第25話 開き始めた心
早朝、頼邑は光に連れられ歩いていると白い霧に覆われた不死の森は、まだ白乳色の霧の中である。
光と一緒に暗がり木々を抜けると、そこは深緑をした木々があり、辺りは苔むすがびっしりと生えていた。
透き通る大きな布が空から地上へひらひら伸びてくるというような日差しが神秘的である。
暗い風景に、ようやく淡い色が差し、樹林の陰から鮮やかな緑をした葉が姿を見せ、森に朝がやってきた。
水面には、芽吹きにはまだ早い木々と空と雲が映り出され、水中の藻が早い流れに揺れている。 柔らかな風が頼邑の背をおした。
振り返ると、光は手の平を口に近付け、そっと息を吹いた。手の平から紙吹雪が、ひらひらと舞い散っていく。すると、まばたきを忘れるほど芽があっという間に成長していく。
新緑が風にあおられ、まるで頼邑は森に包まれている気分だった。
「美しい……」
頼邑は、思わずこぼした。
光は、根太い木に登ると、何も言わずに手を差しのべてきた。
頼邑は、そっと笑った。しっかりと光の手を握ると、体がふわっと宙に浮いた感覚がしたと思ったら、あっ、という光の声がし、もつれたような足音と共に地面に尻餅をつくような音が響いた。
ふたりの頭上から、ハラハラと葉が落ちた。一瞬、顔をこわばらせたが、尻餅をつくのは痛いんだな、と光が言ったので、ふっと息を吐くような笑をしたので光も笑い、ふたりは声を上げて笑った。
「乗れ!」
頼邑は、玉藻を見て躊躇していると、
「平気、乗れって」
と言って、光の手が真っ直ぐにのびて、グイッと引っぱかられた。頼邑は引き寄せられ、そっと光の背中にぶつかった。
青白い毛は風に揺れ、とても柔らかな触り心地だった。
玉藻は、風をきって舞い上がった。木々の間をよけながら、高く高くとんでいく。
玉藻は、森に映された緑色の水面をすべるように進んでいく。森に奥に進むにつれ、岩や木が一面に苔に覆われ、霧がたかっているのが見えくる。
苔から伸びる胞子体にたまった雨の雫が生命を感じさせる。生い茂った森は陽のひかりが届かず、薄暗い。
ひんやりとした空間で、木の幹が濡れると木々の葉や苔の青さが引き立っている。
頼邑が、その景色に見入っていると辺りの小さな芽が力強く伸び始めた。光が、手をかざすと命を吹きこまれた芽は、森とひとつになっていった。
すると、小鳥が挨拶をするかのように光の周りにとんできた。光は微笑み、水面から雫を出すと、小鳥たちは遊び始めた。
その様子を見送るかのように後にした。
小川が見えたのでふたりは降り立ち、頼邑は靴を脱いで、足を流れの中に入れた。
水の冷たさが心地良かった。
両足を水に浸したまま川緑に座った。光も座った。
瞼を閉じると小鳥のさえずりが聞こえてくる。小鳥がこんなにも美しく鳴くものかと初めて気がついた。
小鳥が食する木の実。木の実が好む土や水。土を好む虫たちや水を好む生命がここにあるのだろうと思った。
その命を消してしまっているのは人間だと考えるとたまらなく切ない気持ちになった。
眼に入るすべてのものが愛おしかった。何もかもが美しいと思った。道端の草さえも限りなく美しいと思った。
しゃがんで見ると、雑草が小さな白い花を咲かせているのが見える。小指の先よりも小さい花だった。
美しい、と心から思えた。
その花は生まれて初めて見る花だったが、どこか懐かしい感じをさせた。
やがて、光が口を開いた。
「あのとき、お前のこと殺そうとした」
頼邑は黙って光を見た。
「ここに来るとき、川を渡る前に初めて 頼邑を見たときだ」
その言葉に頼邑は、月霧の里に入る前に川を渡る前に何かの気配を感じたことを思い出した。
……あの、気配は光だったのか。
上空に月が出ていたが、風で流された雲がときどき覆い、辺りを濃い闇でつつんだ。
風が吹き、笹籔や雑草が、ザワザワと揺れ始める。
「光、里の人間が憎いか」
ふと、頼邑は訊いた。
光は黙ってうなずいた。
頼邑は、里での温かい人との繋がりや、本当に良い人ばかりだと話をしてみた。
「里の人間に肩を持つのか」
光の問いに頼邑は、
「私には、守らねばならないものがある」
と夜陰を見つめた目はひかりをおびていた。
そして、
「生きて戻ることが務めだ」
頼邑は遠くを眺めるような眼をしていた。
しばしの時、ふたりは沈黙があった。遠くで獣の声が聞こえた。その獣は、光に何かを伝えているような気がした。
光は、人間側ではない。獣なのか巫女か妖か、今も分からない。
だが、ひとつだけ分かるのは、人間の頼邑と光が親しく話をしていることが、里の人間が知ったら想像できないことだろう。
だが、目の前にいるのは心優しい少女と敵対していることが胸が締め付けられる思いがした。
「私を憎くないのか」
頼邑が訊いた。
憎む人間を心を許して共にいることに、光はどのような気持ちなのか確かめたい気持ちがあったのだ。
「なぜ、お前を憎まねばならない」
光は、困惑したように眉宇を寄せた。
頼邑は光を見つめたまま、何も言わなかった。 なぜ、急にそんなことを訊くのか皆目変わらなかった。
頼邑は、しばらく口を詰むんでいたが、
「そうか、 憎くはないか……。 なら、私と光が共にできたことを里の者とも共に歩むことはできないのか」
その言葉は、ひとつひとつが重くのしかかるようなものだった。
「それはできない」
光は、さらりと言った。
「お前は、他の人間とは違う。だから、助けた。それを他の人間とはできない」
そう言って、光は小石を手にとり、川へ投げた。
頼邑は相槌を打つことができず、光の当惑する顔を見て頼邑は少し悲しそうな笑顔を浮かべた。 そして、やや間を置いて言った。
「私は彼らと同じだ。醜い感情を抱くこともある」
「そんなことない」
「人間とは、そういうものだ。だからこそ、喜びや尊さがある」
頼邑が光を直視しながら、力のあるひびきの声で言った。
「それ以上、何も言うな。私に光という名をくれたお前がそんなこと言うな」
光は目をつり上げ、悲壮な顔で言った。
光にとって、頼邑は初めて心を許した人間であり、名をくれたとれた特別な存在になっていた。 どこか、心の中で頼邑はずっとここにいるかもしれないと思っていたのだ。
その期待は虚しくもなくなった。頼邑と共にいると和らいだ喜びが沸いてくる感情は消え、困惑と失望の色があった。 頼邑は何とも言えばいいのか分からなかった。
ようやくのことで、
「光……」
と、言うのが精一杯であった。
光はうなずいたような気がしたが、暗くてはっきりと見えない。
ふたりは黙っていた。
長い沈黙があった後、ようやく光は口を開いた。
「刀……」
「え?」
「お前の刀、なくしたって言っただろ。明日、探そう」
光の言葉に頼邑は黙ってうなずいた。
ふたりは、西日の空が暗くなるまで、その場に何をするわけでもなくただいた。
上を見上げると、星が一寸のひかりを放っているのが見える。そのとき、星が動いたように見えたので、よく眼をこらしてみると、闇に飛び交う蛍がふたりの周りに集まってきた。
秋に見られる遅れ蛍だ。
飛ぶ光跡が、ふたりに近付きながら上へ上がっていった。
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