第41話 死への恐怖


……まずい。

今まで手出し、しなかった玉藻が察知し、牙を剥き出しにすると唸り声を上げた。

「霊力の使いすぎだ。 下がれ、こいつは俺が殺る」

玉藻が止めを刺すように叫んだ。

「助力無用(じゅりょくむよう)!」

すざまじい顔に豹変していた。

眼を大きく開き、歯を剥き出し、憤怒の形相で頼邑に迫ってきた。

「よせ!」

頼邑は声を上げて、身を引こうとした。

だが、遅かった。光は飛びかかるように、そのまま斬りつけてきたのだ。頼邑は、振り上げた刀身を返しざま袈裟に斬り下ろした。

光は一歩身を引きながら、刀身を注ぎ込むように頼邑の籠手に斬り込んだ。神速の太刀捌きである。

光の切っ先が頼邑の首を浅くとらえ、頼邑の切っ先は、肩先の貫頭衣が裂けただけだ。

ふたりは斬り込んだ後、すばやく背後に跳んで大きく間合をとった。頼邑の顔が悲しい表情でゆがんだ。首元からしたたれる赤い血が、襟元を染めていく。

光は、下段に構えたが、その刀身が笑うように震えていた。先の傷の痛みが強まっているようである。それでも、光の双眸が猛々しい野獣を思わせるように烔々とひかっていた。

「もう、よせっ」

頼邑は悲痛な、切迫した声を上げ、身を引こうとした。

「黙れ!」

光は、耐え難い絶望と怒りで絶叫し、森の闇を劈いた。

突如、光に稲妻のような殺気が疾った。

……来る。

頼邑の閃光が疾り、疾風のように体が躍った。頼邑は短い踏み込みで、青眼から籠手へ。光の切っ先が頼邑の刀身を巻くように小さ弧を描いて胴へのびる。

わずかに右手に体をひらいた光と頼邑が入れ違い、反転し、間をとってふたたび、切っ先を向け合った。

頼邑の右脇腹の着物が裂けていた。

だが、肌まで届いていない。光の斬撃は届かなかった。痛みで体の感覚が鈍っているようだ。

一方、頼邑の切っ先は、光の右手の甲を浅く裂いていた。

「なぜ、手を止める!」

光が声を上げた。

その声に苛立ったような響きがあった。確かに右手の甲ではなく光と同じく斬撃をすれば必ず狙えた。

流れる血と疼痛が、光の平静さを乱したようだ。

「お前が私を殺さなくとも私が殺せば全て済む」

光が対峙して言った。

頼邑の瞳孔が大きく開く。このとき、はっきりと分かった。もはや、光を止めることはできない。しだいに気の昂りが薄れていき、かわりに頼邑の胸に悲哀と空虚が満ちていた。

ふたりの間に見えぬ糸があり、頼邑に激しい痛みが伝わってきた。だが、その痛みは互いに交わることはない。

頼邑の脳裏に、ほんの束の間だったが、光と共に過ごした時が浮かんだ。それは喜びに満ち、頼邑にとって大切なものになっていた。

そう、幸せな夢を見ているようだった。笑い合った時が、もう遠い記憶のようだ。だが、夢は夢だった。幻に過ぎない。

それでも、幸せな夢を見たのだ。頼邑の心の中でその想いが静かに閉じた。

地面に落ちた、ふたつの短い影の間が引き合うように狭っていく。

フッ、とふたつの影の動きがとまった。ふたりは凝固したようにうごかなかった。

たらっ、たらっ

と光の手の甲から流れた血が腕をつたい、肘から滴り落ちていた。

「光! 来いっ」

頼邑は声を上げて、踏み込んだ。

それと同時に両者の間から大気を裂くような殺気が疾った。頼邑はそれを待っていたかのように刀身を半狐をえがいたとき、手から刀身を放したのだ。

光の切っ先が槍の穂先のように前に伸びていくのを確認すると頼邑は自ら手を広げ、飛び込むように向かっていった。


ドスッ! 、という鈍い音がし頼邑の上体が前に傾いだ。

光の一刀が、胴を深くえぐったのである。着物が、どっぷりと血をふくみ、真っ赤に染まっていく。

「なぜ……。なぜ、刀を捨てた」

光は唇を震わせて言った。

一瞬の出来事に頭の中が白く溶け落ちるような衝撃を受けた。

「そちらこそ、なぜ急所を外した」

頼邑は、クッと喉を鳴らしながら言った。

光は、手にしている刀身を抜こうとした。そのときだった。

ものすごい力で、頼邑は抜こうとする光の手を握りしめ、

「抜くな! そなたの中で消えぬのなら私が受け止める。受け止めてやる!」

苦痛に顔をしかめ、握りしめている光の手を抑え、さらに深くえぐった。

「やっ、やめろ!」

光が叫び声を上げ、頼邑の手から逃れようとした。

だか、ものすごい力でピクリともしない。

ボタッ ボタッ ボタッ

