第46話 繋がった記憶

頼邑の、足元にあった黒い水は、もう身体の半分以上に浸っていた。その様子を冷徹な眼で見る香炉の主に対して、

「光は何処にいる!」

と、叫んだ。

「お前が心配しずとも、光は安らかな夢を見ている。苦辛の記憶を消し、その夢の続きが手に入るのだ」

そう言って香炉の主が口許に薄笑いを浮かべたが、眼は笑っていなかった。双眸が猛虎のように炯々とひかっている。

香炉の主を見つめる頼邑は、

「お前はお前なりの義はあるだろうが、この世界の命を忘れるな。明日へと羽搏こうとするものを阻むことはできぬ!」

と、憐れみと強い意思が入り混じった眼差しで言葉を切った。

黙れ!

初めて、怒りを露わにした香炉の主の怒りはどこへ向けているのか分からないほとであった。

「お前こそ、本当に光を想うなら邪魔立てするなっ。お前との記憶を消したいのは光自身、幸せな記憶だけを残し、新しき世界で生きるのだ!」

香炉の主は、もう沈みかけている頼邑を見つめながら行った。

もう、頼邑の眼には香炉の主の冷徹な瞳しか見えたのが最後となった。

意識が薄れていく中で、頼邑は光に名を授けたあの夜の晩の日を思い出した。

闇の中であっても決して、光を失わないで欲しいと願って授けた名。ひかりは、ひかりの中にあるのではなく、闇があるから、ひかりが輝く。

「光っ、聞こえるか! 思い出せっ。消し去りたい記憶でも思い出せ!」

と声の限り叫んだ。



その頃、光の耳が鳴動のように響き渡った。

一瞬、ハッとして思わず後ろを振り向いた時、体がひかりの玉の中へ吸い込まれていった。辺りの景色が、かすかにぼんやりしていたが、しだいにはっきりしてきた。

腰高障子に続いて狭い土間があり、その先に六畳の座敷があるだけだった。そこに座っていたのは、まだ乳飲み子の赤子を大事そうに抱いている女だった。

女は、色白で透けるような肌をしていた。赤子を愛おしそうに見つめる眼差しはとても清らかである。

女は、頬を赤子にこすりつけるように抱きしめている。その女の眼が涙に濡れていた。

光は一瞬、頭に鈍い疼きが走り、記憶の断片が脳裏をかすめた時、恐怖と不安が稲妻のように一気に通り抜けた。触れることを避けている記憶が、焼き鏝をあてられたような痛みを心に与え息苦しくなり、膝に胸を押し当てうずくまった。

ふたたび、漆を塗り潰したような闇がたちこめてきた。闇は、心の隙間を埋め尽くすように広がっていく。

……もう、何も思い出したくない。

そのときだった。

耳の途方から、頼邑の声が聞こえた。その声に、光の顔がハッとし、

「光っー! 思い出せ!」

と自分を呼ぶ声が聞こえた。

すると、広がっていた闇が消えていく。

……頼邑!

光が頭のどこかで声を上げた。

そのとき、光は忘れかけていた頼邑の声を聞いた瞬間、記憶の断片が光の瞳の底によみがえった。

そこは、さっきの母親が赤子をあやしながら、赤子に語りかけていた。

「なんて小さいの……。こんな小さな体であなたは生きようとしているのに。母を許せ……。護ることが出来ない、この愚かな母を許しはて…。愛しい、愛しい。私の子……」

そう言って、赤子の髪を撫でた。

その髪は、輝くような金色をしていた。その赤子こそ光である。

ずっと恨まれ憎まれていたと思っていた母の姿は、自分を本当に愛おしく抱いていた。

……なぜ、こんな大切なことを忘れていたのだろう。

光の心に長い間、捨てられたという思いが、呪いのように長いこと自分を縛り付けていたが、すっと消え、心が浄化されていくみたいだった。

突然、闇が押し寄せてきた。

「なぜだ? 人間が憎いのだろう」

光は、その声の主が何者かすぐに分かった。

「そうだ、私は人間は嫌いだ。それは変わらぬ」

光が、静かな声で答えた。

いくら母には愛されていたことが分かっても、これまでの人間の行いには許すことはできないのである。

「なら、なぜお前の心に変化がある? あの男のせいか。あの男はお前をたぶらかしているのだ。所詮、いつか裏切る」

香炉の主が吐き捨てるように言ったが光は、

「なぜ、お前が決める?」

と、一喝した。

「人間を憎むことも私が決めることだ。お前ではない」

それは強い意志に哀打ちされた響きだった。

「違う。なぜ、そこまであの男を信ずる?」

香炉の主は、理解し難い声で訊いた。

「…………」

光は答えなかった。

答えなくても光は頼邑を信じていたからだ。

……頼邑は、決して私から逃げなかった。

頼邑は教えてくれた。人を想うことを。頼邑がいたから過去を断ち切ることができた。生きることも、命のために涙を流すことも、そして温かさ、優しさも全て頼邑が教えてくれた。

だから、恐れるものはなかった。

「己の気持ちに偽りになるな。人間を許せないのは、正しい。お前は間違っていない」

香炉の主は、諭すような口調で言った。

光は、これまでの人間にされたことを思い出し、あらためて憎しみが込み上げてきた。それと同時に温かな母との記憶、頼邑の記憶が浮かび上がる。

「人間を許すのか?」

ふたたび、香炉の主が迫るように言った。

光は、下をうつむいたまま、

「もし、私が人間を許したならばお前はどうなる?」

と、つぶやいた。

香炉の主は、沈黙した。光の思わぬ問いにすぐこたえることができなかったのである。

これで光は分かった。誰かを憎む心も、許せない心があるのは誰もが持つ自然なこと。香炉の主は、ただそれを利用しようとしていただけだ。

光は眉宇を寄せ、哀れむような顔をした。

「お前は、過去の念にとらわれ、心は怨念にまみれている」

そう言って、眼を閉じ、頼邑に名をもらったあの日の光景が浮かんだ。初めて人間に心を許すことができた。頼邑は、人間側だ。自分とは違う道を歩むだろう。それでも、共にいたいと思えた。そして、ふたたび眼を開き、

「私は、頼邑を信じたい」

と、強い口調で言い放った。

その瞬間、闇の中で光の手からひかりが溢れ出てきた。光の霊力は、まばゆいひかりに包まれ力強く、されど優しいひかりは衰えることなく、闇の中を照らしていく。

「お前の闇は、私が浄化しよう…」

徐々に強くなるひかりに飲み込まれるように香炉の主は消えていった。黒い水に沈められた頼邑にも暗黒な前途を照らす光明に包まれていった。

……これは、光。

光の霊力のひかりだと感じたとき、体中の力が抜けていくような安心感がし、頼邑はそのまま気を失った。

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