第49話 それぞれの命


頼邑はアオに跨り、不死の森へ向かっていた。あれから光とは何度か会っていた、月霧の里は、やり直してよい里にしようと再起していることを伝えると光は複雑な表情をした。

不死の森に近付くにつれ、木という銅色やら金色、燃えるような朱色に染まる美しい秋の森へと変わっていく。しばらく、進んでいくと玉藻が座っていた。

「玉藻、光はいるか?」

頼邑がそう言うと、玉藻は、小さくうなずき、くるりと背を向けた。

どうやら、ついて来いということらしい。しばらく歩くと櫟な栗などがある木々の中に連れて来られた。

「しばらく待っていろ」

と、言い置いて奥へと消えて行った。

草や野花の中に腰を下ろして、遠くの森にじっと眼を向けた。もう、この森とも別れだと思った。

だから、光が来るまで間、しばらくはこの美しい森を見ていたかった。

しばらくして、すぐそばの草の中で何かが揺れる音がして、くすっと笑っているような、かすかな声が聞こえた。

顔を上げると、すぐそばに光の顔がこちらを覗くように笑っていた。

「気配に気付かないとは疲れているのではないか?」

そう言って光も腰を下ろした。

肩まで短くなった光の髪は、心まで軽くさせているようである。

「今日は来るのが早いんだな」

「もうだいぶ落ち着きつつある。私の役目も終わりだ」

頼邑は、顔は笑っていたが、声はどこか寂しそうであった。

光もそれを感じたのか、立ち上がり、栗を取ると、

「なんだ? つまらぬ揉め事でもしたのか?」

と、呆れた口調をして栗を頼邑に渡そうとしたときだった。

頼邑は、いっとき黙っていたが、つぶやくように光と言った後、

「私はすぐにここを発つ。そなたに別れを言いにきたのだ」

と、静かな口調で言った。

光は一瞬、身を固めた。頭の中が真っ白になり、しばらく何も考えることができなくなってしまった。

いずれ去ると分かっていながらも、そばにいてくれるだけで幸せだった。だから、覚悟はしていたが、いざその日が訪れても気持ちの整理がつかない。光は今までの様々な出来事がよぎり、声がつまった。

その気持ちを感じたのか頼邑は、

「私たちは、あまりに多くのものを失った。でも、すべてはそなたのお陰で元に戻りつつある。でも、それではいけない。今度は私たち(人間)が今を始める時だ」

と、眼の前に見える雄大な森を見据え、力強く言った。

自然を含めた命と人間が共存していくことを約束するという意味を込めて言った。もうすでに、光は頼邑の思いを受け止めたのか、うなずいた後、微かな笑みを浮かべていた。

ふたりの周りに、のどかな鳥のさえずりの声が聞こえてくる。その声を聞いたのか、光の心はとても素直な気持ちにさせてくれた。

「あのとき、私に生きていいのだと言ってくれてありがとう。私は、これからも生きていいのか?」

「ああ、生きていかねばいけない」

光の問いに頼邑は、力強くこたえた。

光の口から、その言葉がでたとき、頼邑は、ホッとした。やっと、光は生きることの意志を持ったからである。

光は、巾着袋から中身を取り出し、頼邑に渡した。それは、霊髪だった。故郷のために使って欲しいと思ったからだ。

「持っていけ。お前には必要であろう」

光は、頼邑の眼を見て思った。

その内なる瞳の中に覚悟を定めたものは光のひかりになるのだと。頼邑は、それを受け取るとアオにまたがった。

「そなたが抱いた思いは決して忘れぬ」

そう言い終えたとき、頼邑は振り返ることなく、真っ直ぐ見据えると、馬蹄の音と共に森の中へ溶け込むように去って行った。

光は、その先行きを見つめ、

「ならば、我らも見届けよう」

と、小さなつぶやきをもらした。



お花は、土間に立ったまま斜向かいの腰高障子に眼を向けていた。そこは、頼邑が住んでいた部屋である。いまはだれもいない。腰高障子は閉まったままである。

あの日、頼邑が無事に戻って来て、伊助がお花が懸命に里の皆を説得させたことを話したのだ。 そのことを聞いた頼邑は、ここを立ち去るとき、

「お花さんには色々と救われた。心から礼を申す」

そう言って笑みを浮かばせた。

「頼邑さま……」

お花の声が震えていた。

頼邑が初めて里へ来たときから心を寄せていた。その気持ちが薄れることはなかった。

「わ、わたし……」

そう言ったとき、お花は口から頼邑への想い告げようとしたが、やめた。

今、告げたところで、かえって頼邑を困らせるだけだと分かっていたからだ。何となく、お花の女の勘が、頼邑には別の人を想う心があると気付いたのもある。どう足掻いても、叶わぬ恋だというのは最初から分かっていた。

いっときすると、お花は、

「私、頼邑さまにお会いできて良かったです」

と、言って儚い笑みを口元に浮かべた。

お花は頭を下げて踵を返した。頼邑はお花の背に眼を向け、幸せに暮らせ、と小声でつぶやいた。

いま、斜向かいの腰高障子に淡い西陽が当たっていた。そこの部屋だけひっそりとしている。ときどき、遠くで赤子の泣き声や女房の笑い声などが聞こえるだけである。

……もういないのね。

お花は胸の内でつぶやいた。

ひどく寂しかったが、悲しくはなかった。元々、故郷の長となる方だと知ったときから、頼邑が自分を置いて去っていくことは分かっていたし、それをとめようとも思わなかった。

お花の思っていたとおり、思い出だけを置いて、頼邑は遠い世界へ帰っていったのだ。

いま、お花はひとり取り残され、ひどく寂しかった。

……でも、頼邑さまは大切なことを残してくれた。

顔をつつんでいた澱んだ大気が、さわやかな風になってお花の顔や首筋をやさしく撫でていく。 風が、お花の寂しさを吹き飛ばしてくれるようだった。




そのとき、伊助は平八郎と田畑を耕していた。平八郎が深いため息をしたので、

「平八郎、どうした?」

伊助が訊いた。

「何でもねぇ。ただ…」

「ただ?」

伊助は聞き返した。

「頼邑さまがいねぇとつまんねぇなって」

平八郎が、力なくつぶやくような声で言った。

「何、言ってやがる。おれ達は頼邑さまから教わったことをやっていかなきゃ合わせる顔もねぇ」

「分かっている…」

平八郎は、ぽつりと言うと、魂が一緒に抜け出ていきそうな深いため息をついた。

伊助は、まったくしょうもない男だ、と思ったが平八郎を非難する気にはならなかった。

平八郎も胸の内では頼邑の人柄を好いていたからだ。

「行っちまったなぁ」

平八郎が、つぶやくような声で言った。


くるぶしまでの柔らかい草が浅瀬のように広がっている。草と水の匂いが、かすかにし、澄み切った大気の中を頼邑は走り続けていた。

ふと、視線をずらすと、そこには命を育む美しい森がどこまでも続いているのが見えた。

頭上では、澄んだ秋空を高く鳶が渡り、小鳥はひかりの欠片のように飛びまわっている。ここには、個々の命が宿り、人間が支配するものではないと頼邑は感じた。

すべての命は、個々のものであり、喜びも悲しみも共にあるものだということを忘れた人間は、どんな惨いことをしても互いを傷付け合うのをやめないだろう。

愚かな命でもあり、尊い命にもなる。決して忘れてはならない。その思いを確かめるかのように光の霊髪が数本、風に包まれるように舞い、地へ降り立っていった。

そこに確かな命が芽吹き始めようとした。



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