第40話 交わることのない闘い
頼邑から荒い呼気が、強くなっていく。ただ、ひたすら走り続けた。
不意に頼邑の手が硬直し、手綱をとめた。
前方の闇の中から野鳥の群から鋭く啼きしきるのに似た声が聞こえてきた。それは、頼邑が不死の森で瀕死の傷を負ったときに耳にした声と同質のものであった。
大多数の者が一斉に換気を上げているようにも聞こえる。その声にまじって、明らかに悲鳴と思える叫び声が長々とつづいた。
頼邑は、ふたたび走り出し、道のゆるく曲がった角を曲がると渓流の左側に建つ城が見えた。
だが、城は建物の半分が崩壊され、周りは瓦礫化している。
頼邑は一瞬、体を固くさせると城の周囲に眼を据えた。だが、霧が濃く、はっきり分からない。 頼邑はその異変を感じ、耳をすますと、それは何か固い物を強い力で、へし折るようなひどく乾いた音であった。
それにつづいて、物を砕く音が聞こえてきた。頼邑の表情がゆがんだ。音はつづいている。それは、明らかに獣が骨を噛み砕いている音であった。
呻き声は聞こえなかった。
人がすでに息の根をたって、熊が死体を意のままに食い続けていることを示していた。
あまりに酷いものだった。
頼邑の脳裏に平八郎から、人喰い熊の話を目の当たりにし、怒りに近い悲しみがわいていた。
頼邑は落ち着いて、しかし素早く矢を番え、熊を狙った。
矢音が遠のいたとき、頼邑は足元の土がゆれるのを感じた。重量感にあふれたものが、突き進んでくるのが感じられた。
それは、頼邑から逃れるように砂埃をまき上げていった。
熊の足音であった。
頼邑は、アオからおり、熊の後を追う。そうすれば、この先に会わねばならない者がいると確信したからである。
ヒィッ、とひきつったような悲鳴を洩らし、這いつくばって逃れようとしている人影が見えた。 刹那、もう一人の手にした刀が一閃したのが分かった。
「やめろっ」
頼邑は、声を上げた。
人影は、驚いたように振り上げた小刀をピタッと止め、こちらを見た。
頼邑は、慎重に前に歩み寄ろうとした。そのときだった。
霧の陰から、ふいに影がとび出した。人影の背後にひかりを反射て青白くひかっている姿があった。
……玉藻!
人影の背後にひかりを反射て青白くひかっている玉藻の姿だった。
玉藻なら、その人影が誰なのかすぐに察知した。
「光……」
頼邑が、そうつぶやいたとき、霧の中から光の顔が、くっきりと現れる。光は小刀をその場に落とすと、頼邑から眼をそらさないでいた。
その瞳は、獣の如く鋭い刀のようだった。
頼邑は、それに応えるかのように眼をそらさなかった。
頼邑が、何か言おうとしたとき、
「言うなっ、何も言うな!」
と、光が少し息を荒立てて言った。
「もう遅い。熊たちがどこへ向かったか分かるか?」
と、玉藻が低い声で言った。
……まさか!