と、どす黒い血が流れ出るように落ち、ふたりの足元を染めていく。

「自由になれ。光…」

頼邑は、土気色をして脂汗が浮いていた。

その言葉に光は耳を疑った。

「よく聞け、光。私にとどめを刺せ。そなたの怒りも憎しみも私が命と共に持ち去る」

頼邑は、空を見上げると、一羽の鳥が大きな翼を広げ、とんでいるのが見えた。その姿は、何も縛られることもなく、自由に羽ばたいていた。

そっと、頼邑は光の頭に触れ、

「私は肩翼を失った鳥だった。されど、そなたにもらい、また羽搏くことができた。次はそなたの番だ。共に羽搏きたかったが、もうできそうにない…」

頼邑は苦痛の中で笑みを光に見せた。

光は叫んだ。頼邑の腹部が血に染まっている場所に手を置いて全身の力を振り絞るように治癒した。

だが、腹部のあたりが見る間に血であふれ、広がり始めている。わずかに残された霊力では限界だった。

玉藻がゆっくりとこちらに来た。頼邑の腹部を見て、

……これは、もう。

急所を外したところで、光は無意識に霊力を込めた刀で頼邑を刺していた。玉藻は、助かることはないと悟った。

その間に頼邑の荒い呼吸が少しずつ浅くなってきた。徐々に顎だけが小刻みに動くだけ呼吸していた。

光の瞳から涙が頬をゆっくりとつたい、それが頼邑の手に落ちた。その温かな滴は頼邑に伝わった。胸の奥がつき上げるように痛く、今まで味わったことがない感情が底から沸き起こった。

悲しみ、怒り、憎しみではない。そのとき、自分が頼邑と見たこともない場所へ旅をし、ふたりで手を取り合って笑い合っている光景が浮かび上がった。なぜ今、こんな光景が浮かんだのか分からない。でも、それはきっと楽しいものに違いない。

「ああ…、きっと楽しい」

頼邑は静かにつぶやいた。

そっと、光の涙をぬぐった。頼邑には、光が見えた光景が分かったのだろうか。穏やかな表情で笑みを浮かべている。

光は、きつく眼を閉じるとさらに涙が頬に流れる。体が小刻みに震えだし、心ノ臓が早鐘のように鳴り出した。

人間を殺したのは憎いだからだ。それがあまり前であった。人間の死の瞬間は、まるで花びらのように虚しく散っていき、その姿を見ても何も感じない。だが、今はたったひとりの人間の死を目の前にして恐怖を感じた。

死を前にした人間は、恐怖に混じった顔で自分の顔を見ながら絶命してきた。自分はその表情を見届けることなく、次の獲物を見つけては殺していく。

だが、今は殺そうとして刀を向けた人間に対して恐怖を抱いた。

頼邑が死ぬのではないか…。

と、いう恐怖を。

光は、涙をぬぐって、

「さっき夢を見たんだ。お前と旅をする夢を。どうせ行くなら海を越えたい。きっと楽しい。きっと…」

と、頼邑の手をそえながら言った。

「ああ」

頼邑は眼に涙を浮かべ、光の手を握った。

「行こう。お前とならどこへでも行けそうだ」

光がそう言った瞬間、頼邑は手を強く握り直し、

「ひと足先に行く。待っている。早くは来るな。ゆっくりでいい。私はいつでも待っているから」

そう言った後、頼邑は糸が切れたかのように、すっと眼を閉じ、握りしめていた手は光の手から落ちていった。

ゆっくりと落ちていく頼邑の手を見ながら息もできぬほどの恐怖が全身を駆け巡った。次の瞬間、光は落ちそうになった頼邑の手をつかまえ、

「駄目だ! 死なせるものかっ。お前は卑怯だ。私にこんな思いをさせて死ぬのか」

霊力が、ほとんど失いかけていたが、それでも霊力を注ぎ込んだ。

……助ける。 もう一度お前を助けてみせる!

意識が混濁していく中で、光の腕から血飛沫がとんだ。それも、一箇所だけではない。流鮮やか血は光の色白の肌を真っ赤に染めていく。

「もうやめろっ、 そいつはもう駄目だ」

玉藻は、叫んだ。

光の傍らに虚しく転がっていた香炉から煙が立ちこみ始めた。その異変にすぐ、気付いた玉藻が、

「こいつから離れろっ」

切羽詰まった声で言った。

だが、光は動けなかった。頼邑を残して自分だけ離れられなかったのだ。そうしている間にも、煙は真っ直ぐ立ち昇り、渦巻きながら円を開いて拡げた翼のように段々と明るく冴えた秋空に濛々と立ち昇る。

辺りは黒汁のような一面の煙となった。

急に眼の前が真っ暗になり、玉藻の姿も頼邑の姿も見えなくなった。気を失ったのである。

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