、目前にある。

 私は、彼女の残した最期の表情に、嘲笑われている気がして、内心、嫉妬していたかもしれない。


 彼女の死を確信すると、つぶさに頭の中に巡り蘇る、もう二度とは聴くことはないであろう、柔らかい天使の歌声。



 ~ 終わりと 始まり ~



 あれほど暖かかったはずの彼女の肉体は、ゆっくりと、そして確実に、残酷に、

 もう二度とは戻らないという、代え難い事実を、愚かな私に突きつけるかの如く、

 弛緩した筋肉が、まるで新しい生命を与えられたみたいに収縮して、

 急速に、劇的に冷めていく。


 多分、温度だけでいえば、もはや彼女なのか床なのかさえわからないだろう。



 ~ 種は芽となり 花咲かし ~



「死んでしまえば……、人も動物も、皆同じだ……」

 私は、言い訳がましく呟いた。

 もちろん、誰も、なにも、答えない。



 月夜に照らされ青白く染まっていく彼女の顔を覗き込む形で、清浄なシルクのような純白をした芍薬しゃくやくこうべを垂れていた。

 その香りは、如何いかがわしく、卑猥ひわいなほどにかぐわしく、けれども、植物特有の生臭い野性味にもまみれ、大きな温室を侵食していた。



 ~ 最後は実となり 散っていく ~



 芍薬は、彼女の愛した花の一つだった。

 幾重にも重なる球状の花頭かとう

 差し込む月光に照らし透かされた薄い表面の花弁には、今しがた飛び散った、鮮烈な赤の血飛沫。

 まるで、けがれが聖地に溶け込むように……。

 悪魔が天使を犯すように……。


 すべての終わりを告げるように。

 すべての始まりを伝えるように。



 ~ 乱れし花は 悲しき死を送り ~



 この花の存在は、まさに彼女がこの世に生きた最後のあかしでもあった。

 

 遠い記憶が、走馬灯となって回り出す。

 自分が死んだわけでもないのに。



 ~ 茂りし葉は 希望の光を放ち ~



「ねえ、あなた」

「ん?」

「花は、残すために咲くって知っている?」

「ああ、知っているとも。だから私は花が嫌いだ」

「花が嫌い……? 相変わらずおかしな人ね」彼女は、少女の如くくすくすと笑ってこちらを見た。「それなら、葉は好き? 根っこは?」



 ~ 目立たぬ根こそが すべてをつなぐかけはし ~



 花と同じく、否、それ以上に美しく可憐な彼女を、私は心底愛していた。それだけは間違いない。

「だから……、殺した」



 ~ 命は すべてを知っている ~



「花の命は短い」

 私はあの時、少し不機嫌だったかもしれない。

「だから嫌いだ」

「花には命がないわ。命は、生物そのものに宿るもの。花は、そのほんの一部。生命現象における一瞬の出来事でしかない」

「花こそ、人を惑わせる」

「ええ、そうね」

 彼女は、コンピュータグラフィックで描いたような美しい肌を緩ませ、微笑んだ。

「でも、花に罪はない。罪を作り出すのは、いつだって私たち人間」

「そうかもしれない」


 こちらを見つめる、罪深いほど深く透き通った瞳。

 その視線の束縛から逃れるように、私は目を逸らした。


「植物はただ……、自分を後の世界に残すためだけに花を咲せる。それ以上でもそれ以下でもない。とても純粋な存在、動機」

「あらゆる生命は、皆、すべてが純粋だよ」

「そうね」

 彼女は、片手で自慢の長い黒髪を持ち上げか、小さく白い耳元に掛けた。

「だから、この世に生まれ落ちた命はみんな、必死に生きて戦う。すべては残すため。つなぐため。その手段が、植物は、偶然、種だった。役割を終えた生命は、いつか必ず消えていくの。当然じゃない?」

「ああ、その通りだ」



 ~ あなたと私 神と悪魔の馴れ初めを ~



 私は一歩踏み出し、華奢で、しかし、しっかりと芯のある彼女の躰を抱きしめた。

 不機嫌をごまかすように。

 事実と現実から、目を背けるために。

 あの感覚は、多分、死ぬまで忘れない。



 ~ 過去と 未来を 飛び交い そして ~



「だが、命が有限だなどと、一体誰が決めた?」

 私は、彼女の耳元で囁いた。

「かみさま」

 彼女は、愉快そうに笑った。

「有限だからこそ、命は必ず輝くの」

 彼女の口元が緩むのを、私の首元の神経が察知した。

「この世に、永遠のものなんてなにひとつない。永遠は、一瞬の中にだけあるのよ」

「私は、認めない」

「認めて。そうすれば、私も、あなたも、今を生きているこの一瞬を、最高に輝かせて生きることができる」

「私は……、君を、永遠に、失いたくない」

 彼女を思う激しい感情が、抱きしめる腕の力を倍増させた。

 私は必死に、貪るように、絹の長髪を撫で、掴み、そしてでた。

「私だって……」



 ~ 葬い 涙し 咲き散る千年の花 ~



 彼女は、私の肩に顎を突き刺し顔を埋めた。

 こちらに巻きつく細い腕はきつく締まり、細い指とつめ先が脇腹に食い込む。

 今はもう、二度と得られない感触。



 ~ 消えゆく 儚い命を 哀れんで ~



「でも私たちは、立派なたねを残してしまった」

「私と君が共に生きた証拠だ」

「そう……。そしてあの子たちは、いつか必ず立派な芽を出し、根を張り、葉を付け、やがて実となり種を残して、またいずれ花を咲かす。私たち意思を継ぐの。だから、役割を終えた今の私たちは、この後、いつかは必ず土に還る。それこそが、宿命。逆らうことはできないわ」

「そんなのは嫌だ!」

 私は思わず叫んでいた。

 けれども彼女は、まるで冗談を受け止めたかのように笑った。

「相変わらず、子供みたい。あなた。子供たちに笑われるわよ」

「それでも構わない」

「あなた……」

 彼女が耳元で吐いた吐息は、灼熱に思うくらいに暖かかった。

「愛しているわ」

「ああ、私だって、愛している」



 ~ 怒り 猛りし すべてを知る花 ~



 だらしなく投げ出された四肢は、まるで整然とした至高の芸術品のようでもあり、それを眺める私自身には、不思議と、悲しみも憐れみも、あらゆる感情は浮かんでこなかった。


 ただ少し、微笑んでいたはずの最後の笑顔が、少しずつ硬直して、死に顔然としていくことだけが、心残りで、寂しかったかもしれない。


 命は短い。

 生命は儚い。

 私の愛した女性は、この世のなによりも美しい。

 だからこそ、何をもってしても残さなければいけない。


 それこそが、私たちの生きた証。

 

 存在の証明。


 種でも、花でもなく。

 存在性そのものを……。


 たとえ世界を敵に回しても。

 神の与えた意志に背こうとも。

 悪魔に魂を売り渡そうとも。


「これで、ようやく……、君も私も、永遠だ」


『ありがとう』


 彼女の声が、聞こえたような気がした。


 私は意を決して、彼女の肉体内に手を伸ばし、

 まだ生暖かい心臓を掴み、

 そして、取り出した。


 ~ 二度と戻らぬ あなたに捧げる 最初で最後の 鎮魂歌レクイエム ~

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