その言葉に頼邑の顔が強張り、すぐに里の方角へ眼を向けた。
すでに熊たちは、里の方へ動き始めてる。光はその足かせだったのだ。
おそらく、治兵衛と男たちは戦いに行って今、里にいるのは女ばかりだと知っていての奇襲だろう。
頼邑の脳裏に、伊助を始め里の者が喰い殺される光景が浮かんだ。
「今すぐ、退け! これ以上、血で血を洗うな」
頼邑のとんだ声に光は、眼を細めて、
「血で洗う? そうしたのはお前たち(人間)ではないかっ」
吐き捨てるような口調で言った。
その言葉に頼邑の胸に一寸の針が刺さった痛みがした。
「お前が、そっち側(人間)に行ったのだろう。なら、それなりの覚悟はあるはずだ」
光がそう言った途端、頼邑は、
「だから、ここへ来た」
と、力のある響きで言った。
一人でここまで来たのは、以前のような関係は戻れなくとも、心のどこかで、光の心に人を想う気持ちを忘れないでほしいと気持ちがあったのだ。
「殺すべきだった……」
光は眉宇を寄せ、苦しげな顔を見せた。
その言葉を聞いて頼邑の小さな期待は無惨にも打ち砕かれていったのがはっきり分かった。
「まだ、間に合う。憎しみで全てを失うことになるぞ」
頼邑は、まるで己に言い聞かせるように光に言った。
光は、ギクッとした。
頭の中が吹っ飛んでしまい、何も聞こえなくなった。かつて憎しみの心を持ったことで、それ以上に失うものがあるということに思い知らさられた。
光には、そうなって欲しくないと気持ちと里を守りたい思いが入り混じった。その思いの眼差しを光にむけようとしたが、頼邑はやめた。
……黙れ。
光が、声を震わせて言ったからだ。
頼邑から、ひそかな一撃を受けたのは確かだった。
『全てを失う』
と、頼邑は言った。
そのようなことは、とうの昔の自分がよく味わっている。人間から捨てられ、人間でも獣でもない、まして神でもない。
だから、力ずくで生きる場所を奪ってきた。気付いたら血を染めていた。
そうさせたのは……。
かすかな記憶の中で、まだ乳飲み子な赤子が冷たい手の中に抱かれ森の奥へと連れていかれるのが見える。
赤子は、人間の顔を見たが、その顔は影に隠れている。赤子は、ひんやりとした石の上に置かれたその後は思い出せない。もう、人間もいない。 微かなに憶えているのは、暖かい青白い毛に包まれていたことだった。
……光。
誰かが、名を呼んでいる。
聞き覚えのある優しくて心地良くしてくれる声だ。
だが、その名は真の名ではないと強く思った。 自分の名は他にあるのだと。けれど、驚いたことに、どんな名なのか思い出せないのだ。
自分は、どこで生まれたのか何一つ思い出せない。まるで狐に包まれたようだった。
最初は微かに、それからはっきりと誰かの言葉は木霊のように何度も頭の中で響き渡る。
……気味が悪い。
……災いの前兆だ
……早く殺してしまえ。
……おぞましい。
……死んでくれて有難い。
思わず、耳をふさぎたくなるほどだった。まるで、散らばった破片が繋ぎ合わさっていくかのように記憶が鮮明になっていく。
記憶の片隅に置き去りにされたものは、二度と戻ってこなかったが、頼邑と出会ってから、ぷつぷつと繋がっていく記憶に気付きながらも、初めて感じた優しさに触れてみようと思った。
でも、そんなものは手の中ですくい上げた水が、こぼれてしまうのと同じで残ったのは虚しさだけだった。
『全て失う』
それだけは、頼邑の口から出してもらいたくなかった。
言いようのない憤懣と憎悪が胸の中に渦巻く。 感情の潮が、なお上がり、
……黙れ。
と口にしていた。
頼邑は、狼狽の表情を浮かべて、
「命を粗末にするな。生き延びろ」
と言った。
だが、その言葉は、ほとんど風に運ばれてしまい、光の耳に届かなかった。
「黙れ」
頼邑を見つめた双眸が底びかりし、全身から痺れるような殺気を放射していた。
「だまれ、黙れっ!」
