第26話 決別

ひんやりとした大気が流れていた。

秋冷の風である。

伊助と平八郎は、血の気を失った顔で森の中を急いでいた。朝陽がふたりの体を包み始める。木々が生い茂った場所に辺り一面苔が生えている場所に空から太陽の日差し降り注ぎ、神秘的な雰囲気が溢れている。

森の入り口から歩いてから四時間が経過していた。

伊助と平八郎は顔を青ざめさせて立ちつくんでいた。実は、一時間ほど前、山の傾斜を降りていったその後方に地響きに似た熊の足音と荒い呼吸音が迫り、ふたりは転倒しながら駆け下った。ふたりの叫び声は止むことはなく、樹幹の間を抜けて道の土に出た。

すると、熊は何を思ったのか、その後を追いかけることはなく、くるりと背を向け、森の中へと消えていった。茶色いものは、顔も岩石のように大きく、胴体も脚も驚くほど太く逞しかった。

剛毛は風をはらんだように逆立ち、それが地響きと共に傾斜を降下さしてきた。その力感にみちた体に比して、ふたりの肉体が余りにも貧弱であると強く意識した。

伊助は覚束ない足取りで歩き出すと、平八郎もそれにならった。ふたりの足は自然に森の奥へと奥へと向かった。

その頃、頼邑は光の帰りを待つように岩の上に腰をかけていた。

ふと、頼邑の耳にかすかな音が聞こえた。それは森の奥から枯れた枝の折れるような音である。 頼邑は、光が戻ってきたと思ったが、すぐに違うものだと分かった。音が聞こえる方向に目を向けた。ふたたび、音が起こった。それはあきらかに小枝をふむ音で、木のきしむ音もつづいていた。

頼邑が耳を傾けているとき、その音を立てながら歩いている伊助と平八郎が眼をこらして岩を見ていた。

ふたりは、その岩に何か黒いものがふくれ上がるのを見た。

平八郎が、身を低くし、

「覡か、熊か」

と言った。

静寂の中で、再び木のきしむ音がした。

伊助は、

「しっ、静かにしねぇか」

と叱咤するように、さらに身を縮みこさせた。 睨むようにうごめく影を見ると伊助の顔が一変した。なんと、その影は捜していた頼邑だったのだ。

ふたりは、大慌てで走り寄り、途中にある枝をふみ荒らしていく。

「頼邑さまーー」

と言う自分の名を呼ぶのが聞こえた。

「頼邑さまっ」

樹幹の間を通って、また声がした。

頼邑は、何度も転びそうになっている 人影が近付いていくのを捉えた。そして、頼邑もその人影に近付いた。すぐにふたりだと気付いたからだ。

「良かった……。無事でやったんですね」

近寄った伊助が、甲高い声をかけてきた。

「ふたりとも、なぜここに」

頼邑はあれから、ふたりが森をさまよっていたのではないかとよぎった。

だが、ふたりから無事に里へ着いたこと、そして自分を探していたことを聞かされると安堵したような顔になった。

「もう駄目かと思ったけど本当に良かった……」

平八郎は肩の力が抜け落ち、体が地面なか溶けそうな感覚になった。

「ともかく、無事で良かった」

伊助が言った。

「すまぬ。心配をかけてしまった」

頼邑が少し笑みをして言った。

その表情にふたりは安心したらしく、うなずき合った。

「さぁ、帰りやしょう。皆、頼邑さまの帰りを待っていやす」

伊助の言葉に頼邑の顔が、一瞬固くなったようなきがしたので、ふたりには、それが不思議に見えた。

「どうしたんでぇすか」

と、疑っと頼邑の目を見つめた。

「いや、その」

頼邑は躊躇して、辺りを見渡すと周辺を歩き出した。

光は、頼邑の刀を持って足早に茂みを分けていた。頼邑の姿が見えたので声をかけようとしたとき、素早く幹に身を隠した。光の視線の先には人間がいた。人間を見る、その顔は別人のように強張り、眼には鋭い光が浮かんでいた。

ふたりの人間は、頼邑を心配そうにしていることが分かった。どうやら、迎えに来たのだと理解した。光は、疑っと見ていたが、やがて手に持っていた刀を木の根に突き立てた。くるりと背を向け、玉藻の方へと消えていった。

まるで、その後を追いかけるかのように頼邑がやって来る。そこで、見たのは、なくした刀だった。

それを見た頼邑は、ハッとしたように顔を上げた。

……見ていたのか。

と、頼邑は察知した。

後ろから、伊助たちが駆け寄ってきた。頼邑のそばまで来ると、頼邑さまァ、と言い切り、次の言葉がでない。

森の奥を真っ直ぐと見つめた眼には何か決意したような強いひかりが宿っていたからだ。

でも、すぐにこちらを見て、

「もう大丈夫だ。すまない。帰ろう」

と、背を向け歩き出した。

頼邑の背の先には、光も背を向けて歩いていた。

玉藻は、渡したのか? と訊くと光の顔が険しくなった。

何かを思いつめたような眼をして真っ直ぐと森の闇を見つめながら、

「つまらぬ情にとらわれすぎた……」

と、言ったあとに、

「皆を呼べ」

と、強い口調で言った。

光は眦を決意したような顔をして言った。

ふたりの背には、互いにつながっていた糸が切れ、もう結び直すことはできなかった。

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