第27話 里へ

「頼邑さまっ」

井戸端の近くで風にあたっていた男が、頼邑の姿を見かけて声を上げた。死んだと思っていた頼邑が帰ってきたことに驚きを隠せなかった。

そして、頼邑のそばに駆け寄ると、そばについて歩きながら、皆っ、頼邑さまが帰ってきた!頼邑さまはご無事だぞ、と里中に聞こえるほどの声でまくしたてた。

家々のあちこちで、バタバタと雨戸や障子が開き、女や男の顔が覗き、すぐに飛び出してきた。伊助は頼邑の部屋の腰高障子をあけた。

そのとき、お静が、

「頼邑さまァ!ご無事だったの」

と叫び声を上げながら、走り寄った。

「皆に心配かけてしまった。私はこの通り何もない」

頼邑は上がり框につづく、板敷の間に立った。

お静は、急いで流し場に行き、水を汲んで戻ってきた。そこへ、里の連中が、ぞろぞろと集まってきた。年寄りや子供までが集まり、戸口のまわりに人垣を作った。

「何もないじゃないでしよ。皆、心配していたんだ。本当にもうやだよ」

お静が、顔をゆがめて泣き出しそうな顔をした。

「私のせいで騒がせてしまった。皆も本当にすまない。でも、わたしはこの通りなので引き取ってくれ」

頼邑が、そう言うと里の連中も安心したらしく、戸口の人垣が割れ、つづいて 土間にいた連中もうなずき合ったり、何か小声でささやき合ったりしながら出て行った。

後に残ったのは、伊助と平八郎だった。

頼邑が水を一口飲むと、

「頼邑さま、本当は何があったんでぇ?」

伊助が、声をあらためて訊いた。

「ふたりには話そう」

頼邑は、毒気にあたり、意識が薄れる中で熊に襲われ、瀕死の状態になったことなどを話した。

「それを光…、いや、覡に救われた」

「か、覡に!」

平八郎の顔が紙のように蒼ざめ、肩先が震えだした。

伊助も、ハッとしたように眼を剥いた。

頼邑は、覡に助けられたこと、人間を憎むわけをかいつまんで話した。

黙って聞いていた平八郎は、

「け、けどよ、おれ達にも殺された里の者を思うと許せねぇ。たとえ頼邑さまの命を救った奴でも」

と、喉をつまらせながら言った。

「おれも同じだ。もうじき、大殿と戦にもなる。戦を仕掛けるには、長老は、香炉を手に入れるつもりだ」

伊助が言うと、平八郎もうなずいた。

「ああ、奴らも、狙っている。そして、それは覡が持っているんだ」

「こうなったら、何が何でも手に入れる」

と、伊助が意気込んで言った。

「待て、それでは我らどころが覡と剣を交えることになるぞ」

それまで黙っていた頼邑が口を挟んだ。眉間に縦縞が寄っている。その顔に、2人の視線が集まった。

「覡を侮るな。太刀打ちできる相手ではない」

頼邑の顔がさらに引き締まった。

「うむ……」

確かにそうだ。神子の力を持つ覡と争えば、どれだけの犠牲がでるか想像がつかない。まして、大殿と地侍の戦になろうとしているのだ。得体の知れぬ力に太刀打ちしようとしていることが容易ではない。

伊助に揺らぐ心ができたとき、

「おれは、仇を取りてぇ」

と、伊助の心を挟むように言った。

「仇とは何だ?」

頼邑の鋭い問いにふたりは逡巡しながらも、覡と大殿だと答えた。

そして、平八郎は人喰い熊のことを語り出してきたのだ。

「冬に熊に喰い殺されたことは痛みは今でも忘れねぇ。頼邑さまには、少し話したが詳しく話しやす」

倅の両親は、平八郎の古い友であった。実は倅と両親は血は繋がっていない。里でも大変仲の良いおしどり夫婦で評判だった。ひとり息子がいて、両親は可愛がって、目に余るくらいの親ばかだったという。

