第36話 追い込まれる


城では、香炉にいくら火を点けようとしても焚くことができないでいた。しだいに大殿の表情に苛立ちが見えてくる。

家来に女中にも、やらせてみたが点くことはない。大殿は、人払いをし、何度も火を点けようとしていた。

その頃、城門の見張りは交代で来た仲間から茶碗酒の差し入れを飲んでいた。微風に木の葉が、サワサワとやわらかな音を立てているだけで、人声や物音は聞こえなかった。

いつもと変わらず、ゆっくりと時が過ぎていく。見張りの一人が空を見上げたとき、不意に大きな静寂を破った。板壁の破れる音がすると同時に建物が跳ね上がるように激しく揺れた。

見張りは、身構えた。彼らには音と振動の意味が理解できなかった。城内から叫び声が起こり、巨大な生物の呼吸音が入り混じって聞こえてくる。

見張りは、呼吸音は熊だと直感した。熊は群れを率いれ、城内へと突進していく。射手たちは、一斉に引金をひいても、熊は次から次へと押し寄せてきた。

巨大な熊は、不死の森から躊躇なく川を渡り、たちまち城に襲いかかった。いま、ここにいるのはわずかな兵士かおらず、里での戦に出ていた。残された者は、ただ死に物狂いで、その場を死守しかなかった。

「踏ん張れっ、ここを破られたら最後だぞ」

城を落とされる前に何としてでも攻め立て、打ち取るしかない。ついに、大筒で熊を撃ち殺していった。城は、熊の死骸が山のように埋めつくされていったが、それ以上に熊が押し寄せいった。



城で乱闘しているとき、治兵衛は手綱をひいて馬の頭をめぐらすと、森道を進み始め、その後から六個の集団がつづいた。

治兵衛と仲間の乗る馬は、長毛におおわれた太い脚を力強く踏んで、砂を蹴散らしながら進んでいく。白い息を吐きながら上流方向にたどった。風はなく、渓流の両側に迫る樹林も山肌も霧におおわれ、静まりかえっていた。彼らは、小休止もせず、道を進み、半刻後には不死の森と城の境界にある場所に近寄った。

「あそこなら、覡と共に城も落とせましょう」

治兵衛の側近が足を早めて馬に追いつき、言った。

治兵衛は無言でうなずき、側近の案内で道をそれると馬から降りた。そのとき、最後尾の班から一人の男が走ってくると、下流方向から誰かがやって来ると報告した。

治兵衛は振り返り、いま来た道に眼を向けた。だが、そこには何も見えない。声を発する者はいなかった。側近の鉄砲をとると、膝射の姿勢をとっていた。

「馬か」

治兵衛が沈黙に堪えきれぬように言った。

「そのようだと思うのですが…」

側近の男が答え、そばの若い男もうなずいたが、彼らの顔には自信のなさそうな表情が浮かんでいた。

長い沈黙がつづいた。太陽が雲間に隠れ、対岸の闇が濃くなった。ふと、彼らの耳にかすかな音が聞こえた。それは、城につづく道の辺りから起こったもので枯れた枝の折れるような音であった。

治兵衛は他の男たちと共に、その方向に眼を向けた。ふたたび、音が起こった。それは明らかに小枝を踏む音で木のきしむ音がつづいて聞こえた。

治兵衛が突然、身を起こすと、

「覡か!」

と叫んだ。

静寂の中でふたたび、木のきしむ音がした。

治兵衛はふたたび、誰何したが返事はない。

「射て!」

治兵衛の口から叫び声が起こった。

射手から、鋭い発射音が噴き出した。それにつづいて銃撃音が周囲に満ちた。弾丸が次々に装填され、発射される。

静寂は破れ、硝煙がむせかえるように流れた。その中で治兵衛は膝立ての姿勢で連射をつづけ、他の男の銃口からも発射音が起こった。

黒いものが早い速度で走るのが見えた。それは荒々しく、まきあがる砂でまたたく間に樹木の密生する山の傾斜に消えた。銃声は、それを追うようにつづいたが、やがて絶えた。

彼らは、砂煙に包まれていたものが、驚くほどの速さで走り去ったことをうわずった声で口にし合った。見たこともない者たちは、幻影ではない熊の姿を初めて眼にしたのだ。 彼らの興奮は容易にはしずまらなかった。

熊の体が予想以上に大きく見えたことを口にする者もいれば、その地響きで樹林の土砂が落ちるのを見たという者もいた。

「静かにしろ」

治兵衛が、血走った眼をひからせた。

「用意した物を早く出せ。鉄砲がだめでも覡とてこれを喰らえば手も出せまい」

男たちが用意していた別の弾丸を取り出した。 男たちが手にしているのは、殺生石である。殺生石を弾丸にして作ったのだ。

「鳥、獣がこれに近付けば、その命を奪う殺生の石」

治兵衛は、口元をにやつかせて言った。

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