第16話 里の怒り
川面に提灯の明かりがおちていた。漁船の先につけた提灯である。
その明かりが笑うように揺れて、ひかりの襞のように八方にひろがっていく。
風のない静かな夜だが、船が揺れるたびに川面に映った明かりがくずれ、波紋とともにひろがっていくのである。
仕事を終えた漁師が、網を片付けをしていると大きな声が静寂を破った。向こうの岸から顔を真っ赤にした伊助と平八郎がおどるようにやって来た。その後ろからも男たちがいる。
「て、大変だっ」
平八郎は、ハァハァと荒い息を吐きながら言った。
「どうした。平八郎、それに皆まで」
漁師が、驚いたような顔を向けた。
「よ、頼邑さまが、早く助けねぇと」
「何があった」
「役人どもに謀られて危うく殺されかけた。おれたちは辛うじて逃げてきたが、まだ頼邑さまが不死の森にいる」
「な、何だって」
漁師の顔が強張っていたが、ただならぬ状況を察知した。
片付けばいい、と声を上げ、手にした網をほうり投げると走り出した。伊助たちが後を追いかけていく。
その頃、お静は明日の商いの支度をしていた。 お静は、二十歳を過ぎた年増である。二十歳を過ぎても独り身ではあったが、女の細腕で商売は繁盛だ。
そのとき、お静は通りのむこうから足早にやって来る漁師の姿を目にとめた。
だが、様子がおかしい。
普段なら、両脇に抱えた魚を左右にふりながら大儀そうに歩いて来るのだが、目を剥きながら走りにやって来るのだ。
お静は漁師の後ろから続いてくる伊助、平八郎に気付いた。お静は、路上に出て漁師の方に走り寄った。漁師は顔を真っ赤にして、あえぎながらやって来る。
顔には大粒の汗がひかっていた。
「なんだい、みんなにして」
お静が驚いたような顔をむけた。
「頼邑さまが不死の森に取り残されている」
伊助は、お静に事の詳細を話すと里の者がいつの間にか集まってきた。その中にお花とみねの姿もある。
「それであんたは、のこのこ帰ってきやがったのか」
お静は、口をへの字に引き結んで拳を握った。
「仕方なかろう。おれたちに何ができるってんだ」
平八郎が脇から口を挟んだ。
「できないならできないなりにやるのが男だろっ」
お静は、咎めるような厳しい目つきで平八郎を見たあと、その視線を伊助へと向ける。
「頼邑さまに助けてもらった恩を仇で返しやがって、この馬鹿たれ」
そう言って、伊助の鼻下の髭を引っ張った。
ギャッ、という伊助の叫び声に治丘衛が、
「何事だ」
と、お静を囲んでいる輪に入って食い入るように痛がる伊助を見ていた。
「説明はあと。あたしは長老に話してくる。あんたはすぐに男たちをかき集めてきな」
お静は、叱咤するような声を出した。
治丘衛はうずらの卵のように目を剥いていたが、
「おい、伊助たち男たちを集めろ」
と、口をへの字に引き結んで言うと、
へ、へい、と伊助たちは協力して里の男連中を呼び集め始める。
すぐに、長老の部屋には里の男たち、治丘衛、伊助、平八郎が顔をそろえていた。隣の部屋の座敷のなかほどに延べられた夜具の上に数人の男が呻き声を上げながら横たわり、そのまわりに女房や女が集まっている。狭い座敷には入りきれず、上がり框に腰を下ろしている者や土間に立って座敷を覗いている者もいた。
「先生は、薬を飲めばよくなるって言ってたからね」
枕元で、女房たちが涙声で言った。
その脇にお静が神妙な顔で座っている。
伊助たちと逃げてきた男たちの中に容態が悪化きた者が出始めたのだ。だが、幸いにも喉には異常はなく、熱があるだけだったので町医者の診断は、このまま熱が引けば助かる、とのことだった。
ときどき、男たちはうす目をあけて、まわりに座っている者に目をやると、役人どもめ、おれたちをなめやがって、とか頼邑さまを見捨ててすまねぇ、などとうわ言のようにしゃべった。
「すまねぇと思うなら、とっとと治しな。よくなったら、おまえたちにも手伝ってもらうよ」
お静がそう言うと、男たちは安堵したように目をとじた。
いっときすると、男たちの口から寝息が聞こえ、額に浮いた汗が行灯を映してひかっている。お静は、長老がいる部屋に入った。
「お静、皆の具合は」
長老が顔を上げて訊いた。
「先生の診断は、命の心配はないようです」
お静は、男たちはぐっすり寝ております、と言い添えた。
「そうか…。それで命じたのは役人なのか」
「へい、そいつらは役人っても下で働く奴らでやした」
伊助は、長老に事の成り行きを話した。
「奴ら、きっと上の者に命じられたものをおれたちに押し付けてきやがったんですよ。里の男がひとり二人消えても騒ぎにならねぇから」
「舐めた真似しやがって。あいつらがここに暮らせるのだっておれたちの里があってこそじゃねぇか」
「皆よ、すまぬ。わしの力量が足らずに劣るばかりで、この様だ……」
長老は頭を垂れ、申し訳なさそうに小声で言った。
「長老のせいではありませんぞ。どうかお顔を上げて下さりませ」
「そうですぞ。ここから我らが力を合わせればよいのです」
男たちはそう言うと、よくやく長老は顔を上げた。
「少し、奴らをみくびっていたようだな」
そう言って、長老はけわしい顔で虚空を見つめた。
刺すようなひかりが宿っていた。見る者を諫せるような凄みがある。これが月霧の里を代々と守り生きてきた長老のもうひとつの顔であった。
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