ところが、ひとり息子が三つのときに病死であっけなく逝ったのだ。

ひとり息子に死なれた母親は腑抜けのようになってしまい、食事もまともに摂らなかったため、日に日に体力が衰えていった。

このままでは、母親まで後を追うように死んでしまうのではないかと途方に暮れているとき、平八郎からふたりの倅と同じ年頃の男の子が両親を病で亡くし、身寄りがないので困っている話を聞き、死んだ息子の生まれ代わりに違いないと思い、男の子を引き取って育てることにしたのだという。

「ふたりは、実の子以上に可愛がって育てていた。これで、もう安心だと思っていたのに倅は熊に撲殺され、母親は喰われちまった。そして、父親も……」

平八郎は涙ながら言いつのった。

家に妻と子を残し父親は仕事に出かけて一人だけ助かったのだ。父親は泣き崩れながらも熊が人を喰ったということを里に伝え、厳重に警戒するように呼びかけたという。

隣家の男同士がふたりずつ組んで、老人、女、子供だけで留守している家族を気遣いをした。 鉞や鍬が熊に対抗する道具としてほとんど無であることに気づいていた。

家の中では、身を守る唯一の手段はな熊の接近を防ぐことだけで、それを可能とするのは、金属製の容器を叩くことと火を熾すことだけであった。

里では、馬や犬が火を極度に恐れることを考えて、炎が熊の来襲を防止してくれるにちがいないと信じた。もしも熊が姿をあらわしても、燃えさかる薪を次々に投げつければ炎のまばゆい輝きと火熱に辟易して引き返してゆくにちがいないと思った。

そして長い夜が明け、朝の朝光が雪におおわれた里にあふれていた。

平八郎と他の男たちは、約束の集合場所に集い、互いの顔を見て安堵したという。しかし、肝心の父親の姿がなかった。そればかりか、一緒に避難した他の家族もいない。

急いで、その父親が一夜過ごした家に向かうと、そこはまさにこの世の地獄だった。

血が床に流れ、柱や天井にも飛び散っていた。平八郎は、床と土間に肉と骨の残骸をみた。遺体に、左大腿部から臀部にかけて肉がえぐりとられ、その一部には白い骨が露出していた。

生々しい肉片が床に散らばるように落ちていたのだ。その中にあの父親の頭だけが転がっていた。

俵のかげに無傷の男児がうずくまっていた。眼を閉じていたが、死んだのではなく、失神していた。十一人の中で、たったひとりの生存者だ。

家屋に熊が侵入してきたとき、男児は土間やな二段積みにされた雑穀俵のかげにひそんで奇跡的にも難を逃れたが、彼は熊の荒々しい呼吸音にまじって噛み砕く音を聞いたという。

それは、何か固い物を強い力でへし折るようなひどく乾いた音であった。それにつづいて、物を細かく砕く音が聞こえてきた。それは、明らかに熊が骨を噛み砕いている音であった。

彼の耳に、

「腹、破らんでくれ。頭から喰ってくれ」

と、熊に懇願するような叫び声が聞こえた。

それは、臨月を迎えた母親が発した声だったという。彼女は、熊に喰われながらも母性本能で胎児の生命を守ろうとしたのだろう。しかし、その願いは虚しく熊は容赦なくはらわたを引き裂き、胎児は外へ引きずりおろされた。

「神も仏もねぇ。奴らは鬼だ」

平八郎が吐き捨てるように言った。

その気持ちは伊助も同じだった。伊助の胸に熱いものがつき上げてきた。

決して奴らを許すものかと強く決意し、今日までを過ごしてきた。

しばらく、伊助は身を揉むように体を震わせら赤くなった眼で虚空を睨み、

「おれたちはここで平穏に暮らしていきたいだけなんだ。 それをなぜ邪魔されなきゃならねんだ」

と、声をつまらせながら言った。

頼邑は、しばらく黙っていたが、

「そなたたちの苦しみは分かる。私も同じだった。だが、その苦しみを憎しみに変えるな。そうしたもので手にした仇など仮初めにすぎない」

頼邑は、確かな眼でふたりを射るように見つめて言った。

平八郎は、頼邑が自分を救ってくれたことを思えば、負い目はあったが、それでも考えを変えることはしたくなかった。

「しょせん、頼邑さまは、余所者だ。おれたちの痛みなんて分からねぇよ」

平八郎は、思わず口から出てしまった。

「よせ、やめねぇか」

伊助は、叱咤した。

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