光が叫んだそのとき、鋭い刃物を当てられたような痛い風が頼邑を襲った。
頬、腕、足から帯のように血が流れた。
「今さら、何も聞きたくない。こう仕向けたのはお前たち(人間)ではないか。私は、死ねと言われたんだ。でも生きてる。それがお前たちには許せないのだろう」
本当は頼邑に、言っても意味がない。自分を優しく受け入れてくれた頼邑には関係のないことだが、沸き起こる怒りを抑えることはできなかった。
張りつめた空気の中で、恐ろしいほど冷たい風が吹く。
頼邑は、その風を受け止め、一歩近付き、
「過ちは消すことはできぬ。だが、私はそなたに生きてほしい」
そう言って、真っ直ぐな瞳を向けた。
頼邑の澄んだ瞳が、どこかで見た気がした錯覚に光は襲われた。だが、それが実にどういう訳か知りたくはない。
それにもかかわらず、まだその瞳を向けているので苛立ちが高まり、怒りに震える唇を血が出そうなほど噛み締め、
「無用な話はここまでだ。私達は行く道は違う。その道にお前は不要だ」
と、唇からしたたれるようにポポタと光の足元に血が地面に染み込んでいく。
光は、視線を逸らし、里の方角へと向けた。その横顔は、異様なひかりを放っている。
「光、行くなっ」
咄嗟に頼邑は言った。
その必死な訴えに応えるかのように、
……頼邑。
と、小声であったが、頼邑は思わず背筋が凍るほど冷たい声だった。
「お前を殺したくはない。だから、このまま何も言わずに去ってほしい」
今までの強い口調とは一変し、穏やかになった。だが、頼邑には心はどこかへ置いてきてしまったような冷たい口調に感じた。
ふたりの間には、長い沈黙が続いた。
「今なら見逃してやる。納得したなら、去れ」
光はもう一度、念を入れた。
頼邑は重い口を開き、
「すまない。私にはできぬ」
やっとの思いで答えた。
責めたい気持ちより、光とは違えてしまった悲しみの方が大きく、胸がいっぱいだった。
そして、光も頼邑が自分の手から離れていくことに心が揺さぶるように動きを起こしていたが、それを顔には出さず、気丈を保った。
「頼邑、お前は命を持って失う覚悟があるか。それなら、お前に残された道はひとつしかない」
瞳に冷たい憎しみの青い生気が燃えていた。
「光!」
玉藻が間に割って、牙を頼邑に向けたとき、
「玉藻、手を出すな。手元がくるうからな」
そう言い、頼邑を見据えた。
そのまま眼を逸らすことなく、死体の鞘から刀を抜くと、その切っ先を地面に引きずるように立った。
「霊力は使わない。互いに同じ武器だ。だから、お前も私を殺せっ」
眼光は射るように鋭く、獣のような凄みと狜々しさで、ゆっくりと上段に構えた。
大樹のような構えである。
気勢がみなぎり、一撃必殺の気魄があった。
……上段!
上段は、相手より高い自分には有利だが、構えることによって隙ができる。それに、光は頼邑より小体なのにどういうわけが上段で挑んできた。 だが、隙のない綺麗な構えである。
頼邑の全身に気魄がみなぎり、鋭い剣気を放射していた。頼邑は光の構えに押しつぶされるような威圧を感じた。
頼邑は、ピタリと切っ先を敵の喉元につけたまま動きを止めていた。気を集中させ、その威圧に耐えていたのである。
すぐに光は趾を擦るようにしてジリジリと間合を狭めてきた。
一足一刀の間境まで身を寄せると、光は斬撃の気配を見せ、グッと上体を前にかがめた。上段から斬り下ろすと見せた誘いだった。その動きに誘発され、頼邑が斬り込む瞬間をとらえようとしているのである。
だが、頼邑は仕掛けず、逆に動いた。スッ、と刀身を落として、半歩身を引いたのである。
光は身軽に宙返りすると、霧の中へ姿をくらました。頼邑は、霧で視界を失い、辺りを眼だけで見渡す。
遠方に、人影が見え、金色の瞳が鋭利で容赦のない視線が現れた。
刹那、光の全身に鋭い剣気が疾った。
……疾い!
