第24話 伊助と平八郎
「それがあれば、大殿の力を崩すことができるのですか」
そう言ったのは、肌の浅黒い剽悍そうな若者である。
里で、研師の洋次という。
治丘衛にいつもくっついている。
洋次は刀槍を研ぐ名のある研屋に弟子入り修行していたのだが、師匠と喧嘩をして飛び出してきた。
今は、町家などをまわり、包丁、鋏、のこぎりの目立ちなどをして暮らしていた。二十三歳になるが、まだ独り者である。お世辞にも、端整な若者とは言えなかった。
「そうだ。その香炉をこちらが手にすれば大殿、いや小国からの制圧からも逃れることができるだろう」
治丘衛の眼は、ひかりを放っているように見えた。
月霧の里にある酒楽という飲み屋があった。細い路地にある縄暖簾を出した小体な店である。
主の名は、末吉。
五十半ばの小柄な男でお峰という通い婆さんとふたりだけでやっていた。肴は煮しめがあればいい方で、漬物くらいしかない日もあった。
それでも、酒は好きなだけ飲めるし、何より安価なのがいい。
伊助たちは、この店を贔屓にしていた。もっとも、ふたりが銭の心配をせずに飲める店は、近隣に酒楽ぐらいしかなかったのである。
伊助は、ひとりで飯台の空樽に腰を落として、チビチビとやっていた。
呼び出した平八郎が、まだ姿を見せていなかった。本人が来る前に、できあがってしまうわけにはいかなかったのである。
「平八郎のやつ、呼び出しときやがって待たせるとは」
伊助が舌打ちした。
それから小半刻(三十分)ほどして、やっと平八郎が姿を見せた。
「すまねぇ、遅れちまった。 ……お静がよ、中風には酒がよくねぇって言って引きとめやがってもんで、なかなか出られなかったのよ」
平八郎は照れたように笑った。
「なんでぇ、お静にとめられんだ。夫婦でもねぇってのに」
伊助が言った。
「お静の余計な世話好きだろ。へっへへ……。それじゃァ、飲むか」
平八郎はだらしないほど相好をくずし、杯を差し出し、目を細めてうまそうに飲み干した。
そのとき、板場の方から末吉が出てきた。相変わらず、むっつりしている口数の少ない男で、世辞などは口にせず、めったに表情を変えなかった。
「そろいなすったか。ごぼうの煮しめだよ」
末吉は無愛想な声でそう言って、ふたりの前に小鉢を置いた。なかに、たっぷりごぼうと油揚げの煮しめが入っていた。
それだけ言うと、末吉は注文も訊かずに、奥へ引っ込んでしまった。他に客はなく、勝手にやってくれ、ということらしい。
しばらく、酒を汲みかわし、ふたりの顔が赤らんできたところで、
「ところで、明日のことなんだが」
と、伊助が切り出した。
「分かってるよ、頼邑さまのことだろう。明日出よう」
平八郎は、杯を手にしたまま伊助の方に顔をむけた。
「ああ、それと長老が例の香炉を探していることは知っているか」
「いや、初耳だな」
「呼んだのはそのことだ」
「なに、まさか、それもおれたちに探せっていう話なんじゃねぇだろうな」
伊助の驚く口調に平八郎は軽くうなずいた。
「そいつは駄目だよ。頼邑さまだから不死の森に行くけど、香炉のために命をおとしたくはねぇ」
「何を言ってる。どうせ、不死の森に入るんだ。それに香炉を見つけることができたから大殿の制圧からも逃れることができるんだぞ」
平八郎がそう言うと、伊助が身を乗り出し、
「おまえ、不死の森に香炉があるっていう前提な言い方をしているが、必ずそこにあるのか」
と、冷めたような口調で言った。
「……。あるんじゃねぇか」
平八郎が口元をゆるめ、目を泳がせている。
「そう言わずに。手柄を立てれば俺たちは、こうやって安い酒を飲まずにすむ。いや、大殿より良い暮らしができるかもしれねぇ。おれには、お前が頼りなんだ。力を貸してくれよ」
平八郎が銚子を差しだしながら言いつのると、
「欲には分からねぇが、それじゃァやってみるかな」
と、初めからその気だったが、一応遠慮してみせたのである。
「頼むぞ。よし、今夜は前祝いだ。おおいに飲み明かそうじゃねぇか」
平八郎は板場に声をかけて末吉に酒の追加を頼んだ。
その夜、伊助が家に戻ったのは四ッ(午後十時)過ぎだった。腰高障子をあけたまま出たので、上がり框のあたりまで月光が差し込んでいたが、中は濃い闇につつまれていた。
伊助は流しのそばの水甕の水を柄杓で汲んで飲むと、そのままの格好で座敷に横になった。
……平八郎には、ああ言ったが、先に何としてでも、頼邑さまを見つけねば。
自分を二度も助けてくれたのに逃げて帰ってしまったことをひどく後悔の念が伊助を苦しめていたのだった。
……頼邑さま。 今頃どこで何をしているのだろうか。
伊助は、そっと静かに思った。
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