第21話 消えぬ心の闇
少女は、
『死んでくれてありがたい』
という言葉を思い出していた。
記憶の闇の中にその言葉がはっきりと聞こえてくる。騒然とした蠢くような黒い人影が、その声の主なのだろうか。それは分からない。
少女の脳裏に稲妻のようなひかりが疾り、ふいに記憶の闇が晴れた。
いつの間にか遠ざかっていた月明かりが膝先まで伸びている。ここにいてから、だいぶときが過ぎたらしい。
夜は深々と更けていき、闇と静寂が少女の身をおしつつんでいる。ふと、少女は看病をした男を思い浮かんだ。
……まだ、あの人間は起きれないのか。
と、つい口に洩らした。
「いや、もう大丈夫だ」
突然、横から声がしたので少女は、ギョッとしたように身をかたくして振り返ったが、頼邑であることに気付くと、ほっとしたように、もう平気なのか、と訊いた。
「そなたのおかげだ。ありがとう」
そう言った頼邑の顔は生気を取り戻していた。
「そうか」
そう言って少女は笑みをした。
頼邑は初めて少女の優しい笑みを見たのである。
「そなたが覡なのか」
頼邑の心にずっと気になっていたので、そのことを確かめようと言った。
一瞬にして少女の表情が一変した。
「その名を呼ぶな。汚らわしき人間につけた名などいらぬ」
と、強い口調で言った。
わすがばかり、憎悪がまじっている。
「では、そなたの名は?」
頼邑は、そう質すと、少女の顔が困惑したようにゆがんた。
「私に名はない」
と、答えた。
…………!
頼邑は我が耳を疑った。
名がないという。嘘を言っているとは思えなかった。頼邑は、皆から何と呼ばれているか訊いた。
「ない」
少女の声に苛立った響きが加わった。
頼邑の執拗な問いに辟易したようだ。
これ以上、訊くことは、あまり良くないと思い、別の話をした。というのも、少女の方から頼邑の生まれや、旅の訳などを聞いてきたからだ。
旅の訳には関心はもたず、アオには興味があるらしく、その話をしているとき、いつの間に少女の顔は穏やかになっていた。
足元の短い影が頼邑をついてくる。少女と話を終えたあと、少し風にあたると言って辺りを歩いていた。
前方に老樹があり、その根本に影があった。
樹陰で闇が濃いためはっきりしなかったが、人ではないのはたしかである。
頼邑が近づくと、その影が前へと出てきた。
青白いひかりを放つ、神秘的な雰囲気をまとった巨大な狐の玉藻であった。
「おまえ、何のつもりだ」
玉藻が、頼邑の行く手をはばむように前に立って言った。
「その眼、気に入らぬ。人間らしく命乞いしろ」
玉藻は、揶揄するように声をあげた。
玉藻が放つ痺れるような殺気をだしているのにもかかわらず、頼邑は、表情を崩さない。玉藻の顔に驚いたような表情があった。
突然、巨大な獣が闇の中で現れれば人間なら臆するに違いないと思っていたからだ。だが、妙に落ちついてるのだ。
玉藻は、苛立ちを隠し、
「若僧、この森から無事に我らが帰すと思っているのか」
揶揄するように言った。
所詮、ただの小僧っ子と見て侮った。
「この森に来たのは私自身。意思に従い、ここを発つ」
静かな物言いであったが、強い気迫をはなっている。
ふたりは、塑像のように動かなく、痺れるような緊張と時がとまったような静寂がふたりをつつんでいる。
「ふん、許しを乞えばよいものを」
玉藻が低い声で言った。
「玉藻、あの子に名がないわけでもあるのか」
「おまえには関わりのないことだ」
玉藻が言うと、頼邑は鋭い眼光のまま言った。
「ある。あの子は私を救ってくれた」
一歩も引かぬ頼邑にじれったいと思ったのか、その訳を話を始めた。
今から十五年ほど前、金の髪と眼をする異形な赤子が産まれたことに人々は天災の前触れだと悟った。
そして、神の怒りに触れる前に、少女を山の神へ捧げたという。
その赤子こそ少女である。
赤子を憐れんだ神は、命を救った。それが、三狐神だった。三狐神は、狐の大神で玉藻の母である。数年前に命を遂げたとのことだった。
「名を呼びたければお前が名付ければいい。お前には心を許しているようだからな」
そう言い残し、闇の中へ吸い込まれるように消えて行った。
頼邑は、きびすを返して、少女のいる方へ歩き出した。
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