あれだけの距離を疾風の如く敏速に間合をつめてきたのである。
電光のような光の斬撃が、頼邑の頭上へ。それを頼邑の刀身が下から撥ね上げる。
キーン、という金属音がひびき、青火が散った。
「死ね」
光がつぶやいた。
「そなたを殺したくない!」
頼邑が必死に伝えたが、
「私もだ。でも、人間のお前なら殺せる」
そう言うと、光の切っ先が頼邑の右手に伸び、頼邑の切っ先は光の肩先をとらえた。
両者は交差し、間合をとると、反転して切っ先を向け合った。頼邑の右手から血が流れ、光の貫頭衣が裂けて血がにじんでいる。
ふたりとも深手ではなかった。浅く皮肉を裂かれただけである。だが、光の傷口はふさがっていった。
頼邑は、光の刀身を薙ぎ払おうと振りかざしたが、光はバク転し、よけた。
……身軽さは、あちらの方が上だ。ならば!
頼邑は、そのまま左手に走り、竹林の中へ跳躍した。
「待てっ! 逃げる気か。私と戦え!」
獲物を追うように、その後に続いた。
光に応えるように、ピタッと足を止め頼邑は対峙し、互いは睨みをきかせた。竹林の中は、笹の葉がゆれ動く音が人のうなり声みたいに響き渡る。
「ああ、ここで終いにしよう」
頼邑は、つかみかかるように駆け寄ってきた。 反射的に光は、後ずさりしたとき、体の重心が崩れるような感覚に襲われた。
周囲を確認すると、竹でびっしりと覆われた場所では、狭くて、逃げ場もなし、そして疾さも身軽さも閉じ込められることに気付いた。
次の瞬間、頼邑の体が大きくなり、その体に覆い被されていく。頼邑の顔が陰で暗くなり、見えなくなったが、眼だけが、はっきりと見えた。
頼邑の手が、目の前に迫ってくるのが分かった。少しでも逃れようと、後退りし刀を頼邑の手首に突きつけた。
ビィィ、と着物が裂ける音がした。
赤い帯のような血が散った一瞬、頼邑は、重心が崩れ落ちる光を掴みかかり、刀身を薙ぎ払った。
刹那、頼邑の切っ先が槍の穂先のように前にのびた。一瞬のことだった。
他の音を破り切るほどの音が起きた。ハラハラと落ちる葉が、後の静けさを残していく。
頼邑は、馬乗りにで光の皮肉を避け、貫頭衣だけを突き刺し、左足すねで光の左手を押さえた。「光、ここで引け! ここまでだ」
頼邑は強い口調で言った。
息が少し弾み、わずかだが、両肩も波打っている。
光は、吐き捨てるような笑いをし、
「馬鹿が……。これで終いのつもりか?」
と、喉をつまらせ、右手で頼邑の手首に爪を突き立てた。
ほんのわずかに頼邑の手が振動のように動いた刹那、右前腕から刃物が現れ、頼邑の額から赤い糸のように血がとんだ。
右前腕に隠し武器を仕込んでいたのだ。光は瞬時に脇に跳んで、ふたたび構えた。
周囲が開けたように周りの竹が割れた。そして、頼邑に迫り来るように、間合をつめてきたので頼邑は、白光が半弧を描いて前にのびた。
刀身が、陽の光を反射したのである。刹那、光の体が躍動し、身軽に頼邑の頭上を飛び越えた。 頼邑の体も躍動し、下段から逆袈裟に斬りあげた。一瞬の反応である。
瞬間、シャッ!と刀身が擦れるような音がひびき、青火が逆袈裟には疾った。光は右腕に焼き鏝をあてられたような衝撃を感じ、反射的に後ろへ跳んだ。
右の二の腕が斬られ、貫頭衣が裂け、血がほとばしり出ていた。頼邑の太刀筋が迅く、光の眼にも見えなかったのである。
それより、もっと信じ難いことが起きた。傷の回復ができなかった。
光は、刀を左手に持ち替え、後退った。
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